とりこ(さやけくこひたもう)


 露子がかわいいのは今に始まったことではない。
 当時中学生だった露子に懸想した自分を、友人たちは変態だのなんだのと揶揄し時に真剣に忠告したが、一切取り合わなかった。それほど彼女は暁人を虜にし続けた。
 それは今も何一つ変わらない。
 むしろ今の方が、重症だった。



「アキさん、大丈夫?」
 どうしたの、ぼんやりして、と露子が不思議そうに瞬く。暁人は笑みを取り繕った。さすがに見惚れていた、という歯の浮くような台詞を、この公衆の面前で臆面なく吐けるほど恥知らずではなかった。
「ごめん、なんでもない」
「そう? ごめんね、付き合わせて」
 せっかくのお休みなのに、と露子は申し訳なさそうだった。しかし彼女は見当違いの考えをしている。露子が暁人に買い物のお供を依頼したのではない。そうなるように、暁人が会話の運びを操作したのだ。確かに連日の残業で疲れていて、彼女を抱いて眠りたい気分は有り余るほどにあったのだが、彼女の好みを知る機会を逃したくはなかった。それに露子は日差しの下で笑う姿が一番愛らしい。綻ぶ花のようなのだ。
 きゅっと暁人の指先を握って、露子は照れたように笑った。早く終わらせて、帰ろうね、などと彼女は言う。暁人さんの好きなもの、作るからね。
 露子は今も両親の元で暮らしているし、たとえ翌日が休日であったとしても、彼女を泊まらせることもないのだけれど、「帰る」という単語か彼女の唇から零れることに、喩えようのない喜びを覚える。連日、くたくたになって帰宅したときに、彼女がいたら、と思ったことは一度や二度ではないのだ。
 四月も半ばになって、気候もずいぶん温かくなった。冬の間はもこもこしていることの多かった露子も、ずいぶん薄着となっている。今日はレースの縁取りがついた白の長そでに、黄色の花柄がプリントされた透けた素材(オーガンジーというらしい)のチュニックを重ねている。ジーンズ素材のショートパンツからはすらりとした白い脚がのびていた。
 信号を待つために、立ち止る。ビルの影で、露子の白い鎖骨がなまめかしく存在を主張している。
 だんだん思考がぐらぐらし始める。
 信号が、青に変わる。
 露子と並んで、歩きはじめる。
 ショーウインドウの並ぶ通りを進みほどなくして、暗く細い通路が視界の端を掠め、暁人は反射的に露子の腕を引いていた。
「あ、アキさん!?」
 驚きに目を瞠る露子を路地裏に引き入れ、赤煉瓦作りを模したビルの外壁に彼女の肩を押し付ける。いたっ、という小さな悲鳴が木霊した。
「……アキさん?」
 背を壁に、左右を腕に阻まれ、囲われた形となった露子は、瞳を揺らして暁人を見上げている。小さな唇が物言いたげに開かれ、長い睫の縁取る瞼が、暁人の顔色を窺って瞬く。こんなにも簡単に囚われる彼女は、まるで観賞用に売買される、繊細で美しい小鳥のようだった。
 本当に可愛らしい。
 食べてしまいたいほどに。
 しかし通りを歩く若い男女の甲高い笑い声が、暁人を正気に引き戻した。雑踏の音が耳に蘇る。ほんの数十センチの距離を、大勢の人が行き交っている。
 焼き切れる寸前だった理性をかき集め、暁人は苦笑して身を話した。ほんの、戯れだよ、と。そう嘯くつもりで。
 それを押し留めたのは、露子の、細い指だった。
 ベビーピンクに塗られた爪が、暁人の腕に、そっと立てられる。衣服越しの感触に息を詰まらせ、露子を見下ろす暁人の脚に彼女のそれが絡みつく。
 彼女は何も言わない。ただほんの少し切なげに目元を潤ませて、暁人を見上げている。
 まったくこの娘ときたら! どこでそんな手管を学んだんだか。
 願わくばその技を行使されたことのある男が、自分だけでありますよう。
 暁人は露子の頬を撫でた。彼女はうっとりと目を細めて、あきさん、と呼ぶ。
 暁人は笑った。
 本当に、今も昔も、彼女にこんなに溺れている自分を。
 そしてじっと次の行為を待つかわいい恋人に、暁人はねだられるままキスをした。