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番外 いつか全てが終わるとき α


 ヒノトがシノの所有する館に招かれたのは、彼女が諸島連国から戻ってきてすぐのことだ。土産物があるから、とのことだった。
 宮城の外で仕事を持ってからというもの、ヒノトが奥の離宮に足を運ぶ機会は頓に減った。多忙さも理由の一つだが、最大の要因は遠慮からくるものだった。宮城で働かぬものが、付き人もなしにほろほろするというのは、あまりよいこととはいえない。宮城に足を踏み入れるときも、顔見知りの門番がいる裏門から忍ぶようにして、人通りの少ない道を行くのだ。それをシノは知っているからだろう。頻繁にシノが寝泊りしている宮城の官舎ではなく、所有する館のほうに自分を招いてくれたのは、彼女の気遣いだった。
 シノの館は自分がエイと共に暮らしている屋敷に輪をかけて小さなものだった。彼女の実家の、使われていなかった別宅を譲り受けたと聞いている。しかし手入れが行き届き、さわやかな風のよく通る家屋は、夏の暑さを感じさせない居心地の良い場所だった。
「冬場になると、寒いのよ」
 シノは謙遜してそういうが、冬は冬で暖かく保たれていることを知っている。
 招かれたのは午後からだったので、午前中に茶請けになりそうな菓子をいくつか作って持参した。シノはそれを玻璃製の綺麗な器に盛り付け並べてくれる。この大陸ではなかなか見かけぬ、色の鮮烈な玻璃は、諸島連国で手に入れたものだという。
 シノがこちらに、と差し出した土産物も、あちら特産の玻璃でできた小物だった。器や、茶道具、そして簪。
「カンウ様のほうには、イルバさんからあると思いますので」
 明らかにヒノト個人にしか当てていない土産物の内容に瞬いていたこちらの心中を読み取ってか、シノが先回りしてそう言った。
 諸島連国――正式名称を、マナメラネア諸島国連邦。内海の中心にある中立国に、ヒノトはまだ足を踏み入れたことがない。シノの語るかの国の様子は、とても魅力的だったが、耳に心地よい穏やかな音律で旅の内容を口にするシノの様子のほうが、なんだか嬉しかった。丁寧に語られる彼女の話を聞き漏らさないように、少し緊張して耳を傾ける。
 彼女と向き合うときは、いつも少し緊張する。それは彼女が、自分がこの国で生きるために学んだ作法や習慣一切の教師に当たるからかもしれない。彼女の教育は丁寧だが、実に厳しかった。
 また、この国において、シノこそ自分の後見人めいていたからかもしれない。この女がいると安堵するのだ。確固とした後ろ盾を得ているような気がして。甘えきることもできないが、とても近しい。姉や友人とも少し違う、しいていえば、叔母、もしくは、母、だろうか。そのような表現、彼女は怒るのかもしれないが。
 そんなふうにシノのことを見たとき、思い浮かんだのは養母のことだった。
 自分を育てた女、リヒトは、実母の妹だったという。そしてそれ以外のことを、ヒノトは知らない。リヒトが自分をどのように思って育てていたのかすら。
 結局、彼女は何も語らず逝ってしまったのだ。
 だが冷たくなってから初めて確認した覆面の下を思い返す限り、彼女はとても若かったし、その彼女が幼子を抱えて逃げ回るというのは相当な苦労があったと思う。それだけ骨を折って育てた自分に、彼女は何を思っていたのだろう。
 彼女は、自分を甘やかさなかった。厳しかった。いつでも。
 けれど、優しかった。だから自分は迷うことなく、あの養母を愛していたのだ。
 シノと向き合うとき、ヒノトは時折リヒトを思う。もし仮に、リヒトが生きていたとして、成長した自分と向き合った暁に、彼女が自分に見せていただろう姿を、ヒノトはそこに見るのだ。己をただただ消費して、自分の恋人でもない、子供でもない人々の幸せを見守る。遠い者からは偽善と蔑まれ、近い者からは、幸せを蔑ろにしていると嘆かれる、過酷な生き方をシノもリヒトも選び取った。しかしその生き方を卑下するわけでもなく、幸せそうに穏やかに微笑む女官長を見ていると、リヒトの人生もそう不幸ではなかったのだろうと、思うことができるのだ。 シノは、自ら不幸に飛び込んでいくような女ではない。リヒトもきっとそうだった。あの頃は幼くてとても理解することのできなかった養母の心中を、シノを通して自分はなぞる。


 土産物を渡すために招いた医者の女は、幼く笑いながらこちらの話に相槌を打つ。この女はいつも子供っぽく笑う。もともと年の割に幼く見える顔立ちをしてはいる。しかしその精神は、誰よりも成熟し誇り高いものだとシノは知っている。
 この女がまだ本当に幼い少女だった頃。
 彼女が、左僕射によって連れてこられたばかりの頃、よくそのやんちゃさや悪戯心に、シノは頭を悩ましたものだったけれど、思い返せば彼女がそういう行動を起こすときは、決まって周囲の空気が軋んでいたような気がするのだ。
 聡い、娘だった。
 甘やかし方の判らぬ娘だった。ずっと年の下の者達の面倒を見てばかりいた自分が、最も甘やかし方も誉めそやし方も判らず、苦手としていた娘が、ヒノトだった。
 彼女を見ていて、時折思った。いつの間にか誰かに頼られることや面倒を見ることを、全く苦にしなくなってしまった自分だけれども、もし、自分に子供が生まれていたならば、それはそれで甘やかし方が判らずに、頭を悩ませていたのではないだろうか、と。
 他人は甘やかすことができる。しかし自分の子供には、それが上手くできない。自分の親族を持て余しているのがよい例だ。
 一時は険悪とまで思えるほどにすれ違った妹達と、現在それなりに上手くやっていけているのは、ヒノトのおかげだと思っている。近しければ近しいほど、どう接すればいいのか判らなくなってしまう自分に、少し距離を置いて愛せばいいのだという方法を教えてくれたのは、彼女の存在だった。
ヒノトは他人でありながら、人の懐に入り込むことが実に上手かった。その無邪気さで。その、聡明さで。いつの間にか、家族のような近さを勝ち得る術を、この女は昔から体得していた。だからこそ、シノは彼女が苦手だった。
 人の心を掌握するのはティアレが長けている。人の心を奮い立たせるのはシファカが長けている。しかし人の心を読み、そのものが望むように、気取られないように立ち振る舞うという才は、この女が群を抜いていた。
 無意識のうちに、シノはその命を直接目にすることのなかった子供や、すれ違ってしまった家族の存在を求めていたのかもしれない。ヒノトはその心の隙間に綺麗に入り込んだ。そして、シノを戸惑わせた。
 しかし色々と手を焼いた分、彼女の成長はシノにとって特別な感慨を抱かせるものとなった。あの、栄養の足りてない者にありがちな痩せ方をした、日によく焼けた少女と、初めて会った日のことを覚えている。彼女は緊張に瞳を揺らし、笑顔で虚勢を張っていた。背伸びをした物言いや、小動物を思わせる動作、礼儀が欠如していると見做されるほどの遠慮のなさは子供そのものだった。しかし、シノの教えた一つ一つを反復し、身につけ、幼子のような屈託のなさはそのままに、彼女は女として磨かれていった。戸惑いながらも見つめ続けてきた少女の成長は、シノが今まで見つめてきた誰の成長よりも、誇らしいものになった。
 シノは彼女に数々の厳しい苦言――ティアレや部下の女官達から、厳しすぎるのではないかとたしなめられたことすらある――を向けたはずだが、ヒノトは変わらず信頼を寄せて笑いかけてくれた。
 自分と向き合うときのヒノトは面映そうに笑いながら、今もその華奢な肩に緊張を乗せている。それでも彼女は真っ直ぐに、こちらを見つめてくれるのだ。
 その彼女と、こうやって時折、食卓を囲むとき、不思議な気分を味わう。
 もし自分が、子供を産んでいたのなら――たとえ娘だろうが息子だろうが――きっとこんな風な関係に、落ち着いていたに違いないと。
 互いに心地よい緊張を挟みながら、それでも確固たる信頼と微笑を寄せて、時間を共有する関係。
 シノはヒノトを通して、自分が失った存在を僅かに辿ることができた。とても、幸せな形で。


「あら、おいしいわね。あまり見ないものですけれども」
「ありがとう。アリガが寮で時折作っておったのを、まねたものじゃよ。よかった、今日の茶にあうなぁ」
「えぇ。本当ね。夏なので、柑橘系のものがよいかしら、と思ったのよ。気に入りました?」
「うん。すっごく」
「ヒウから貰ったのよ。たくさんあるから、もしよければ茶葉を後で少し包みましょうか?」
「本当か? ありがとう!」
「その代わり、こちらの作り方を後で私にも教えてくださいな」
「もちろん。簡単じゃよ。材料も少ないし」
「あら、そうなの?」
「うむ。時間あるなら、後で一緒に作らんか?」
「素敵ね。そうしましょうか」
「あ、そのとき、妾のお茶の淹れ方も見てほしい。もう少し上手く淹れられんもんかなぁと思うんじゃよ」
「判りました。……ではその前に」

 いましばらく、午後のお茶を楽しみましょう。


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