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17 マッサージ

「……ということです」
「あぁ判りました。ではその通りに手配しておきます。ティティとグレインには承諾の旨、貴方から伝えて置いてください」
「わかりました」
 ダイは頷いて、どうやって多忙な衣装を揃える侍女と厨房長を捕まえようか考えた。考えながら、目の前の男の署名していく手を眺める。さらさらと動く大きな手。
「……どうかしましたか?」
 ダイの視線を感じたのか、ヒースが怪訝そうに面を上げる。
「手を見てました」
「手?」
「いっぱい署名して、疲れないのかな、と」
 ヒースは一箇所にずっと留まっていない。しかしその移動の間にも、書類を捌いている。その手には、一時とも休まる暇がないのだ。
「疲れますよ」
 ヒースが署名を再開しながら答える。
「揉みましょうか?」
「は?」
 ダイの提案に、ヒースが上ずった声を上げた。
「も……なんて?」
「いえ、ですから、揉みましょうか、と」
「揉んでどうするんですか」
「気持ちいいですよ。私も疲れたときよくやります」
 ずっと化粧筆を握っていると、利き手が痺れてくることもある。軽く揉み解してやると、それが楽になるのだ。
「……気持ちいいのは、わかっています。ですが貴方は私の侍女ではない」
「侍女しかしたら駄目なんですか?」
「……そういうことではありません」
「何か問題が?」
「問題は……ありません。そういうことを、言われたことがないので慣れないだけです」
「そうなんですか?」
「普通、言わない」
 そうなのか。言わないのか。もしかして、人の身体に触るということは、特別なことだったりするのだろうか。花街では互いの身体にぺたぺた触っていたのだが。アスマの肩やら腕やらを揉む機会はよくあった。
 むぅ、と唇を引き結ぶと、ヒースが、窺うような眼差しを向けてきた。
「お願いしても?」
 ダイは頷いた。もちろん。こちらから提案したのに断るはずなどないではないか。
 ヒースは筆記具を置くと、立ち上がってダイを続きの間に誘った。枕が詰まれた長椅子が、本棚に囲まれて鎮座している。長椅子の前に置かれた卓の上には、食べ散らかした跡の残る皿と空の茶器が置かれていた。
「さっき昼食を取ったばかりなんです」
「さっき? もう夕方ですけど」
「取る暇がなかった」
 まるで悪戯を親に見つかって、叱られることを恐れる子供のようだ。ばつの悪そうにダイの顔色を窺う彼が、すこしおかしかった。
 枕はおそらく仮眠用だろう。それを脇に避けて、長いすに並んで腰掛ける。少し身体を傾け、ヒースと向かい合ったダイは、彼の片手をとった。
 初め、挨拶のときに握った手を、氷のようだと思った。
 今も確かに冷たい手をしているが、あの時ほどではない。血の、かよう手だ。
 ゆっくりと圧をかけて指先で揉み解していると、長いすの肘掛に頬杖をついていたヒースが感想を漏らす。
「……上手ですね」
「ありがとうございます」
 左が終われば次は右手。
「普段、誰かに?」
「昔はアスマとか、芸妓の子に。肩なんかも揉みます。しましょうか?」
 最近ヒースは妙に眉間に皺が寄っているから気になっていたのだ。近いうちに貴族同士の集まりがあって、そこに向けて色々と調整しているかららしい。マリアージュが出たくないと、先ほども駄々をこねていた。
 ダイの提案に、ヒースはやや躊躇を見せて、頼みます、と言った。手をもみ終わった後、嬉々として彼の背後に回る。
 広い、男の肩。背中。自分が望んで、持ち得ないもの。
 けれど近頃は、痛切にそれを望むことはなくなった。花街から、離れたからだろうか。
 無言のまま彼の肩をしばらく揉んで、最後にぽんぽんと軽く叩いた。
「終わりました」
「ありがとうございます。……あぁ、軽くなった」
 ぐるぐると肩を回しながらヒースが微笑む。その緩んだ表情に嬉しさがこみ上げて、ダイは笑い返した。
 卓の上に置かれた書類を抱え上げて、それじゃぁ、と退室しかけたダイを、ヒースが呼び止める。
「あぁ、ダイ、ちょっと待って」
「はい?」
 振り返ったダイに、ヒースは言った。
「されっぱなしというのもなんですから、私も貴方にしましょう」
「何を?」
「今、されたことと同じことを」
「え。いえですが」
「いやなら構いませんが」
 そういわれると、断れないではないか。
 ダイは仕方なく長いすに座りなおした。先ほど、ヒースが腰掛けていた位置だ。
「あまり上手くないかもしれませんが」
 隣に腰を落としながら、ヒースが言う。
「大丈夫です」
 誰かの手を揉むことはあっても、その逆はない。だから、上手い下手は判別がつかない。
 ヒースの手が、ダイの手をとる。先ほどのダイの動きを思い出しながら、なのだろうか。動きはぎこちなく、手順を思い起こして確かめているような節があった。しかし丁寧に扱われるのは悪くない。とても気持ちいい。
 うっとりとなりかけたダイの手を滑る男の指が止まる。怪訝さに瞬くと、目の前でヒースが硬直していた。
「……どうかしましたか?」
「いえ。……次、逆の手です」
「はい」
 指示された通りに手を差し出す。ヒースの眉間に、皺がよっている。
「ヒース」
「なんですか?」
「やりづらいなら、やらなくて大丈夫です」
 何せ、自分の手はとても小さい。その小ささに、彼はやりにくさを覚えているのではないだろうか。
「大丈夫です」
 何か、ヒースはムキになっているようだ。
「次は肩で」
 ひとしきり手を揉み解した後、立ち上がりながらヒースは言った。その眉間には、ますます深い皺。
「ヒース」
 しかし彼は聞く耳持たない。一体、何があったのだろう。
 彼が険しい表情を浮かべる一方で、その指の動きや細やかだ。力加減も絶妙で、ダイはあまりの気持ちよさに眠りたくなるほどだった。
 とろとろと、視界が歪んでいく。指が、首筋を滑る。時折耳の後ろを掠めるひやりとした感触すら、心地よい。
「ダイ」
「はい?」
「……寝ないでください」
「あ、すみません」
 慌ててよだれを拭って居住まいを正した。終了を告げてくるヒースに、ダイは書類を抱え上げて頭を下げる。
「ありがとうございました」
「いえ、こちらこそありがとうございました」
 扉を閉じながら、肩がとても軽くなっていることに、ダイは気がついた。こうなると彼に申し訳ない。なんだか、自分だけが得をしてしまったような。
 けれどどうして彼はダイの手をもみながら、表情を険しくしていったのか。
 ヒースの眉間の皺の理由を、何か仕事のことで嫌なことを思い出したのだろうと片付け、ダイは侍女と厨房長を探しに廊下を駆け出した。
(また、時間が空いているときにでももんであげよう)
 そうすればまた、少しは彼の気もまぎれるだろう。
 あの彼の、ふにゃりとした顔が忘れられなかったのだ。


 ヒースは自己嫌悪に脱力していた。
「男に欲情するとかって、どれだけ疲れてるんですか……」
 確かに触れたダイの手と首は、ありえないほどに白く柔らかかったけれども。
 肩と手は確かに軽くなったはずなのに、気がひどく滅入って、ヒースはしばらく長椅子で仮眠を取ったのだった。
 彼の勘違いが正される日は、まだ遠い。