無神経(神祇の楽園)


「昨日、人がまぐわうさまを初めて見たよ、エスメラルダ」
 そのように報告すると、女のヒトガタは美しい翡翠の目を咎めるように細め、縫い物をしていた手を止めた。
「レイン、そういうものは見るものではないのよ」
「どうして? 子孫を作っているだけだろう?」
「人は別に子どもを作るためだけに、人と触れるわけではないの」
「どういうことだ?」
 獣がまぐあう姿を見たことがある。そうしてそれには子ができた。このようにして生き物は種を増やしていくのかと驚いたものだ。
 だから昨晩、一組のヒトガタがまぐあう姿を見たとき、興味本位で観察してみた。獣よりも時間をかけるのだな、というのが、感想だ。
 子を成すことが難しいから、一晩かけてあのようにするのではないのだろうか。
「愛しいと思うから、相手に触れるの。相手の存在や温度を、確かめる行為なの。その結果、子どもができるだけなのよ」
「ふぅん?」
 子どもが結局できるのなら、獣と同じではないのだろうか。しかし女が違うというので、そういうものなのだと思っておいた。むやみに言葉を否定すると、彼女は怒ってしまう。怒りが重なると嫌われる、と、先日教えられたばかりだ。嫌われると、口を利いてもらえなくなるらしい。それは困る。
 姉とは違うかたちで自分に優しく、そして様々な知識を与えてくれるエスメラルダは、興味深い存在なのだ。
「貴方は誰かを愛しいと思ったことはないの? レイン」
 縫い物を再開しながら、エスメラルダが問う。
「……どうなんだろう。今まで、私は姉上と二人だけだったから」
 姉はそこにいて当然の存在で、愛しいという感情はよくわからない。
「そもそも、ヒトガ……人は、よく愛っていう言葉、使うね。それは一体どういう意味?」
「あら、神様なのに、わからないの?」
 エスメラルダはおかしそうに笑う。
「誰かを特別に知りたいと思うこと。誰かのために、特別何かをしてあげたいということ」
「それが愛? じゃぁ、愛しいと思うことと、触れたくことにはどういう関係があるんだ?」
「触れて、その人の姿形を、目で捉えるだけではなくて、肌で知りたいと思うから」
「知りたいっていう欲求が、愛?」
「知りたいっていう欲求が、愛の一部」
「全部は?」
「私にもまだ、わからないわ」
 それを知るために、人は人に触れるのだと、彼女は言った。
 さわさわと、風が吹いて、女の銀の髪を揺らす。楽園の木漏れ日に似た、美しい色の髪だ。柔らかそうだと常に思っている。けれどそれは本当に、柔らかいのだろうか。確かめる術を、知らない。
 あぁそうか、触れればいいのか。
 ふと思い立って、手を伸ばし、髪に指を差し入れる。エスメラルダは驚いたように面を上げ、こちらを見返した。
「どうしたの? レイン」
「柔らかいのかどうか、確かめたくて、触った。怒る?」
「いいえ。怒らないわよ。……私も、貴方の髪に触れてもいい?」
「いいよ」
 闇色の髪を、女の指がゆっくりと梳いていく。そのような行為、初めてだった。だいたい、誰にも触ってほしくはないと思っていたし、誰かに触れたいども、思ったことはない。皆ヒトガタは短い命を終えていくだけの、弱弱しく、とるにたらない存在だ。
 しかしエスメラルダは、違った。その、姿形も声も仕草もすべてが気を引く。一緒にいることが足りないと思ったのは、初めてだった。だからこそ、自分は楽園に戻らない。戻っている間に、彼女の一生が、終わってしまいそうで。
「レイン?」
 唇で触れた彼女の唇は、冷たく、柔らかかった。どうしてそうしたいと思ったのかは判らない。ただ、食べたことのない果実をかじりたくなった。そのような衝動に突き動かされたのだ。
 互いに驚きで硬直していると、背後で大きく羊歯が音を立てて揺れた。思わず共に振り返る。そこにいたのは、エスメラルダの「友人」だという、若いヒトガタ。
「あ、ご、ごめん……み、みるつもりじゃなかったんだけど」
 あははは、と笑って、そのヒトガタは走り去ってしまう。顔を赤くしてぱくぱくと口を動かしていたエスメラルダは、嘆息して俯いた。
「もう……」
 今度こそ、彼女は怒ったかもしれない。
 こちらとしても居心地が悪かった。それは彼女が怒るかもしれないということも理由の一つだが、もう一つは、禁断の果実をかじったことが、誰かに見られてしまった、そのような気まずさが胸を締めていたのだ。恐々と、エスメラルダの顔をのぞきこむ。彼女は唇を引き結んで、こちらの衣服を握った。
「……わかった? レイン。こういう風になるから、人と人が触れているときは覗いたらだめなの」
「……秘密を、見られてしまったような気分?」
「……そうね。居心地、悪いでしょう?」
 エスメラルダの言葉に素直に頷く。では、昨夜のヒトガタたちも、自分が観察していたと知ったら、このようななんともいえない居住まいの悪さを覚えるのだろうか。覚えるの、だろう。
「相手に対する配慮、忘れないで」
「判った」
「……本当にわかってるのかしら」
 はーと、盛大に吐息して、エスメラルダは縫い物をたたんで傍に置いた。もう、仕事をやめるようである。
「神様って、気配りとかがないのね。知らなかった」
「怒ったのか? エスメラルダ」
「怒っていないわよ、レインルートス。恥ずかしかったけれど」
 エスメラルダは微笑んだ。
「誰か今まで、こんな風に触れたことはあるの? レイン」
「ないよ。君が初めてだ」
 そういうと、彼女ははにかんだように笑った。その顔を誰にも見せたくない。あぁもしかすると、見せたくないものを見られたからこそ、なんだか気分が落ち着かないのだろうか。
 そうすると、昨夜のヒトガタたちには悪いことをした。生まれて初めて、そう思った。
「また触れてもいいだろうか?」
 愛というものがどういうものかは判らない。
 けれどこの衝動を、愛の断片だというのなら。
 なんと心地よく、なんと、ほろ苦い。
 こちらの問いに、エスメラルダは答える。
「もちろん。うれしいわ、レイン」