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番外 指に絡まる一筋さえも α


 都に戻った翌日、けだるい身体をどうにか起こして、午前中は共に都に戻ってきた学院の友人達と手続き云々を行うために過ごし――当然のように、昨日迎えにきた後見人の男と一体どういう関係なのかと散々つっこまれ、話を受け流すことに苦労した――ヒノトが宮城に顔を出したのは、夕刻を過ぎてからだった。
 とはいえ、二人とも会食が入っているということだったので、夕食は久々に女官長ととることとなった。この国に来たばかりの頃は作法を教わるためによく同じ食卓を囲んだものだ。共に食事をするときは今も少し緊張する。だがシノはこちらがため息をつくほどの美しい所作で食事を片付けていきながら、ヒノトのこの三年あまりの生活について、質問を会話に挟んでくるだけだった。エイとのことをどうこういうのではなく、学院での生活の諸々を、ヒノトが答えやすい、あるいは、話したいと思っていた範疇のものに限って、シノは尋ねて来た。この女も、いい加減相手の心中に聡い女だ。
 食事を終えて、奥の離宮の庭を散策する。相変わらず見事な庭だ。離宮の庭だけはティアレや女官達が手入れを行う。春先特有のむせ返るような甘い匂いが、春の夕闇にまぎれて漂っていた。
 先に湯浴みを済ませ、皇后たちの会食が終わる頃だと告げられたヒノトは、奥の離宮の一室に入る。
 なんとなく、初夜を迎える妻のようだ。
 団欒のための場として整えられた部屋で、絨毯の上に正座しながら、ヒノトは思った。
 ほどなくし、離宮に詰めている女官が彼女達の訪れをヒノトに知らせる。
「ティアレ様、シファカ様がおいでになられました」
 そして衣擦れの音と共に現れた友人の女たちは、とてつもなく綺麗な笑顔を浮かべ、ほぼ仁王立ちになり、声を揃えて言ったのだ。
「ことの次第」
「説明してくださいね?」


 皇后ティアレ・フォシアナ・リクルイト。そして宰相の第一にして唯一の夫人、シファカ・メレンディーナ・シオファムエン。
 三ヶ月ほど前に一度は再会しているとはいえ、きちんと向き合ったのは丸三年ぶりということになる。どちらも現在一児の母であるわけだが、ちっとも子持ちだということを感じさせぬ若々しさと匂い立つような美しさがある。
 この国の実質的な最高権力者の二人組だ。皇帝と宰相は、彼女たちに頭が上がらない。とはいえ、二人が政治に口出しをすることなど、皆無に等しいのだが。
 女官の運んできた茶とお茶請けに手を出すこともなく、ヒノトは正座したまま淡々と『説明』を行った。その内容の大半はキリコに説明したものと同じだが、この国に最高権力者の男たち四人が集い、同時にシファカがこの国にやってきた頃のことや、昨晩エイと相談した諸々のことも含めた。
 長い説明――いや、これは釈明である――を聞き終えた友人達二人は顔を見合わせる。そして揃って呆れた視線をこちらに寄越した。
「あのさぁ」
 まず口を開いたのは、足を崩して嘆息を零したシファカである。
「いっちばん腹が立つのは、どうしてそこをまずジンに相談したのかってこと。私それむちゃくちゃ腹が立ったんだから」
「本当ですね」
 冷めてしまった茶に口をつけながら、ティアレが同意する。
「ジン様よりも、まず私達に話してほしかった」
「見くびらないでよ」
 茶碗に手を伸ばしながら、シファカが冷ややかに告げる。
「そりゃぁさ。ジンのほうがそういう手続き云々に詳しいし、あの人裏でこそこそするの大得意な人だからさぁ。ラルトさんよりもそういうの得意そうだしね。人選は私達も間違ってないと思うよ」
「それでも、私達は貴女の意志を汲み取って口を閉ざすぐらいわけないのですよ。エイと向き合うために学院へ赴きたいというのでしたら、私達の手でその全てを整えてあげることだってできました」
「私は無理でも、ティアレさんはそうだっただろうね。」
 あの頃、シファカは宰相夫人としての査定の真っ最中だった。この国の機構を理解すべく勉強中だった彼女に、ジンが行ったような手続きを行うことは不可能だった。
 それでも、とシファカは言う。
「でもエイに黙っておくことぐらい私だってできたし、できると、思ったし。そりゃ暗躍が得意なジンに手続きは押し付けちゃったらいいとしても、でも、話してほしかった」
 彼女らの怒りは判る。それはいつしか、エイから発せられた憤怒と同じ色だったからだ。立場を入れ替えれば、ヒノトもまた怒っただろう。何度も考えた。立場を入れ替えて何度も検証を行った。けれど結局、ヒノトが下した結論は、ティアレとシファカに話さない、というものだった。
 追い詰められていたからこそ下した決断、というよりも、自分を追い詰めるために下した決断だった。
 追い詰めなければ、彼女らに甘えて、結局エイと向かいあうことも中途半端に終わりそうだったから。
「ただ」
 沈黙するヒノトに影がさす。面を上げると、柔らかく微笑んでティアレが顔を覗きこんでいた。呼吸を忘れるほどに美しい、神の指先の跡が窺えるその美貌。
「話してほしかったというのは、結局私達の勝手なのでしょう。私達は、力不足だった」
「話を聞けば聞くほど、私達の出る幕はなかったってわかっちゃうんだよね。情けないけど。話を聞いても、ほんっとーに口を閉ざしておくだけしかできない」
 いつの間にか、ヒノトのすぐ傍に膝をついてシファカが笑う。
「そう考えると、エイに下手な嘘をつかなくてよかった分、何も話してもらってなくてよかったって、思うこともある」
「ヒノト、私達は悲しかった。けれどそれ以上に、情けなかった」
 頼られることのなかった、我が身が。助ける手立てを持たぬ、無力が。
 ティアレの囁きに、ヒノトは俯いた。
 彼女達を、信頼していなかったわけではない。
 幾度、助けてと叫びそうになったことか。
「ヒノトはすごいな。私達がヒノトの手助けなしで成し遂げられなかったことを、一人でしてしまうんだから」
 感嘆を込めて言うシファカに、ヒノトは頭を振った。
「そんなことは、ない」
「そんなことあるよ。私だったらヒノトの助言とかがなかったら、絶対ジンと向かい合うことも、査定に合格することもなかったと思うんだよね」
「私が、ラルトと本当の意味で向かい合うことができたのは、ヒノトのおかげだと私は思っていますよ」
「買いかぶりすぎじゃろう」
「買いかぶりなんかじゃないよ。私達、本当にヒノトに助けられてばかりで。でも、ぜんぜん、助けてあげられなくて」
「ヒノトがたった一人で頑張っているのに、私達はどうして話してくださらなかったのかと、そればかりで。貴女を信じて、貴女を応援しながら、待てればよかったのにと、今、思うのですよ」
 ヒノトは面を上げて、間近にある親友二人の顔を見た。何かを言うべきだと唇を震わせるが、結局何も言うべき言葉は思い浮かばなかった。
 ティアレとシファカは顔を見合わせて笑う。
「もう、全部終わってしまった。終わるまで、ヒノトは頑張り通した。今更私達がどうして話してくれなかったとか、頼ってくれなかったとか、ヒノトを責めても仕方がないし、ヒノトも困るよね」
「だから私達は決めていたのですよ、ヒノト」
 女の、白い手が、伸びてくる。
 気がついたとき、ヒノトの身体は、友人の腕の中に収まっていた。緋色の髪が落ちる華奢な肩口から、甘い香りが漂う。
「てぃ」
「私達は、決めていた。どんな結果になっても。私達が貴女を迎え入れる」
「一番怖かったのは、ヒノトが何も言わず私達の前から消えちゃうことだったんだけどね」
 ヒノトのこめかみに落ちる髪を梳きながら、シファカが言った。ティアレの腕の中から、ヒノトは視線だけを動かして宰相の妻を見やる。彼女は安堵のようなものに笑って、そうならなくてよかった、と言葉を続ける。
 そしてシファカもまた、ティアレの身体ごとヒノトを抱きしめた。
 ティアレが言う。
「お帰りなさいヒノト」
 シファカも言った。
「そして本当に、おめでとう」
 ――友人達を、信頼していなかった、わけではない。
 彼女達に甘えそうになる自分を追い詰めたかったのも、確かだった。
 しかし一方で、すでに唯一無二の存在として、誰からも認められている彼女らに、この苦悩が判るはずもないと思ったことは、事実だったけれど。
 親友達に嫉妬する醜い感情と、疎外感。理解してほしいとすら思わなかった傲慢。
 目頭に熱を覚えて、下唇を噛み締める。目元を友人達の身体に押し付けながら、ヒノトは思った。
 エイがあのまま自分を引き止めなかったら。
 傍にいてほしいと、彼が自分の手をとらなかったら、自分は今この場所にはいなかった。
 彼の傍を離れなければならないというのなら、彼のために生きられるのならば、この国のどこにいても、同じだと思った。逆に彼の傍にあったほうが辛かっただろう。だから彼の前から姿を消すと同時に、この都からも離れることを決意していた。
 けれどそれは、自分をこんな風にずっと待っていてくれていた、彼女達に対する手ひどい裏切りだ。よかったと思う。エイを失わなかっただけではなくて。
 彼女達を、失わずに、すんで。
 ごめんなさいと。
 長く長く、何も話さずにいて、ごめんなさいと、謝罪すべきだろうかと考えて、ヒノトは違うと思いとどまった。
 友人達の身体を抱き返す。
 頬を濡らす水滴の感触に苦笑しながら、ヒノトは彼女達を抱く手に、力を込めた。
「ありがとう――そして、ただいま」
 面を上げた友人達は、満足そうに微笑んで、今日は寝かさないからねと、冗談めかして言ったのだった。


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