喧嘩した翌日には(FAMILY PORTRAIT)


「あのっ……アマ」
 弁当を開いた上司が舌打ちした。気になって思わず覗き込んだ弁当箱の中にはオムライスが鎮座ましましている。ケチャップであっかんべーの顔を落書きされたオムライス。
 上司は給湯室の電子レンジに耐熱の弁当箱を乱暴に突っ込んだ。
「帰ったらシメル」
 既に自分の弁当を温め終わって二人分の緑茶を淹れていた暁人は、社内の女子社員が耳にすれば目を剥くような上司の悪態に堪えきれず吹き出した。


 露子が作った弁当を持参する暁人に合わせて、いつのまにか妹尾も昼食を作ってくるようになっていた。しかし、料理が趣味とはいえ毎日はいかなパーフェクトマンを地でいく妹尾も苦痛だったらしい。弁当はいつのまにか彼の細君の作品となっていった。
 昨夜はささいなことで喧嘩して――とはいえ、妹尾夫妻がおだやかに愛を育んでいるというような様子は聞いたことがない――それでも朝のキッチンにはきちんと弁当が用意されていた。その内容が、あっかんべ付きオムライスである。


 もう、この夫妻には笑わせてもらう。今日の露子への話題はこのオムライスについてで決定である。妹尾がこんなにも笑いと話題を提供してくれるひとだと周囲が知らないことがなお笑える。
「味は大丈夫なんですか?」
「食べてみるか?」
「……じゃぁすみませんいただきます」
 一切れ分けてもらって口に運んだオムライスは普通に、いやというかすごく、美味だった。
 ぱらりとした米に染みている味は市販のケチャップのものではない。これはトマトソースだ。それからミンチ。脂っぽさが一切ないことに驚いた。ふわりと薫るバター。ガーリックとペッパーがほどよく効いて、それがまた厚みある甘い卵とよくマッチしている。
「美味しいじゃないですか!」
「長年の付き合いだから俺の好みを熟知しているところがなおむかつくな」
 はぁ、と嘆息して妹尾はオムライスを平らげ始めた。
 妹尾音羽の妻とは幾度か会った。失礼を承知で正直に述べると、特別美人であるとか、かわいいとかではない。しかし特筆すべきは、あのなんともいえないパワーだった。ぐいぐいと人を惹きつけ、目の前にいるだけで、つい嫌なことを忘れてしまうような、笑いたくなってしまうような。
 思わず平伏したくなるような圧倒的な美しさと存在感を持つ妹尾を、凡人のラインに引きずり落とす不思議な魅力をたたえた女性だった。
「で、喧嘩の理由はなんだったんですか?」
「覚えてないな……いちいち覚えていたらもたない」
「けれど、このオムライスの件については物申すと」
「料理で遊ぶなと何回言ったと思うんだあいつは」
「え、そっちなんですか」
 まったくもって論点がおかしい気がする。だがそれが妹尾夫妻の日常なのだろう。
「あの女の物覚えの悪さを痛感するたびに毎回結婚したことを後悔する」
 うそばかり、と暁人は思った。後悔など、一度もしたことはないくせに。
「妹尾さんが結婚しようって思った決め手はなんだったんですか?」
「決め手?」
「妹尾さんだったら、何かありそうな気がして」
 妹尾は本当に大切なことは、熟考に熟考を重ねて、石橋を叩いていくタイプだ。彼自身も口にしている。本当にこの女でいいのか何度も自問した。
 それでも何年も何年もかけて口説き落とした。
 保温容器からマグに注いだコンソメスープをすすって妹尾はしばし黙考した。
「……あいつの趣味は旅行なんだが、俺もよくひっぱりだされていてな。実際面白い。俺ひとりだと絶対行こうとしないところに連れて行かれるからな」
「マチュピチュとか?」
 新婚旅行が某高所にある世界遺跡だったらしい。その際、奥方は酸欠で倒れて現地で大変だったのだとか。倒れた当の本人は笑い話として、旦那の方はげっそりとしながら語ってくれた。
「そんなところだ」
 と、妹尾は苦笑する。
「ごく普通の観光地やら温泉地やらも好きだが、海外なら普通は行くのを怖がるような地元民だけの店とか、密林とかもかなり好きで。あぁ一度、突然、初日の出を山の上から見たいとか言って登山させられたこともあった」
「……おつかれさまです」
「で、あいつなんて言うと思う? ”どんなしんどい道も、知らないところも、俺と一緒なら大丈夫”なんだとさ」
 降りかかる苦難も、霧かかって見えぬ未来も。
「最高の殺し文句ですね」
「だろう。……が、正直、俺もそう思った。この女となら最後は面白い場所に辿り着けるだろう。そんな風に」
 ごちそうさま、と律儀に手を合わせ、妹尾はかぽ、と弁当箱に蓋を被せた。
「その結果、毎日がバトルだけどな」
「でも妹尾さんって自分から煽ってますよね」
「さてな」
 暁人も弁当の具材の最後のひとかけを口に放り込んだ。野菜のグラッセ。兄の遥人の監督下、露子は本当に料理の腕を上げて、妹尾の妻とはまた違った形で彩りも味もよい弁当を作ってくれる。
「ごちそうさまです。……僕はもうすこし穏やかな夫婦生活を目標にします。喧嘩した次の日のオムライスには、ごめんねって書いておいて欲しい」
「教育するなら今のうちだぞ。男なんてあっという間に尻に敷かれるようになるからな」
「妹尾さんがそれをいわないでくださいよ」