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第八章 追従する忠臣 1


 ディトラウトの私塔で本宮に最も近い応接室。
 朝の気だるげな空気を払うように、きびきびとした動きで三人の女官が一礼する。
『よろしくお願い申し上げます』
 その動きに一糸の乱れもない。きれいに唱和する声は穏やかながらよく通り、発声から教育を受けたもののそれだとわかった。余計な口を利かず、しかし受け答えは明瞭で、表情も明るい。厳しく躾けられた娘たち。
 彼女らはダイの補佐として新たにつく女官だ。ダイがセレネスティに付いて行動する範囲が広がるにつれ、ラスティひとりでは手が回らなくなっていた。ダイの身辺の世話は変わらず彼女や、塔の女官たちが受け持つが、政治色の濃い場所へ赴く場合は、この新しい女官たちがダイに侍る。
 引き合わされた彼女たちが先に退室する姿を見送って、ダイはやや呆れ気味にディトラウトに告げた。
「三人って……人を付けるっていうから、せいぜいひとりかと思っていました。贅沢すぎませんか? セレネスティ様も、よくお許しに」
「陛下の許可は取ってあります。それに全員が常に張り付くわけではありません」
「はぁ。でもあんなにも良さそうな人たちをわたしに付けていいんですか? 人員不足と聞いていましたけれども?」
「不足していますよ。陛下の側に侍ることの叶う人員は。……彼女らは女王付きとして教育されながら、それを許されなかった者たちです」
 セレネスティの性別を明かせなかったがゆえに、才能を燻らせていた者たち、ということらしい。
「……女王付きとできるかは……まぁ、あなたへの働きで様子見といったところですね。資質を見る場が得られて重畳」
「一挙両得、ということですか」
「何かご不満が?」
「いいえ。感心しているんですよ、宰相閣下」
 ダイのことだけが新たに女官を置く理由でないなら納得できる。急に接触可能な人数を増やされて、裏があるのではと疑っていたのだ。
 ダイと関わる護衛の顔ぶれは変わらないが、そのマークたちの下にも副官が数名付いたらしい。
 思惑はどうあれ、人員を補充して過重労働を防ぐ動きは歓迎である。その尻馬に乗ってみてもよいだろう。
 まだ、何かあるのでは、と、思わなくもないのだが。
 男の手袋に包まれたてのひらが差し出され、ダイは視線をその腕に這わせながら上げた。
 ディトラウトが、ダイを待っていた。
 多忙さは相変わらずだが、ダイと寝食を共にするようになって、彼の血色も肌艶も格段によくなっていた。視察で城を空けても二日と経たず男はダイの下に帰ってきて眠りに就いた。艶めいたことはないのだが、ダイの身体を抱える男の腕には寄る辺ない子どもが延べられた手にしがみつくような切実さがある。そしてその瞳は、常にダイを捉えて離さない。
 そこに小スカナジアで覗き込んだときのような熱情はない。男の蒼の瞳は凪いでいる。かといってそれが何も思わないからではないことは明らかだった。海の水ほどもある質量の何かを、理性でせき止めて何事もなく装っている。そう思わせる一種の重さが、彼の眼差しにはあった。
 圧迫感はなかった。押しつぶせばよいのに、と、思うことすらあった。自分の重みをあくまで自分で支える続ける男に。しかしそれは無責任な考えだった。ダイはまだ答えを出しておらず、その惑っている時間を、男は尊重している。そこにいとしさを覚えて、ダイは口元を緩め、ただ、男の手を握り返した。
 番をする官が扉を開ける。ダイはディトラウトと連れ立って塔を出た。
 共に本宮へ移動する習慣は、護衛の数の節約を名目として始まった。
 これからディトラウトは朝議のためにセレネスティの執務室へ。ダイは控えとして与えられた部屋に移動する。昼からの仕事に備えて、顔合わせした女官たちに、セレネスティの傍に仕える上での注意を申し送りするのだ。
 渡り廊下に差し掛かったころ、ディトラウトが告げた。
「女官たちにあなたを軽んじる言動が少しでもあれば報告してください。すぐに外します」
「そんな態度をとるひとがいるでしょうか」
 ディトラウトの意見に、ダイは思わず疑念を述べる。
「あなたが念入りに選んだのでしょう?」
「もちろん。ですが、生まれ育ちからくる、些細な癖、のようなものもありますからね」
「それは相手に非がない場合もあるでしょう。わたしの感じ方の問題では?」
「主人の感じ方を把握して振舞うのも下の者の務めです」
「では、侮られないように振舞うことが、主人たるわたしの務めですね」
「人を使うことには慣れましたか?」
 それは、指示を出す、という意味の問いではなかった。
 ダイはやや後方を歩くマークを意識した。
 ゼノと並んで歩く彼は今日もダイの傍に付く。
「……慣れません。改めて自覚すると、震えが来ます。いまも。……よくこれまで無頓着でいられたって、そう思います」
 セレネスティが襲撃に遭ったあの昼食会で、ダイは不審物の除去に、マークを『使った』。
 ダイの立場を思い、危険に即座に対処できる人間を選ぶなら、マークに命じることこそ最上だった。
 一歩あやまれば、彼の腕が吹き飛んでいたかもしれなくとも。
 下のものたちに降りかかる結果に責を負って指示を出す。迷惑をかけるから。自分は仕えられるような生まれ育ちではないから。そんな無責任な言い訳は許されない。言い訳をするのなら、立場を降りるしかない。
 自分で自らの世話をした方が楽である。そんなことは百も承知の上で、それでも他人の命を自分の代わりに差し出すのだ。それが、人を使う。命じるということだ。
 命じられるかもしれない人々の存在を、ダイは常に意識の片隅に置いて行動するようになるべきだった――本来なら、デルリゲイリアの国章を、背負ったときに。
「慣れすぎて鈍感になる必要はありません。……周りを忘れなければいい」
「ディトラウト」
「何ですか?」
「ありがとうございます」
 ダイの謝辞にディトラウトが不思議そうに瞬く。
 ダイは男の腕に絡める手に力を込めた。
「無知を正してくださって」
 自分はいつも、この男に手を引かれている。
 花街を出るときから。
 力のこもったダイの手に、ディトラウトの手が新たに添えられた。
 ディトラウトは無言のままだった。ダイが見上げると、やさしい眼差しに行き当たる。
 ――甘やかされている、と、思った。
 事実、その通りだった。
 近頃、とみにそれが顕著だ。
 ダイの行動範囲は制限されている。言葉を交わしてよい者たちも決まっている。マークやスキピオは護衛だが、同時に監視者でもある。ダイは外部の情報から遮断され続けていた。ダイの関わる仕事は峻別され、他国の情勢については欠片も聞こえてこない。
 ただし、それ以外は自由だった。
 ディトラウトもセレネスティも、ダイの仕事を尊重した。単なる女官の代わりとして扱わなかった。ふたりの体調を推し量る知見も含め、化粧や、肌の手入れや、人を美しく見せる、ただそのためにだけ培った知識や技術を、彼らは決して軽んじなかった。道具は随時、揃えられたし、ダイが述べた意見は議論の末に受け入れられることが常だった。
「しょーじき、化粧する人がなんで女王の傍に? って感じだったんだけどさ」
 仕事が早く終わった日、ディトラウトの私塔の居室で、筆の手入れをしていたダイに、警備の連絡で立ち寄ったゼノが述べた。
「いまなら、わかるね。陛下の顔色がいいの、君の仕事があってのことだろ。専門職って、いいよなぁ。……どしたの、その顔」
「いえ……」
 ダイはゆるく頭を振って、手元の筆を布袋に収めた。
「そういう風に言われること、あまりなかったので」
「そう? まぁ、あえていうことでもないかもしれないけどさ……」
「シンシア様の化粧はひとを心地よくしますね」
 珍しくマークが口を挟んだ。常なら職務に忠実な彼は、水を向けない限り、雑談には滅多に混じらない。
 彼は穏やかな声で言った。
「いつも朗らかではありますが、シンシア様に化粧をされた日、女官たちは特に明るく見えるので……。ともに働く我々もそれに感化されます。あなたはよい仕事をされている」
「マーク、あまり褒めすぎると、シンシアちゃんを口説いてるって、ディータに当たられるぞ」
「それはございませんよ。……隊長は日ごろの行いが悪いだけでは?」
「それ言う!? 俺に言う!?」
 マークとゼノの掛け合いに、ダイの作業を手伝っていたラスティが、くすくすと忍び笑いを漏らす。
 木漏れ日の中にいるようだ。
 あたたかく、やさしい。
 あれはだれだ、と、ダイを指して顔をしかめる者はいた。しかし付けられた女官から、遠巻きに様子をうかがう者たちまで、総じてダイを丁重に扱った。
 存分に、自分の仕事に注力できた。
 充足を覚えていた。
 改めてダイは思う。
 ディトラウトは自分を甘やかしている。
 自分の傍にいるのなら、このように甘やかし続ける。
 ほしい、と、彼はかつて自分に言った。
 その熱を彼はまだ持ち得ているか――疑うべくもない。
 男が差し出す未来のかたちをとった鳥かごに、自分は捕らえられていた。


 ――マリアージュ・ミズウィーリが玉座に返り咲いた。
 デルリゲイリアに出していた斥候から、急ぎの報告がもたらされた。夜半、そろそろ灯を落とそうかというころだった。
 報告書に目を通すディトラウトにセレネスティが問う。
「……また玉座に着いた? ……どうやって?」
「女王選を行ったようです」
「女王選……?」
「えぇ。……行方不明だったすべての女王候補と、主だった貴族の当主をあつめて、リリス・カースンを含めて女王選を行った結果の再選」
「なんじゃ、それは?」
 話を聞いていたヘルムートが困惑の声を上げる。無理もない。ディトラウトも同じ感想だ。
 マリアージュは政敵に城を追われたまま音沙汰なかった。殺されたとも聞かなかったから、野たれ死んだか、あるいは国外へうまく落ち延びたかの、どちらかではと推測されていた。
 ところがマリアージュは、そんな大人しく逃げる小娘ではなかったらしい。
「行方不明だった女王候補を集めたってさ、それ、あの女王さんが探し出したってこと?」
「の、ようですね」
 ゼノにディトラウトは首肯した。
「ほかの女王候補たちの発言から、そういったことが伺えるとあります」
 上級貴族十三家が一家、カースン家の当主によって、女王候補たちは小スカナジアへ売られていたという。デルリゲイリア上級貴族の娘なら、喉から手が出るほど欲しがる貴族崩れがそれこそ大勢いる。彼女たちの腹は正当な聖女の血筋を生み出す。上手く娘を産ませさえすれば、国の再興すら叶うからだ。
 国外にとらわれていた女王候補たちを探しだし、助け出し、味方につけて、女王選で正々堂々、玉座に相応しからんと選出される。
 それを玉座から追われて半年強。雌伏のときの果てにマリアージュ・ミズウィーリは成し遂げた。
「は……ははははははははっ!」
 突如、セレネスティが額を抑えて笑い出した。
「すごい……すごいな!! しぶといとは思っていたけれど……すごいよ! マリアージュは!」
「……デルリゲイリアは落ち着くかの?」
「しばらく時間は必要でしょうが、おそらく。……国境から徐々に兵を引かせてもよいでしょう」
「ふむ。これで一冬を地方で過ごさせた兵たちに、休暇をやれるかの」
「それはわかりませんね。このままクランへ向かわせるべきかもしれません」
 報告書を繰りつつ、ディトラウトが述べると、王は目を険しく眇めた。
「……説明しろ、宰相」
「マリアージュと玉座を競ったリリス・カースンは、レジナルド・チェンバレン、ひいては聖女教会の支援を得ていたことは確定でした。女王選の場にいたようです。マリアージュの失墜も、レジナルドが糸を引いていたのでしょう」
 ディアナから得た情報から、レジナルドがカースン家の食客だったことは知られていたが、関わり方を断定するまでには至っていなかった。
 しかしこの度、レジナルドは女王候補の誘拐に携わっていたと女王選で告白したと報告書にはある。
「レジナルドに推されていたリリスが、面白いことを女王選の演説で述べています。――祈りによって、聖女を、降臨させると」
 商工協会北部の長、ベベルから聞いた噂。
 祈りは魔力を高め、やがて、聖女を生み出す。
 それをレジナルドの後援を受けた、デルリゲイリアの女王候補も口にしていた。
「……レジナルドの行方は? 死んだのか?」
「いえ。……うまく逃げおおせたようです。そして、クラン・ハイヴに入り込んだ可能性があると、別口の報告も同時に上がっています」
 クラン・ハイヴに兵を向かわせる理由はほかにもある。
 昼食会の襲撃事件。その主犯がクラン・ハイヴの鼠であると、調査の結果、ほぼ確証を得ていた。
「……サガン老」
「わかっておる。クラン国境へ兵を移動させよう。無論、そうとわからぬようにしてな」
「うん。……それから、兄上」
 ディトラウトは報告書から面を上げた。
 セレネスティの声色が逡巡の響きを含んでいたからだ。
「……どうしました?」
「……あれの仕事をしばらく減らせ」
 あれ、とは。
 ディアナのことだ。
 セレネスティは静かに言った。
「……マリアージュが玉座に着いたと知られるな。いいな?」


 かつ、と、足音が嫌に耳につき、ディトラウトは細く息を吐いた。
 自室へと戻る足が急いている。平静を保っていたつもりだが、案外そうでもないらしい。塔までの護衛がゼノではなく新人で幸いした。彼が付いていたら、ディトラウトの心中を、うるさく追及してきたかもしれない。
 ――マリアージュのことを知られてはならない。
 ディアナをここに留めるための厳命だった。
 『使える、と、思うたのであろうよ』
 彼女を手元に置くことを決めたセレネスティの心変わりについて、ヘルムートはそうディトラウトに述べた。
『肌を荒らすなと職分に関してはうるさいが、そのほかの差し出口は滅多にせん。かといって無能ではない。頭もお前と口論する程度に回り、口も堅いし、危機に遭って臆さぬ。……あの庭園で、あの娘は真っ先に陛下を庇いおったでな。その後の判断も的確だった』
 そしてセレネスティの性別を隠し立てる必要もない。
『最初に反発していたのは、兄を取られた嫉妬のようなものだ。そういった感情を抜きにしてしまえば――留め置く以外の選択肢などあるまい?』
 お前とて、そのつもりであの娘を遇していたのではないのか。
 ヘルムートの問いにディトラウトは黙るしかない。
 セレネスティが決を下す前から、ディトラウトはディアナが自分の傍らに在るための布石を打ち続けていた。
 護衛を共有し、自分に準じる色を与える。前者は情報統制や人手不足の兼ね合い、後者はいたずらに手出しする者がないようにするためだったが、彼女は宰相に属するのだと、あえて印象付けていたことも確かだった。
 自分のものにしたいと願って、生と死の境にいたあの娘を助けたわけではない。彼女を救わないという選択肢が、自分になかった。それだけだった。
 彼女との未来を願うにはあまりにも、自分の行く道は血塗られていた。
 ディトラウトはこれからも、民のため、自らが奉じる王のために、ひとを、信仰を殺し続ける。ディトラウトが行うことは民人が平らかに暮らすための地ならしで、そしてそれは恨みばかりを買う。王兄として集められるものは畏怖と怨嗟のみだった。
 あの娘をこの地獄に引き入れたいと思ったことは欠片もない。
 それでも、ひとたび彼女が隣に立てば、それが続くことを夢想せずにはいられない。
 これは三年前の続きだ。ともにひとりの王に仕えること。食を共にすること。一日を労い合って眠ること。雷雨の夜に自分が断ち切った日々(ゆめ)のその先なのだ。
 私室からはほのかな灯りが漏れていた。
 ディアナはまだ起きていたらしい。寝台の背に身体を持たせかけていた娘は、帰宅したディトラウトを認めて顔をほころばせる。
「おかえりなさい。お疲れ様です」
「えぇ。……戻りました」
 彼女はどうやら読書に勤しんでいたようだ。角灯の置かれた小卓の上に本を伏せると、彼女は立ち上がってディトラウトを迎えた。
「予定より遅かったですね。……このまま着替えますか? それともお茶でも飲みます? 作り置きですけれど」
「……もらいましょう。あなたはこんな夜更けまで、何を読んでいたんですか?」
「過去の女王様方の衣装の記録です。主だった晩餐会で何を着ていたかの一覧ですね。セレネスティ様のご衣裳と化粧の参考にしようと思って……」
「ディアナ」
 ディトラウトの呼びかけに彼女は瞬いた。
 いつもディトラウトは彼女を聖女の名で呼んでいる。
 いまは彼女の真名を呼びたかった。
 そうすれば――……。
「ヒース」
 彼女が失われた男の名を呼ぶと知っていた。
 ディアナが細くやわらかな指を自分の頬に滑らせる。そのままこめかみを伝って、髪をゆっくり梳きあげる。
「何かありましたか?」
 自分は答えを返さなかった。
 代わりに娘の華奢な身体を抱きしめて、唇を重ねた。


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