番外 同じ月を見ていた
「ラルト」
戸口に腕を組んで佇むのは幼馴染だった。彼は返り血を浴びた姿のまま、微笑んでいる。
「着替えてから来いよ」
ラルトは足元に横たわる侍女から広がっていく赤い泉に足を踏み入れながら言った。生ぬるい赤が、足を汚していく。
「手助け必要かなぁとか思って」
「見くびるなよ」
「多勢に無勢ってことも、あるじゃん?」
「お前のところは平気だったか?」
「ごらんの通り」
彼は無事なことを示すように両手を広げ、こちらに歩み寄ってきた。腰に刀を佩いている。
「誰からか吐かせた?」
「面倒だ。多分ジムスだろうな」
「何番目だっけ?」
「上から数えて十一番目の兄上」
「あぁ。結構焦ってるねぇ」
「大分死んだからな。もう残ってるのは七人ぐらいだ。俺を除いて」
「まだ七人いるんだねぇ」
「お前んとこは?」
「ルカ。上から数えて五番目。ちなみに残りはあと四人」
「お前のところもいい加減多いな」
父はまだ存命だ。しかし次の玉座を狙って兄弟たちは争う。裏切りあう。その血で、玉座を贖おうとする。そしてそれは、宰相家も同じ。
「結構優しい兄で好きだったんだがな」
昔を惜しんでラルトが呟くと、幼馴染は笑った。
「それは俺達が、為政者になるって決めるまでの話。殺しにいく? 今から」
「そうだな。こう、近くの侍女を頻繁に懐柔されたら面倒だ。色事師にでもなればいいのに」
「まったくだねぇ」
くすくすと笑う幼馴染に肩をすくめて、ラルトは剣の血を拭った。鞘に収めて、血だまりを踏み抜く。
深夜の廊下は窓から明かりが差し込んで、幻想的だ。窓から外を見上げる。
「あぁ、今日は満月か」
雲ひとつない空を見上げて呟けば、ジンも倣って面を上げる。
「綺麗な月だ。死者も迷わず、まぼろばの地にいけるねこれなら」
ラルトは頷く。
「この美しい月夜に死ねるなんて、幸せだろうさ」
口の中に布をねじりこまれて、手足を押さえつけられる。檻の並ぶ館の中、彼らが何をすることといえばいつも同じ。もう、何回目だろう。幾度も幾度も、蹂躙される。そしてそのたびに願うのだ。
やめてやめてやめて。
――死んでしまって。
刹那。
銀の粒子が世界で踊り、男達の身体を飲み込んで膨れ上がる。光が爆ぜた、と思った瞬間、焦げ臭さがその場を満たしていた。
これが、魔の、暴走だと。
知れたのは、魔に宿る誰かの記憶が、遠い昔に教えてくれたから。
生暖かいものが降ってくる。体をぬらす。口の中から布を引き出すと、それをぷらりと下げて、ティアレは笑った。
笑って、泣いた。
これが、魔女の力。
周囲を巻き込んですべてを滅ぼす、魔女の力。
粉塵が晴れたあと、崩れ落ちた屋根の向こうから、月の光がティアレを柔らかく包み込んでいた。
「ねぇシノ。明日はラルトたち暇かしら」
「わかりません。最近お忙しくされておいでですので」
就寝前、レイヤーナは窓の外を見つめてため息一つ。シノは微笑んだ。
「そのようにため息をつかれては。ラルト様もジン様も悲しまれますでしょう」
「誰のせいでため息ついてると思っているのっていってあげるわ」
「レイヤーナ様」
「もう寝る。おやすみなさい、シノ」
布団をかぶって丸まる少女をそっと撫でて、シノは挨拶を口にした。
「おやすみなさいませ。レイヤーナ様」
その髪の上に、光が零れ落ちている。窓から差し込む、光。
「明るい月ね」
シノは独りごちた。
月の光は哀しいほどに柔らかく、夜の闇を薄めていく。
それは紙蝋や油すら持たぬものたちにとって救いだろう。
「この光が、皆に平等に降り注げばいいのに」
血塗られた手をして道を行く人たちのもとにも、この光が届けばいい。
この、安らかに眠る少女を照らすものと同じ分の優しさを宿して。
けれど世界は確かに、光と影により分けられていく。
哀しい願いは、誰にも届かぬのだ。
「お遊びじゃないと、いつも言っているだろう。シファカ」
膝を抱えて馬車の片隅に丸まっていると、父が困惑の声を上げた。
わかってる。けれどここしか逃げ場がないの。お父様。
心の中に言葉をぎゅっと秘めるように、シファカは硬く目を閉じた。
「シファカ」
伸びてきた手に、びくりと身体を強張らせる。
父は、気づいただろうか。
襟ぐりから覗く、衣服の下にある、あざに。
稽古でつけたものではないと、わかる、あざに。
今日は、月が明るいから。普段は闇にまぎれているものも、月光は暴き立ててしまう。
「……毛布を持ってくるから。今日はもう寝なさい。お説教は、また明日の朝」
父は嘆息して、馬車の荷台を降りていく。シファカは小窓からそっと父の姿を追った。調査のために野営をしている仲間達の元へと、彼は歩いていく。
普段、夜の闇の中にあってなお、鮮烈な褐色をしている不毛な大地は、柔らかな明かりに輪郭をぼやけさせて、幾分か人に優しくあるように、シファカの目に映った。
どがっ、と。鈍い音がした。
襟ぐりを乱暴に掴み上げられる。酒臭い壮年の男の顔が、間近にあり、拳がまた飛んでくる。
どごっ
鈍い音。一拍遅れて襲い来る衝撃と、鉄の味。
男は嗤い、むき出しの刃をこちらに振り下ろしかけ――。
「やめろ」
ことを見守っていた男が、仲裁に入った。
「くさしたガキだ」
男は気に入らないという表情を浮かべ、繰り返した。くさした――そしていかれた、ガキだ。
「これだけやられても、てめぇは表情一つ変えねぇんだな」
変えてどうにかなるものでしたら、変えましょうか。
笑い出したい気分だった。けれど殴られた顔が痛んで、上手く顎が動かなかった。
「名前は?」
「……エイ」
名乗ることが精一杯だった。喉に血が入って、そのまま咳き込む。
「気に入った。てめぇを雇ってやる。おい。手当てしてやれ。女共の面倒を見させる」
「こいつに?」
「丁度バレリオを殺して、手が足りなかった。こいつならそんなにほいほい売りもんに手、だしやしねぇだろ」
ガキな上におんなみてぇな細いからだして、たつもんもたたねぇだろう。
下卑た冗談に、男達は嗤った。
乱暴に立たされ、歩けといわれる。どこへ連れて行かれるのかは判らなかったが、どうやら助かりそうだった。もっとも、助かっても何か希望が見出せるわけではなかったが。生きられるというのなら生きるだけだ。死ぬときは死ぬだろう。
砂利道に、濃い影が落ちている。今宵は、月夜だったか。らしくもなく空を見上げた。美しい満月が、エイを照らし出していた。
「りひと、おはなししてー」
眠れぬ夜に、物語をせがむと、リヒトは優しかった。彼女が寝物語に選ぶのは、いつもヒノトにとって理解しがたいものばかりだ。けれど物語を紡ぐときばかりは、彼女の声が優しくなる。
不思議で、どきどきした。
「じゃぁ今日は、一人の王を好きになった薬師の話をしようか」
「くすし? りひとといっしょ?」
「あぁ。同じだ」
リヒトはヒノトの頭を撫でて、語り始める。
「むかーし昔、あるところに」
そういって、リヒトは空を見上げる。ヒノトはリヒトに視線の先にあるものが気になって、面を上げた。窓の向こうにある月が、子供心に怖いぐらいに綺麗だった。怖いのに、視線をひきつけて、離さない。
これだけ綺麗なら、たくさんの人が見ているのだろう。
けれどどうしてリヒトは、いつもそんなに哀しげに月を見上げるのだろう。
みんな、そんな風にかなしく月を見つめるのだろうか。
ヒノトは哀しくなった。とてもとても。
こんなに明るい光なのに。
「りひと、なく?」
袖口を引くと、リヒトは微笑む。彼女は泣かぬ、と言った。
「おぬしがいるから。なぁ、ヒノト」
「ひのとがいるから?」
「そう。誰か隣におれば、皆悲しくないのだよ」
哀しくないのか。
じゃぁ、誰か隣にいればいい。この月を見つめる人の傍に、誰かが。
けれど月の光は闇の中に一層濃く、一人の影を刻み込むのだと、ヒノトは知らない。
「宰老」
王は倦んでいる。すべてに。自分を呼び止める声音にすら。
「はい、陛下」
「女をここへ。政務に飽いた」
「私ではなく、侍従頭に申しつけください」
「だれだっておなじだ」
けたけたと嗤って、王は早くしろ、と身振りで示す。頭を垂れてその場を辞去する。部屋の外に控えていた侍従を呼びつけ、王の言葉を伝える。
女が一人、こちらに呼ばれてくるだろう。そしてその女はどうなるのだろう。返されるのならばよいけれど。殺されるのか捨てられるのか。それらは全て王の気分次第なのだ。
いつから、彼はそんな風に、狂っていったのか。
影が廊下を滑る。夜だというのに、やけに輪郭の明確な影だ。窓の外を見た。海の上に、柔らかい金の光が落ちている。満月だった。あまりに酷薄なほどに美しい光に、イルバは目を細めた。
遠い遠い日、月を見ていた。
同じ年、同じ日、同じ夜。
同じ、月を見ていた。
月だけが、それを知っていた。