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第七章 血盟する王者 3


「……お前たちの主張は理解した。だがすべてを認めることはしない」
 室内にセレネスティの声が静かに響いた。
 謁見の間とはまた異なる小型の謁見室は、少々混み合った話し合いの際に用いられる。声量はそれほどでもなかったが、王者の響きを持つ声は、相手にしかと届いたようだ。十人は座れる長さの長卓を挟み、セレネスティと向かいあう男たちは、憮然と口元を引き結んだ。
 セレネスティは淡々と沙汰を述べる。
「港の再整備は認めよう。事務棟の補強諸々を支援することもかまわない。しかし其方らが望む、拡張はならない。陸地と海、どちらであってもだ」
「しかし、これ以上、港の滞在者を許容いたしかねます。無補給船もせめてもう一隻……」
「いま必要なのは港の居心地をよくして、無闇に人を留め置くことではない。怠惰な主張は認めない。他大陸からの帰国者の受け入れ態勢を速やかに整えろ。……港の拡張不許可の理由については図書館にでも寄って調べるがいい。以上だ」
 セレネスティは手を振った。文官のひとりが心得たと謁見者たちを部屋から追いやった。
 彼らは商工連合――〈境なき国〉とはまた異なる、寄り合い組織の代表者たちだった。にしては、意見があまりにもお粗末すぎて話にならない。セレネスティの側に控えるダイから見てもわかった。
 謁見者たちが去って、セレネスティが脱力する。ダイはラスティの準備した茶を茶器に注ぎ、セレネスティに差し出した。
 ひと息ついたセレネスティがダイを見上げて問う。
「……なぜ港の拡張を認めないか、お前はわかるか?」
「陸地の整備だけで終わらないからですか? 浅瀬の入り組んだ湾港を整備するためには、長い工期と莫大な予算が必要なのでしょう?」
「理解しているのか。あの、王都の代表を名乗るおじさんたちより優秀じゃないか」
「あ、すみません。宰相閣下から話を事前に伺っていました」
 セレネスティが黙り込む。顔を覆う薄布の上からでも、彼の拗ねた表情が見て取れた。
 ダイは苦笑した。
「まぁ、今の時期にするには苦しいですよね。近隣諸国は騒がしいし、魔術に頼らずあれこれするにはお金がかかる。砂地を掘り返すと、潮目、ですっけ? 流れが変わって、漁にも影響がでそうですし……」
「それも兄上の入れ知恵?」
「いいえ。わたくし個人の予想です。……河川の整備で似たような話があったので」
 水源の少ないデルリゲイリアでは、たびたび河川拡張の要望が出る。しかし河のかたちを安易に変えると、下流に悪影響が現れるとかで、工事の企画には慎重だった。ダイは海をよく知らないが、河川と同じ水の領域なのだから、似たような話もあるだろうと思ったのだ。
「……そのとおりだよ」
 セレネスティは疲れた顔で椅子の背に重心を預けた。空になった茶器を卓に置く。
 おかわりは、と、尋ねたダイに、彼は無言で首を横に振り、添えられた糖菓子を軽く摘まんだ。
 本当はもう一杯、飲ませたかったのだが、ここはあきらめるべきだろう。
 セレネスティの体調は、ダイから見れば最悪だ。
 しかし進んで飲食を口にするのだからまだよい方、とはディトラウトの弁だ。悪ければそもそも起き上がれないし、政務をこなせたとしても、胃がものを一切うけつけなくなる。
 この似た者兄弟め、と、ダイは胸中でため息を吐いた。
 そのもうひとりの問題児、ペルフィリアの宰相の訪いを、取次の官が告げる。
 ディトラウトは梟と複数の騎士を連れて現れた。
「陛下、早く終わられたようで何よりです」
「呑気なことを言うな、宰相」
 兄の労いをセレネステイが一蹴する。ディトラウトが眉をひそめて急ぎ足で王との距離を詰めた。
 身をかがめたディトラウトにセレネステイが囁く。
「謁見者の担当官、鼻薬が好物のやつがいるだろう。あれはもう駄目だ。除けろ」
「腹を満たしすぎましたか?」
「そうだ」
「かしこまりました。すぐに」
「馬鹿なやつだ。食い意地を張るからこうなる」
 ディトラウトの手を支えに立ち上がりながら、セレネスティは毒づいた。
 謁見の時間が終わったため、彼らはこれから執務室に移動する。梟に寄り添われて、セレネスティはひと足早く、謁見室を出て行った。
 ディトラウトがダイの前に立つ。
 声を潜めて彼は尋ねた。
「今朝の様子は?」
「血の気があまりないように見られます。体温は低め。謁見中、二回飲食。量は紅茶二杯、水一杯、杏の砂糖漬けをふたかけ」
「わかりました。……まだ食欲はあるほうか」
「強がっていらっしゃるだけの可能性もあります。吐かないようにさせてください」
「わかっている。あなたは?」
「……まぁ、よくはないです」
 正確には、頭痛とむかつき、手足に疼痛を感じる。微熱があるかもしれない。
 ここで無理をすると倒れるため、ダイは正直に申告した。
「今日はもういい」
「夕方からは? 同席する予定でしたよね?」
「いい。こちらでどうにかする。……マーク」
 ディトラウトが控えていた騎士を呼んだ。ダイに付いていたスキピオと場所を交代する。今日はマーク向きの要件があるということで、護衛を替えていたのだ。
 ディトラウトがスキピオを連れて退室する。扉が閉じてからやや置いて、マークがダイに向き直った。
「参りましょう。あなたも早く、お休みになるべきかと」


 梟に代わってセレネステイの側に控える。一日のほんの数刻だが、それでも負担は格段に減ったらしい。
 一方で仕事量を増やしたのが、ディトラウトの近衛たちだった。



「マークさんたちって、ちゃんとお休みもらっているんですか?」
 昼からお役御免を言い渡されたダイは、ディトラウトの保有する塔の区画に戻ってきていた。
 居室で昼寝前の薬湯をすすりつつ、かねてからの疑問を尋ねたダイに、マークが瞬いて問い返す。
「休憩ですか?」
「はい。わたしと宰相閣下の護衛を兼務しているようなものですし」
 マークはほぼダイの専属だが、離れているときはディトラウトの側にいるようだ。護衛のほかの雑事を請けている気配もする。
 マークたちがいつ休んでいるのかわからなかった。
「きちんといただいておりますよ」
「……本当ですか?」
「本当だよ、シンシアちゃん」
 ダイの念押しに応じたのはマークではない。護衛の配置の相談に立ち寄っていたゼノだった。
 彼は手に持った革製の書類入れで自分の肩を叩きながら言った。
「ディータの近衛は新しく何人か増やしてある。シンシアちゃんと関わらせる護衛は限られているから、そう見えてないだけだよ」
「閣下は我々のことを慮ることはお忘れになりませんので」
 マークが淡く苦笑した。
 言われてみれば、確かにあの男はミズウィーリにいた頃から、他人の仕事量の調整を怠ることはなかった。
「あいつが休まないもんだから、側を離れづらかったけど、最近は君がいてくれるからさ。あっちこっち行き来すんのたいへんじゃないかって思ってくれているんだろうけれど、そんなことないから。心配しなくても大丈夫だよ」
「そうですか……」
 負担になっていないなら何よりだ。
 ダイはほっとして薬湯の残りをゆっくり口に含む。
 ゼノがダイの前に椅子を引き寄せ、その背を抱きかかえて座った。
「俺としては……君にここにずっと、いてほしいけどね」
 ダイは無言で茶器から顔をあげた。
 ゼノは人懐こい微笑みを浮かべてダイを見ている。
「隊長……っ」
 ゼノの斜め後ろに控えていたマークは渋面だ。しかし彼が何かを言う前に、その太ももをゼノが剣の鞘の先端で押さえていた。
「君がいてくれるなら、ちょっとやそっと仕事量が増えるぐらい些細なことだ。……君が来て、あいつは調子を持ち直した。食べるし、寝るし、自分を労る。……俺たちには渡せない重荷を、君になら渡せるんだろう? あいつは」
 ディトラウトはゼノたちにセレネステイの正体を明かしていない。それがディトラウトたちの苦悩の一端でもある。
「君はディータたちの出自をどこまで知っている?」
「……イェルニは国境沿いを治めるご領主の家だと伺いました」
 だれがどの程度の情報を知っているかは、セレネステイから性別を明かされたときに併せて聞いた。ゼノを含む側近たちがダイに探りを入れる可能性があるからと。
 ゼノやマークはイェルニの家のことは元から把握している。ダイの回答に問題はないはずだ。
 ゼノは、うん、と、満足そうに頷いた。
「国境を任せるんだ。イェルニは古くからの名家で、遡れば女王を輩出したこともある。でも、それはかなり前の話だ。本当ならこんな国を負うなんてこと、陛下もディータもする必要なかった。いまディータがしていることは、本当なら俺がするはずのことだった」
「え?」
「ファランクスってのは、代々宰相を輩出してる家でさ」
 顔を上げたダイとは対照的に、ゼノは椅子の背の縁に顔を伏せた。
「この国がこんなにひっくり返ったのも、元々は俺の家のせいなんだ。当時、宰相の職にありながら、下ふたりの大臣の争いを、互いの勢いが殺がれればいいと放置し、煽ることすらした、俺の親父の」
 ペルフィリアの混乱は女王が初産の折に赤子と共に没したことに始まる。
 空白となった次期女王の座を巡って、大臣たちは争い、事故から片方を殺してしまった。そこから報復が始まった。
「どっちかっていったら、俺やマークの方が、本来、後始末を付ける側だった。ところが俺は政治的な調整能力はディータに比べりゃからきしでね。……うちの家でそういった才能を持っていたのは、俺の異母兄だ。クラウス・リヴォートっていう」
「クラウス、リヴォート……」
 ダイは思わず名を反芻した。
 ディトラウトからも聞いた。彼の政治の師だ。
「リヴォートはペルフィリアで貴族の非嫡出子に与えられる姓だ。家に何かあったとき、簡単に探し出せるようにつける。だから兄は俺と姓が違う。先代女王のアズラリエル様が生きていたころなら、リヴォート姓はかなりいた。混乱中、その姓が仇になって、貴族に次ぐ粛清対象になったから……いまはもうほとんど見ないけどさ」
 ふいに、ダイは悟った。ヒース・リヴォートがデルリゲイリアの貴族社会で受け入れられた理由を。
 デルリゲイリア貴族は彼がペルフィリアの混乱から逃げおおせた貴族の血筋であると誤認したのだ。
いや、あの男がそう、させたのか。
 ヒース・リヴォートは平民だが、メイゼンブルの血は入っている。フランツ・ミズウィーリもそれを承知で保護、重用している。そのように、デルリゲイリアの貴族は思ったのだ。だから彼が貴族社会に立ってマリアージュを補佐することを受け入れた。
「俺の異母兄……クラウスは頭がすばぬけてよかった。ファランクスのだれより、政治の才に富んでいた。俺が無事なのも、クラウスがいるからって騎士の道を許されて、やばかったとき、遠方の任務にかり出されていたからだ。……ファランクスの血が俺とクラウスを除いて絶えたあと、本当なら俺がクラウスと国の立て直しに奔走するはずだった。でも、俺には無理でさ。……クラウスが代わりに宰相として立てたのが、陛下と一緒に生き残っていた、ディータのやつだった」
 クラウスも認める俊英なら、幼いころから貴族社会の噂に上りそうなものだが、ディトラウト・イェルニは影が薄かった。彼を知る者はイェルニ家の大人しい長子だったと口を揃えるほどだった。
 それが、クラウスを師に、宰相に任じられてから、化けた。
「俺の家がしでかしたことなのに、俺は何もできない。だから俺は俺のかわりに血を吐く思いで後始末を続けるディータのためになることなら何でもしてやりたい。あいつが何をしようと、俺はあいつを助けるつもりでいる。あいつに君が必要なら、君の足に、鎖をつけておいてやりたい。でも、あいつはそれを望まないだろう。……あんなにも、ぎりぎりだっていうのにさ」
 だから、と、ゼノは真摯な響きで言った。
「ねぇ、お願いだ。あいつの側に、いてやってよ」
 ダイは答えられなかった。
 下唇を噛み占めて俯くダイに、ゼノは笑って椅子から立った。
 険しい表情のマークの隣をのんびり通り過ぎ、廊下へ続く扉に手を掛けて、彼はダイたちを振り返る。
「ねぇ、シンシアちゃん。君、噂になってるよ」
「うわさ?」
「そう。……ディトラウト・イェルニが」
 浮いた噂ひとつなく、女王に奉仕し続ける。
 秋波を送る娘たちには冷淡きわまりない、あの、白皙の宰相が。
「自らの側近を共有し、女王に次いで丁重に扱う……彼の手ですぐに隠される、夜明けの月のような貴婦人」
 あれは、だれなのかってね。


 初めからディトラウトは警告していた。女王の側に侍り、不特定多数に目撃されるからには、ダイの存在がひとの口に上ることもあるだろう、と。
 それでも、と、ダイは彼のために働くことを望んだ。だから、とやかく言うつもりはない。
 しかし確かに予想を超えて、「丁重に」扱われている。
 ダイが身につける衣装の絞った袖口や、ふわりと優美に広がる衣装の裾には、控えめながら水鳥の図柄の刺繍が施されていて、もはや女官のお仕着せとは形からして異なる。そしてその軽く温かな生地は、秘色より一段青みを濃くした色に染められていた。
 薄明の、空の色だ。
 どうやらダイのみが纏う色らしい。
 秘色はペルフィリアで国章持ちの上着に使用される。ようするに国の貴色である。完璧な国の色は女王と国章持ちのみに許され、要人ほどその色に近いものを身につける。
 ――ダイの纏う色は、国章持ちに次ぐと見做されてもおかしくないものだ。
「どうしてあの色に決めたんですか?」
「色?」
「服の色」
「あぁ……」
 ダイは寝台に寝そべったまま、戻ってきたディトラウトに尋ねた。夜半もいいところであるが、きちんと湯浴みを終えてきたらしい。すでに夜着に着替えているところから今日はきちんと眠りにきたことが窺える。
 肩に掛けていた上着を脱ぎながら、ディトラウトはダイに答えた。
「前に言いませんでしたか? 虫除けですよ」
 彼いわく、通常の侍女のお仕着せを着せていると、身分や立場にものを言わせて、ダイに下手に手出しするものが現れる。それらを避けるための「色」らしい。
 身分は与えずとも、国色に準じた色を纏わせれば、それだけで威嚇となる。もちろん、ダイの正体を探り出そうとする者は現れるだろうが、水面下で叩いてしまえばよい。
「それから」
「まだ何かあるんですか?」
「えぇ……」
 ディトラウトが寝台の縁に膝をのせる。寝台の撥条がふたり分の体重にきしんだ。
「あなたはもう少し、丁重な扱われ方を学ぶべきだと思いましてね」
「丁重な扱われ方?」
「上に立つものにも振る舞い方というものがある。下に仕える者が仕えやすいと感じるための」
 ぎくり、と、ダイは身体を強ばらせた。
 ディトラウトの指摘には心当たりがあるからだった。
 ダイは唾を呑み、神妙に尋ねた。
「……たとえば?」
「そうですね……。勝手に飛び出さないとかまよわないとかひとりでうろうろしないとか?」
「わたしだって迷子になって迷惑をかけたいわけでは……。状況がなぜかそういう風になっているんですよ」
「知っていますよ。えぇ、あなたが興味に惹かれてひょいひょいものに手を出したり、急に立ち止まったりして、そのたびにあなたの護衛は苦労させられたでしょうね」
「………何でわかるんですか……」
 寝台に身体を移して敷布の上に片手を突き、ダイの顔を覗き込む男の顔は笑っていた。
 からかわれたと知って、くちびるを尖らせたダイの頬を、ディトラウトは指の背で軽く撫でた。
「あなたのその動きは、自らの命の重みを理解していないせいだ」
 笑みを消して彼は言った。
「護衛が付く。それはすなわち、守られる側だ、ということだ。あなたに危険が及べばあなたを守れなかった護衛の首は飛ぶ。わたしたちの怪我ひとつで、側に控える官は責められる。わたしたち自身は安易にそれを取りなせない。わたしたちの意思による過ぎた懲罰や減刑は、下のものたちの行動規範を著しく狂わせる。だからわたしたちは、正しく振る舞うすべを身につける必要がある」
『わたしたち王に等しく他者の人生をも背負っている』
 同時に王と国のためなら命を差し出す覚悟もいる。
 ダイは自らを捨てる方に天秤が傾きすぎている。
「豪奢な衣服。貴金属。大勢の付き人。わたしたちのような生まれにはどれも縁遠かったものばかりだ。それらに有頂天となって奢るのでもなく、かといって、身分不相応と卑下するのでもなく、わたしたちはいつでもそれらを手放せる正気を保ちながら、使いこなしていかなければならない」
「……難しいですね」
「えぇ、だから、あなたに与えた色も、そういうものだと思うといい」
 男が纏う色に相応しく振る舞う練習をしろと、彼は述べている。
 ダイは腹を括って、男に手を伸ばした。
「わかりました。……ところで、自分を粗末にするといったら、あなたもですからね」
「飲食睡眠をおろそかにするなとは聞き飽きましたよ。だからこうやって帰ってきているでしょう」
 掴んだダイの腕を自らの首に回させ、彼は片腕をダイの腰の下に滑り込ませた。
 彼の額が肩口に擦りつけられる。
 柔い金の髪をほそほそとダイが梳けば、男はちいさく笑って、すぐに寝入った。
(わたしが、いれば)
 この男は眠る。こどもみたいに。自分に優しくする。
 ならば――自分がいないときは。
『あいつの側に、いてやってよ』
 ダイはそろりと息を吐いた。
 そのままこの国の宰相である男の身体を強く抱いた。


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