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EX.2 なりたかったもの


「アキさんは昔、何になりたかったんですか?」
 エントリーシートを埋めることに飽きたらしい露子が、話題を振る。暁人はイヤフォンを耳から外して過去を振り返った。
「教師になりたかったかな。数学教師。大学の教授とか」
 大半の若者が学問を嫌煙するが、暁人は例外だった。いまだに気持ちを落ち着かせようとするとき、数学の数式を延々と解いていくことがある。
「想像できます」
 くすくすと露子は笑った。
「アキさん、教えるのすごく上手だもの」
「そう?」
「わたし、今、塾で数学を教えているんですよ、あきひとせんせい」
 中学の時点で露子は理数科目がもっとも苦手教科だった。暁人が彼女に教えていた科目だ。今は得意科目のひとつだという。
 だいたい、暁人が教師過程を取ろうと一度は思ったのも、彼女のもとに家庭教師として通うようになってから、教える楽しさに目覚めたからといっても過言ではない。
「一応教育実習には行ったんだよ。でもその時点で、あー向いてないって思った」
「どうして?」
「高校には君みたいに素敵な生徒がいなかったんだよ、露子さん」
「えーなにそれ」
「熱心な生徒っていう意味ね。勉強嫌いのひとに教えるの、大変で一日で投げ出しそうだった。教材準備するのもしんどかったし」
「わたしも勉強すきっていうわけじゃないですよ?」
「でも僕が出した問題、しっかりいつもといててくれたでしょう?」
「だって……アキさんにがっかりされたくなかったんだもん」
 出来の悪い生徒だったら放り出されると思って、と彼女は言った。そのきまり悪そうに顔を伏せる娘の頭を思わず引き寄せて、迷いなく口づける。
「きゃ! もー。なぁに、突然」
「いやなの?」
「ちがいます! びっくりしたの」
 もう、と露子はエントリーシートに戻っていく。暁人も語学学習に戻った。最近特に海外出張が多いのだ。現地の工場では通訳が付くが、互いの担当者とは現地の言葉で多少なりとも話せたほうが何事もスムーズにいく。ところが暁人はどうもこの語学、というものが苦手で――同期に言わせれば、十分らしいが。
 露子は黙々とエントリーシートを埋めはじめた。彼女の傍らには暁人が添削した自己PR文のメモがある。人事部に配属された同期と呑みに行く機会があって、それとなく新卒の選考の折に見るポイントのようなものを聞き出しておいたのだ。露子が志望する業界は暁人に馴染みのないものだが、企業の新人採用の要点など、どこも似たようなものだろう。
 露子が社会の扉を叩いたその後は、自分たちはどうなっているのだろう。
 無論、彼女を愛し続ける自信はあるし、一生傍にいてほしいと思っている。が、問題は彼女だ。露子はまだ学生で、これからいろんなものを見て、いろんな価値観を知って、いろんなひとに出会って。
 その中で、果たして暁人は彼女の中に生き残れるだろうか。
 年齢の差は役立つこともある――たとえば、人事部に勤める同期に話を聞くこともその一つだろう――が、できれば、彼女と学生時代を共有できる程度に近く生まれていたかった。家庭教師をしていたときも、何度も思った。
 もし、自分たちが、たとえば同じ学校の、先輩と後輩だったら、どうだったのだろう、と。
 同級生だったら。
 同じ世界を、同じときに、同じように見て、価値観を共有して。
 こんな風に、生きる時間のズレのようなものに、不安を覚えたりしなかったのだろうか。もっと早くに、彼女を。
「アキさん」
 呼びかけに、暁人は我に返った。
「何?」
「終わりました。紅茶入れに行きますけど、コーヒーいります?」
「うん。ありがとう」
 キッチンへと向かう恋人の姿を見送った暁人は、テーブルの上に広げられているエントリーシートを脇へ追いやった。汚れでもしたら困る。それから自分の使っているテキストを重ねて、ラックに入れた。MP3プレイヤーを停止して、それも押しやる。
 マグカップ二つを手に戻ってきた露子は、そのまま暁人の膝の中に潜り込んできた。
 ことん、とカップをテーブルの上に置き、照れ臭そうに彼女は微笑む。
「どうしたの? 露子」
「なんでもないです。ただ……わたし、アキさんの、たったひとりの生徒なのね、と思って」
 暁人の手をもてあそびながら、彼女は続けた。
「アキさんが、家庭教師で、よかった。わたし、きっとアキさんがせんせいじゃなかったら、学校も今の大学に入れなかったし、心美ちゃんたちに会うこともなかったし、やりたいなぁっていうお仕事も、見つけられなかったのね」
「……それはどうかわからないよ」
「えーでも、わたしアキさんがせんせいじゃなかったなんて、やっぱり考えられないです。アキさんがせんせいでよかった。今も、教えられてばかりですし」
 露子は、面映ゆそうに笑う。
「わたし、これからもアキさんのいい生徒でいられるように、がんばりますね」
 むしろ教えられてばかりなのは、自分だと思う。
 暁人は腕の中のいとしいひとを強く抱いて、微笑んだ。
「いい生徒もいいけど、いい恋人でいてよ」
「が、がんばります……」



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