暗い瞳
「俺ってさ、暑苦しいだろ。自覚あるんだよ。どうにかならないかなって思うよ」
自嘲しながら頭を掻いた僕を、彼女は真っ直ぐ見た。
「そう? 私はいいと思うよ」
高校一年の春、クラス委員になった。
「だって、何事にも一生懸命っていうことでしょう?」
高校二年の春にも、クラス委員になった。
「私は嫌いじゃないけど」
そして相方となる子は、いつも同じ子だった。
「大事にしたら、いいと思うよ、そういうところ」
その子は、笑ってそういった。彼女の言葉はまるで根が水を吸うように、僕の体に浸透していく。
あまりにもその笑顔が愛らしかった。
その笑顔を自分だけが、知っているのではないか。そのことが、ほんの少し誇らしかった。
「なんか女子賑やかだなぁ」
昼休み、教室に戻ると女子が騒いでいた。男子の誰がかっこいいか。そんな話題だった。教室内にいる男子生徒も槍玉に上がっている。かっこよくないと正面きって言われた男子は、仲間と共に、女子にブーイングをかましていた。
「あれ、今日はなんか珍しい。委員長らまで混じってるぜ」
隣にいた友人が僕のわき腹を小突いて、件の少女を指差した。黒髪黒目の地味な様相の少女が、友人と共に噂好きの少女たちの輪に混じっている。昔、あまり人の輪に入ることが得意ではないのだと聞いた。正確には、同年代の少女たちが苦手らしい。その彼女が、騒がしい少女たちの輪に混じっている。珍しいことだった。
外が雨だからだろうなと思った。昼、晴れていたら、どこかで弁当を食べているらしく、ぎりぎりまで戻ってこない。雨だと、少し早く戻ってくる。
「やっぱ一番かっこいいのは妹尾君だよねぇ〜!」
ミーハーな少女たちはそこを主張したかったようだった。やっぱそれかよ! と周囲の男子が声を上げる。僕の隣にいた友人も、だよなぁ、と呆れ顔。
妹尾は、男の僕からみても、かっこいい。その整った目鼻立ちや体躯もそうだけれど、一挙一動が目を引く。はっとさせられる。妬ましいを通り越すほどに。
「ねぇ、委員長はどう思う?」
静かに少女たちの話に耳を傾けていた委員長に、話が振られた。おそらく、単なる同意が欲しかったはずだ。色恋沙汰に興味のなさそうな委員長ですら、彼に焦がれるのだと。
けれど委員長は、判らないというふうに小首を傾げる。
「私は……あんまり」
「えぇ!? 思わないの!?」
委員長の微笑は曖昧だった。目を伏せて、彼女は言う。
「……大変だな、とは、思うけれど」
期待違いの言葉に、軽く落胆したのか、それとも、やはり委員長だと納得したのか。
肩をすくめた少女たちは、また、話に戻る。
当の妹尾は、教室にはいなかった。
「妹尾の何が大変そうなの?」
興味を惹かれて聞いてみた。雨の放課後。教室には二人だけ。委員長の傍は雨のように静か。
ノートに、連絡事項を書き付けていた委員長は、少し笑う。
「聞いてたの?」
「えーっと、まぁ。騒がしかったし」
「うん。賑やかだったね」
さらさらという、シャープペンがノートを滑る音。そこに、雨の音が少し混じる。
「で、妹尾の、何が?」
「どうして気になるの?」
「……ほら、女子で妹尾かっこいいって騒がないのって、珍しいだろ?」
「……かっこいいと、思うよ」
書き付けが終わったらしく、ノートを閉じて彼女は言う。
「……でも、さっきは」
「みんなが、かっこいいって思うのは、彼がかっこいい自分を意識しているから。そういうの、大変だよね」
僕は目から鱗の思いで、彼女の言葉を聞いていた。
「……芸能人と一緒。自意識過剰なんだよ、きっと」
くすりと笑った彼女は、妹尾を小馬鹿にしているように思えた。僕は驚きに瞬く。
「委員長、けっこう、人と違う見方、するんだな」
僕の時もそうだった。あの言葉で、僕は気が楽になった。
そうかな、と少女は小首を傾げる。さらさらの黒い髪が、肩口から流れ落ちる。
すこし、触れてみたい。
きゅ、と。
唐突に、足音が響いた。
はっとなって、振り返る。そこには、噂の人物が、部活のユニフォームのまま立っている。
僕は、息を呑む。
いつも明るく、人の目を引いてやまない妹尾が、あまりにも暗い、瞳をしていたから。
まるで、怒っているような。
こちらに、挑みかかってくるような、その眼差しに、射殺されそうになる。
けれど、それは僕の見間違いではないかと思うほど、一瞬のことで、瞬いた後には、いつもの笑顔の妹尾が立っていた。
「僕の悪口? なーんちゃって」
彼は小首を軽く傾げ、おどけた口調で言う。
「二人とも、何やってたの?」
「委員会の仕事」
答えたのは委員長のほう。ふぅん、と妹尾は笑う。
二人は、視線を合わせる。妹尾が、口元を、吊り上げる。
「散里さん。外、雨、けっこうひどいよ」
「……ほんとだね」
「気をつけて、帰って」
「ありがとう」
そして、妹尾は委員長から視線を外し、僕を振り返る。
「芝崎もね」
「あ、あぁ……」
妹尾は教室のロッカーからタオルを取り出す。大き目のスポーツタオルを、取りに来たようだった。
「帰ろう、芝崎君」
妹尾を見送ってから、委員長は言う。
「あぁ……うん」
頷きながらふと思ったことがある。
妹尾だけが、委員長を、きちんとした苗字で呼ぶんだなって。
今思えば、その意味を深く考えるべきだった。小馬鹿にしたように、彼女が笑った理由。あの、クラスメイトの少年の暗い瞳の意味。ゆっくりと交差した二つの視線と、名前。
秋の終わり、寒い日だった。いとこに呼ばれて面倒だなとか思いながらもゲーム大会に出席した。やるからには徹底的にがモットーだ。年下のいとこたちのためにも自分のためにもと思い、夜中、買出しにでた。そこで、珍しい人にあった。
「あれー、いいんちょう?」
「芝崎くん?」
委員長は、甘いものをたくさん籠に入れていた。帰ってから食べるのだという。普段と違う私服の委員長。軽く結わえた髪が、目の前でさらさら揺れた。上着と、パーカートレーナーの襟元から覗く鎖骨に、触れてみたかった。
けれど、そんなこと言えるわけがない。
マフラーを、貸した。その首元を、早く僕の目の前から隠して欲しかった。
そこに、妹尾がやってきた。
「芝崎」
ぞくりとする。
また、あの目だった。
暗い、暗い、目。
「芝崎じゃん。どうしたの?」
けれどそう言って首を傾げる妹尾は、いつもどおりの妹尾だった。明るい声にほっとする。
二言三言、声を交わして、ゆったりと、妹尾の視線が、委員長に向けられる。
「散里さんは、何をしてるの?」
柔らかな声だった。男の自分すら、ぞくりとする猫撫で声。妹尾、女の子にはみんな、こんな甘い声で話しかけているんだろうか。女の子たちは皆、耐えられないだろう。妹尾の、耳障りのよい、こんな甘い声で呼ばれては。
「夜中なのに、甘いもの食べたくなって、買いにきたんだってよ」
彼女を、とられたくない。
反射的に、妹尾の問いに答えていたのは、そんな意識が働いたからかもしれない。
妹尾は、にこにこ、笑っている。
なのに、委員長は、妹尾に尋ねた。
「どうして、そんなに、いらいら、しているの?」
妹尾から、笑顔が、消える。
驚きに、二人を見比べる。
妹尾は笑っていた。苛立っているようには見えなかった。むしろ、格別優しいとすら思えたぐらいだ。
委員長が、妹尾を見る。あの、真っ直ぐな目で。
次の瞬間、妹尾は委員長の手を取って、歩き出してしまった。
「お、おい」
思わず、静止する。待て、妹尾、お前委員長をどこへ連れて行くんだ?
妹尾が視線を寄越す。思わず僕は、立ちすくむ。暗い暗い、暗い、目が、僕を射抜いた。
妹尾のことを、委員長に尋ねたかった。
尋ねたかったけれど、臆病な僕は尋ねられなかった。
一体、妹尾と委員長の間に何があったのだろう。けれど委員長は、別段妹尾と付き合っているとか、そういう風でもなかったし、意を決して、彼女を映画に誘った。
あっさり、承諾をもらえた。
女の子と二人、遊びにいくなんて初めてだ。前日から上手く眠れない。どきどきして、妹尾のことを、忘れた。
忘れるべきではなかった。
映画を楽しんだ帰り、今度はクリスマスに出かけようと誘ってみることにした。これで了承をもらえれば、脈があるんじゃないかとかすかに期待した。
けれど、委員長は偶然鉢合わせした妹尾を見るなり表情を強張らせて、そしてとうとう、泣き出してしまった。
妹尾が、必死の様子で駆け寄ってくる。委員長と、口論をする。僕には衝撃的だった。普段、笑い声しか立てていないような妹尾が、怒声に似た声を上げていることにも驚いたし、物静かな感のある委員長が、彼に負けじと、けんか腰で反論していることにも驚いた。
そして何より驚いたのは。
「かなえ」
「みちる」
二人が、名前で呼び合っていることにだった。
委員長と妹尾の接点を、僕はクラスメイトであるということ以外に思い出せない。それほど、二人の間には距離が隔たっていた。名前で呼び合う? しかも、呼び捨てで?
彼女の元に戻ろうとした妹尾を、委員長が息も絶え絶えで引き止める。妹尾が、たまらないという表情をして、委員長を抱きすくめる。妹尾が、何度も、かすれた吐息で、委員長の名前を呼ぶ。委員長が、涙をこぼして、顔を妹尾の胸に擦り付ける。
妹尾は委員長の手を取り、そのまま走り去ってしまった。
そして僕は聞いていた。
去り際の、妹尾の言葉。
「かえして、もらうよ」
あの、暗い暗い、瞳をして。
あの瞳の意味を、きちんと考えるべきだった。委員長と二人きりのとき、ふいに現れた妹尾が必ず向ける視線の意味。
虚脱感いっぱいで家に帰り、鏡を覗き込む。そこには、暗い瞳の男が映っている。
そのとき、理解する。
妹尾のあの、瞳の意味。
――嫉妬に眩む、男の目。
僕の一番の敗因は、きっと僕が、彼が彼女にあれほど溺れているのだと、気づかなかったことにある。
気づくヒントはたくさんあった。暗い眼差し。きちんと呼ばれる名前。交錯する視線。そして。
『――自意識過剰なんだよ、きっと』
少し馬鹿にしたような、それでも優しい彼女の声色は、身内に向けられていたものだったからこそなのだ。
「ちくしょう……」
僕は泣いた。泣くことをとめられなかった。多分しばらくは引きずるだろう。僕が覚えた初めての恋だった。初めてじゃなかったとしても、いい加減な恋なんてできない。不器用な僕は、目の前のこと全てにぶち当たっていくことしかできない。時折、他人に熱過ぎる、と言われてまでも。
『だって、何事にも、一生懸命ってことでしょう?』
そこが僕のいいところだよ。あの、僕を真正面から捕らえて離さなかった瞳と、優しい声音が耳に甦る。
『かっこいいとは思わない。ただ、大変だと思う』
彼女だけは妹尾を憧憬の対象としてみなさなかった。彼女だけは、きっと妹尾の本質をみているのだ。
そんな彼女に恋をしたことに後悔はない。
ただ、もっとあの暗い瞳の意味に気づいていれば、もう少し早く――妹尾よりも先に、彼女を手に入れられたのではないか。そう思っただけだった