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手の行方


 手を、振り払われた。
 どうして振り払われるのかが判らなかった。いつもその手は優しく自分の手を握り返す。だから今日も握り返されなければならなかった。そうして、優しい微笑が振ってこなければならなかった。しかしその日はいつもと異なっていた。
 温かだった手は冷気にさらされ冷え切っていた。いつも微笑に細められていた目が、冷たく拒絶の意志を示す。
 呆然とした自分に、彼女は頬を寄せた。ごめんね。そう言った。その言葉が何を意味するのかはわからない。周囲の目は彼女を責めている。だから自分だけは許さなければとおもった。ただ、いいよ、といった。
 その言葉を免罪符に、彼女は再び自分の身体を突き放して、逃げるようにその場を立ち去る。
 そのとき初めて、彼女の謝罪の意味を知ったのだ。
 イカナイデ――……!
 わが身を引きちぎられたかのような痛みに、胸が軋む。泣いても、叫んでも、手を伸ばしても、その背が振り返ることは決してなかった。
 だから笑った。
 泣いても泣いても、誰もつなぎとめられないのだから。
 笑うようになった。
 笑っても、やはり誰もつなぎとめられないことには、変わりがないということに気が付いたのはいつだったか。
 ただ、手を振り払われることに、脅えていた。


 ばっ、と。
 自分の身に触れた何かを、振り払った。
 防衛本能がそうさせた。例えば、物思いにふけっている最中に、不意に昆虫が目の前を横切ったとする。意識せずとも身体が動いて、眼前を飛ぶそれを排除しようとするだろう。それと同じ、不意をつかれたことによる、無意識による動作。
 跳ねる心臓を押さえつけるように自らの胸部の衣服を強く握り締め、上半身を起こした叶は、目の前で蒼ざめている少女の姿を認めた。
「ち、るさと」
 少女はクラスメイトだった。散里みちる。彼女はくすんだ赤のランドセルを足元に置いて、こちらを覗き込むように上半身を前に傾けていた。彼女を中心に、視界が急速に色を取り戻す。
 あぁ、自分は、河川敷にいたのだ。
 学校からの帰り道。姉上の命令により買い物をして、途中の土手で寄り道をした。そしてそのまま春の日差しの温かさに、つい寝入ってしまったのだと、叶は思い返した。
 しかし今は既に日がとっぷりと暮れている。姉に頼まれた野菜の入った買い物袋を一瞥しながら、姉の冷ややかな眼差しを脳裏に浮かべた。姉を怒らせるのはよくない。大変、よろしくない。
「……時間になっても、帰ってこないから、心配してるみたいだよ。ご家族の方、うちまで探しにきてたって」
「商店街まで……?」
「うん」
「心配?」
「って店長はいってたけど?」
「僕を?」
「あんた以外の誰を」
「誰が」
「誰がって……」
 みちるの言葉に、叶は笑い出したくなっていた。
 あの家族に、自分を真に心配するものなどいるものか。
 叶は夢の余韻に震える手のひらを見下ろした。精一杯伸ばした手のひら。それを力いっぱい振り払って、遠ざかる小さな女の背中。その日から、腫れ物を扱うように、遠ざかっていった兄弟たち。何事にも無関心な父。
 あの中に、自分を心配するものなどいるものか。
「……で、なんでお前がここにいるの、散里」
「こんなところで平和に居眠りこいてるあんたを、見かけてたから、一応見に来た。まだ、寝てるなんてよっぽど平和ボケだよね。誘拐されて、変な趣味のおじさんとかに売り飛ばされてもしらないよ」
「そういう発想がでてくるって、どういうアタマしてんだよ」
 本当に自分と同じ年なのか、と思いながらも、自分も彼女の立場なら同じ発想をするだろうと叶は思った。互いに、まだ十にもなっていないというのに。
 買い物袋をとりあげて、立ち上がる。まぁ彼女のお陰で、彼女の言うとおり誘拐されずにすんだわけであるし、一言礼をいってもいいかもしれないと、叶は踵を返しざまに彼女を見た。みちるは叶をまるで睨みつけるようにして見ている。彼女の機嫌がすこぶる悪いことがわかって、叶は彼女を置き去りにして帰りを急いだ。機嫌が悪い彼女に一言でも話しかければ、口論になることが予想できたからだ。


 叶と入れ替わりに姉もでかけ、家には誰もいなくなった。今日も叶以外全員が出払っている。静まり返った家で一人、食事をとったり、宿題をしたりする。家族の中にいることも苦痛なのに、一人でいることも苦痛だ。
 集団の中にいても、一人でいても、いつも苦痛がついてまわる。この苦痛を理解するものなど、どこにもいやしない。
 家族の中にいると思い知らされる。自分が、他の兄弟たちと何かが違うということ。
 一人になると思い出す。母親と思っていた女に置き去りにされた日のことを。
 あれは母親ではなかったのだと、成長すればおのずと判った。経済力もない若い女が、血もつながらぬ子供を連れて行くことなどできやしない。それでも思い出さずにはいられない。
 振り払われた、手の冷たさを。
 あれが家を出た日から、まるで置き去りにされた他人の子供を見るような、兄弟たちの哀れみの目を。
 血がつながっているのに。
 別の誰かが、育てたというだけで。
 たいして面白くもないバラエティ番組を見ていると、電話が鳴った。商店街のパン屋からだった。みちるが住んでいるパン屋だ。なぜ彼女が赤の他人の家に住んでいるのか、叶は知らない。知りたいとも思わない。
知ることが、怖くもあった。
『ねぇ叶君、みちる、見ていない?』
 店長の声は焦燥に震えていた。本当の親以上なのではないかというほどの心配のしようだった。学校から帰ってすぐに叶の居場所に心当たりがあるといって、よりによってランドセルを背負ったまま家を出で、戻らないという。あれから、戻っていないのかと叶は驚きながら、みていないよと嘘を言って電話を切った。そのままスニーカーを履いて家を出る。苛立った。他人の家に入り込んでいるのにも関らず、こんなにも心配されている彼女は、一体何をしているのだろう。
 彼女のほうが、誘拐されて、変な趣味の人間に売り飛ばされているのではないかと叶は思った。


 みちるは土手で膝を抱えていた。声をかけるかどうか躊躇った。夜の川の水面は近くの橋を通る車のテールランプを反射して暗い橙色に輝いていた。その暗い光のせいか、みちるの瞳も闇に沈んで、顔色は窺い知れない。
 仕方なく、叶は土手を降りた。彼女の無事を確かめたのだから、このまま彼女を放置しておくのも一興だ。しかしみちるを見つけた以上、放置しておいて風邪でも引かれたら目覚めが悪い。春とは言えど夜は冷える。上着も着ず、長時間同じ場所で微動だにしないなど、正気の沙汰ではなかった。
 みちるは叶に気付いた様子はない。ただぼんやりと水面を見つめている。
 叶は嘆息して、彼女の肩を叩いた。否、触れた程度だった。
 その刹那。
 手が。
 弾き飛ばされた。
「――!?」
 ぱしん、と。
 手が離れる。
 脳裏に去り行く女の姿が鮮やかによみがえり、叶は血の気の引く音を聞いた。
 あぁ、トラウマだと、思った。
 これが、トラウマというものかと。
 足がすくんで、ただ吐き気が込み上げる。
 しかしそれは叶の意識を混濁させることはなかった。
 貧血、頭痛、吐き気、そういった感覚に身体が従う前に、みちるの悲鳴じみた叫びが耳朶をうち、叶の意識を正気に引き戻したからだった。
「ごめんなさい!!!」
 普段皮肉屋で、怒りや苛立ち意外に滅多に感情を動かすことのない少女の叫びは、胸をすりつぶすような響きを伴っていた。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!!!」
 みちるの目は確かに叶の姿を捉え、叫んでいる。しかし彼女がそこに叶を見て叫んでいるわけでは決してないと、叶には判った。彼女は腰を地につけたまま後ずさり、ごめんなさいと、謝罪の言葉を繰り返す。
 ごめんなさいお母さんごめんなさい。
 置いていかないで。
 叶は少女の悲鳴をきいて初めて理解した。
 何故自分たちが互いを決して無視できないのかを。
 自分たちは似ていると、意味もなく確信を抱いているのかを。
 そしてこれからも、彼女は自分にとって、嫌悪しながらも、同属として、世界中の誰よりも互いを理解する存在であることを。
 叶は半狂乱になりかけた少女を、抱きしめた。正気を失った女をなだめすかすには、抱きしめてやることが一番よいと、いらない知識を植えつけた兄たちを少し憎んだ。彼女を抱きしめたりなんてするのは最初で最後だろう。
 徐々に正気を取り戻した少女は、やがて叶の身体を、ゆっくりと押しのけた。
「……だ、い、じょうぶ」
 目元を赤く腫らした少女は、下唇をかみ締めながら言った。
「……手、ふりはらって、ごめん」
「……いいよ。僕もふりはらったし」
 夕方。
 夢から覚めたばかりの自分は、彼女の手を振り払ってしまった。
 自分の身体を押しのけるみちるの手を見た。ちまっとしていて、柔らかそうな、幼い手。けれど、もうこの年にして、苦労をしている手だった。
 何気なく、その手を取る。
「……妹尾君、手、つめたい」
「散里の手は、あつい」
 少女の手は興奮からか、熱を持っていた。
「もう振り払わないの?」
「振り払わないよ。いやだろ?」
「うん。すごくいや」
「僕もいやだ。すごく」
 だから。
 今だけ。
 握り締める。
 その手を。
「ごめん。もう振り払ったりしないから」
 叶の言葉に、みちるの顔が歪む。彼女は歯を食い縛り、必死に泣くことを堪えている。叶に、寄りかかって甘えるようなことを、彼女はしなかった。
 それでもその手は振り払われることなく、繋がれたままだ。
 同属に対する、同情の証として。

 ――この二つの手が、深い愛情の証として繋がれるようになるのは、遠い遠い、未来のお話。


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