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番外 指に絡まる一筋さえも β


「開けなさい!」
「いやじゃ!」
「ならせめて理由を言いなさい!」
「い、や、じゃ!! しつこい!」
「ヒノトっ!!」
 どんどんどん、と力の限り、自分と女の間を隔てる扉を叩きながら、エイは自問した。一体、何があったというのだ。
 夕食も終わりのころ、ヒノトが唐突に今夜は部屋に入ってはならないと言い出した。エイが理由を追求する間もなく、ヒノトは居間を退室して自室に閉じこもってしまったのだ。それから四半刻ほど、このような押し問答を続けている。
「ヒノト、いいかげんに……!?」
 どん、とひときわ大きく扉を叩いたエイは、前触れなく抵抗がなくなって前のめりに倒れそうになった。一歩踏み出して体勢を整える。前を向くと、先ほどまでエイをこれでもかというほど拒絶していた扉が、わずかに開いていた。
「……ヒノト?」
 呼びかけながら、その扉を押し開こうとしたが、中途半端な位置で扉は止まってしまう――何かに、ひっかかっている。
 首を傾げながら床に視線を落とすと、浅い呼吸を繰り返しながら倒れこんでいる女を床の上に見つけたのだった。


「……呆れました」
 寝台の端に腰掛ける男は、その言葉通り、心底呆れた顔をしていた。
「どうしてそこまで意地っ張りなんですか貴女は。風邪なら風邪だといってくだされば対処の仕様もあるのに」
「じゃって、風邪じゃいうたら看病するいうじゃろうおんし」
「当たり前ですよ。風邪で倒れてる愛しい女を誰が放置しておきますか」
 当人は気づいているのか気づいていないのか、さらりと愛しいという単語が入っていて、ヒノトは唇を引き結びながら布団を引き上げた。ジンがシファカにそういった単語を使うときはある種の確信があってだが、エイがこちらにその言葉を使うときは本当にあまりにも何気なくて、昔その言葉を渇望していた自分が馬鹿らしくなってしまうほどだった。
「熱上がりました? 大丈夫ですか? さっきより顔赤い」
「あぁぁあぁもう放っておけというのに! うぐっ」
 思わず叫んだらけほけほと咳き込んだ。叫ぶからですよ、と苦笑しながら、エイの手が額に宛がわれる。いつもは温度が高いと思える彼の手が、ひんやりとしているように思えるのは、やはりこちらの熱が高いからだろうか。
「移したら……大変じゃと思って」
「移りませんよ」
「移るよ。そういうところ変わらずまぬけじゃもん」
「……そろそろその認識改めていただきたいところなんですが。まぁいいでしょう」
 エイは立ち上がると、棚の傍まで歩み寄った。女中が準備した氷水の入った盥と手ぬぐいがそこにある。
「貴女が風邪を引くなんてこっち来て初めてじゃないですか?」
「そうじゃなぁ……覚えとる限りでも、人生で、三回目、ぐらい? 基本病気はせん」
「ですよね」
 貧困の最中にあっても問題なく生き残れていたのは、ひとえに自分が丈夫だったからだと思う。怪我由来のものを除けば、病になることはまずなかった。久方ぶりの気だるさと悪寒、喉の痛みに、閉口したくなる。
 氷水に浸していた手ぬぐいを硬く絞ったエイが、再び寝台の端に腰掛ける。長方形に形整えられたそれが、彼の手によってそっとヒノトの額の上に置かれた。
「きもちいい」
「それはよかった」
 エイが微笑む。その微笑に、ヒノトもまた微笑み返した。いつも誰かを看病している側だから、こんな風にされる側になると心地よい。
「もう、いってよいぞ」
 声が徐々に擦れてくる。おしゃべりもこのあたりが限界だろう。
「まだいますよ」
「もう眠るから。あまり、長居せんほうがいい」
「ヒノト」
 男の糾弾の呼びかけに、ヒノトはお願い、と懇願するように返した。
 自分の記憶する限り、エイもまた病知らずの男だ。過労と睡眠不足で頭痛を訴えることはあっても、彼が風邪や流感といったものにかかったことを、ヒノトは見たことがない。とはいっても、これだけ近くにいれば話は別だろう。
 否応がなしに移ってしまうことはある。しかし、その可能性が少しでも薄れるのなら、離れていたほうがいい。彼の負う責務は、そうそう誰かが代役を勤められるものではない。
「大丈夫、じゃから」
 な、と笑みを深くする。できる限り元気そうに装わなければ、彼は絶対にこちらにいようとする。
 彼をこの部屋に入れない、もう少し上手な言い訳を思いつくことができればよかった。しかし熱で朦朧としている頭では、食事の終わりまで平常を装うので精一杯だったのだ。
「判りました」
 長い嘆息を零して、エイはしぶしぶといった様子でヒノトの懇願を了承した。
「ちゃんと寝ていてくださいよ」
「うん」
 頷いて、目を閉じる。寝台が僅かにきしんで、男の気配が離れていく。
 ほっとした。
 確かに、ほっとしたのだ。自分のせいで万が一彼が倒れるようなことなどあってはならない。一緒に暮らしている時点で風邪が移ってしまう可能性は高いのだが、それでも確率を減らすように努力するに越したことはないのだから。
 なのに。
「ヒノト?」
「え?」
 寝台の傍から動く気配のない男が、怪訝そうに呼びかけてくる。目を開き視線を動かすと、彼は困惑した様子でそこに佇んでいた。
「手」
「……手?」
 彼に視線で示唆された先を見つめ、ヒノトは息を詰めた。
 毛布の端から出ている、自分の手。
 それが、エイの衣服の端を捉えている。
 振りほどけない力ではないはずだ。本当に、指先に衣服の端を絡めている程度のことだった。
 けれど、そんなことをした自覚のなかったヒノトは、慌てて謝罪しながら、彼を解放しようと試みる。
「ご、め……あ、あれ?」
 しかし、自分でも信じられないことだが――手が、動かなかった。
 指先の感覚が、麻痺している。
 ヒノトの手は、いまだ、エイの衣服の裾を、捉えたまま。
 動かない。
 動かせない。
「ちが。ごめ……」
「ヒノト」
「ちがう。これは……」
 弁解しながら、涙が出てきた。
 病を得たのは自分の失態だ。幸いもともと丈夫な質だし、長引くことはないだろう。食事を取り、薬を飲み、あとは眠るだけの自分の傍に、仕事で疲れているエイを引き止めておく必要など全くない。
 判ってる。判ってるのに。
 手が、動かない。

――いかないで。

「うーっ」
 涙を堪えるために硬く目を閉じる。しかし一度溢れたそれはぽろぽろと自分の意思に反して頬を伝った。身体は、いつも意思を裏切る。
 微かに、衣擦れの音がした。
 指先からエイの衣服が外される。それから間もなく寝台が軋んで、男の手がヒノトの身体の下に差し入れられた。布団ごと身体を引き上げられ、気がつけば、男の腕の中。
「まったく、どうしてそこまで意地っ張りなんですか貴女は」
 壁に背を預けるようにして寝台に腰掛けたエイは、ヒノトを布団ごと胸に抱きながら、先ほどと同じ言葉を、先ほどとは異なる甘く擦れた声で囁いた。
 男の親指が目元を撫ぜ涙を拭う。羽毛で触れるような柔らかさで。
 少し霞んだ視界の中で、男は熱を込めてこちらを見下ろしていた。
「ごめんなさい」
「なぜ? 最初から、私は傍にいるつもりでした」
「でも、いけというたのは、妾じゃった」
「そうですね。……本当に、困った姫君ですよ、貴女は」
 額に唇が落ちる。男の唇は、とてもひんやりとしていた。
「ほら、早く寝てしまってくださいよ。私が貴女に風邪を移してほしくなる前に」
「……どういう意味じゃ?」
 背中をゆっくりと擦りながらの男の言葉に、ヒノトは首を傾げる。だが彼は薄く笑ったまま、ヒノトの頭をその胸に抱きかかえただけだった。
「おやすみなさいヒノト」
 耳元の髪を梳きながら、エイが囁いてくる。

 すこしだけ、甘えることを許して。
 明日には、ちゃんと元気になっているから。

 男の身体に頬を摺り寄せながら、ヒノトは目を閉じた。
「うん。おやすみなさい」


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