BACK/TOP/NEXT

番外 いつか全てが終わるとき β


 優しくなどない、と、男は言う。
 乱暴な口調。粗野な態度。何事にも大雑把だ。彼が手を抜かないのは、政治という仕事。それのみといってもいい。
 けれど彼の心配りは、どんなときも細やかだ。
 本当に、どんなときも。



「シノ」
 呼びかけに立ち止まって振り返る。寒そうに肩をすくめ、上着の袖口に両手を差し入れて、廊下の端から歩いてくる男の姿がある。時刻は深夜。窓の外の闇に白い影がちらついている。雪が降っていた。
「イルバさん、お疲れ様です。まだ終わられてなかったのですか?」
「会議は終わってたけど、報告書がなぁ」
 こちらの問いに、男は苦笑を浮かべた。
「けど、もうやめだ。集中力が続かねぇ」
「屋敷に今からお帰りに?」
「いや、今日は書斎に泊まってく。この雪じゃぁな」
「どちらが住まいだかわかりませんね」
「そりゃお前も一緒だろうが」
 それぞれ小さな屋敷を宮城の外に持っているものの仕事の多忙さから互いに滅多に帰らない。使用人たちに世話を焼かれることに慣れぬせいもあるのかもしれない。あれこれと世話を焼く者たちを遠ざけたくなる。けれど、人の気配は恋しい。だから、同僚たちの気配のする宮城で夜を明かす。そして屋敷に戻る機会が更に減っていくのだ。
「お前の仕事は終わりか?」
「えぇ。これを私の部屋に戻せば」
 そういって、手元の書類の束を掲げる。男は微笑んだ。
「じゃぁ、それが終わったら書斎に寄れよ。いい酒が手に入ったんだ。一杯引っ掛けて温まろうぜ」
 杯を傾ける真似をする男の言葉に微笑み返す。喜んで、晩酌の誘いを受けた。仕事が終わったのちに酒の席を設けることはよくあることなのに、今日の誘いはことのほか、嬉しく思えた。
 雪の夜は落ち着かない。
 まだ降るには早い秋の終わりの雪の夜は、とりわけ。



 男が手に入れたという古酒は名品だった。男は温めたそれを空の杯に注いで放置した。最初の一杯は捨ててくれ。そんな風に言われたんだと男は言う。怪訝に思いこそすれ、追求はしなかった。

 瓶を空にし、酔いもほどよく回ってきた。疲労から、とろとろと睡魔が襲い来る。だめだ、と思った。この部屋で眠るわけにはいかない。いらぬ詮索をする輩が多いのだから。けれど同時に、寝てしまえ、と何かが囁く。いつもそうだ。いつもこの日には、全てが億劫になってしまう。
 結局、長椅子の上に横になった。
 酔い覚ましの茶をいれる道具を引き出そうと戸棚を空ける男の姿が傾いた視界の中にある。その広い背中を見つめていたところふと軽くなった口が言葉を紡いだ。
「今日は、命日なんですよ」
 今日は命日。
 自分が、たくさんのものを失った日。
 大丈夫。大丈夫と思っていても、こんなときにふと浮かび上がる。自分の弱さに笑ってしまう。もう、十年以上も経つのに。もう、そんなにも長い月日が、経つのに。
 消えない、傷のように、浮かび上がるものがある。痛みを忘れてひた走ってきた。我を忘れて走らなくてもよくなった。すると、止めた足に血豆ができていて、痛みを思い出す。そんな風に。
「そうか」
 男は頷いた。茶道具をしまい、男は果実酒を出した。小さな瓶に入ったそれは、自分のためだけに用意されているものだと知っている。男は酒をよく飲むが、あまったるい類のものは好まない。
 男は別の杯に果実酒を注ぎ入れて卓の上に置くと、こちらが横になる長椅子の端に腰を下ろした。男の膝にこちらの頭のてっぺんがくっついた。大きな手が、伸びてくる。酒のせいだろうか。熱を帯びた手。
「誰もみてねぇぞ」
 こちらの目元を手で覆って、男は言った。
 泣けと。
 遠回しに言っているのだ。
 こんなことは、優しさではないと、男はうそぶくが。
 女の涙を見ないふりできる男の、どこが優しくないというのだろう。
 泣きに笑いながら、薄く瞼を上げる。男の指の狭間から杯が見えた。果実酒の入った杯ではない。古酒の最初の一杯が入ったままの杯。
 男はこちらの瞼を手で覆ったまま、もう片方の手で杯を取り上げた。天に軽く掲げたその中身を、彼は一息に中身を呷る。
 捨てるのではなかったのか。
 そう尋ねかけて、あぁそれは、こちらが失ったものに対して注がれた酒だったのだと、死者に手向けられた酒だったのだと、唐突に気づいた。
 こちらが告げるまでもなく、命日だったと、男は知っていたのだ。
「ありがとう、ございます」
「何がだ?」
 感謝に呻くと、男からは、少し不機嫌にも聞こえる、そっけない声が返ってきた。



BACK/TOP/NEXT