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第七章 血盟する王者 1


 自信にあふれた顔で皆に呼びかけるリリスにマリアージュは尋ねた。
「……祈って、それでどうするの?」
 リリスは不思議そうにマリアージュを振り返った。
「おわかりにならなかったのですか? 祈りはわたくしたちに聖女をもたらします。聖女は混迷の時代に堕ちた国々を再びお救いになってくださる……」
「……祈りで聖女が復活するはずないでしょう」
「あなたはそう思われるのですね」
 リリスの言葉には哀れみが込められていた。
「それもよろしいのではないのでしょうか。……ですが、聖女は再臨いたします。この西の獣に。わたくしたちを、救うべく。教会は聖女の仔らを導く聖女の手足となります。かつて聖女に付き添い、共に大陸を平定した騎士たちのように」
 思い出してください、と、リリスは皆に呼びかける。
「わたくしたちのこの不遇はいつから始まりましたか。メイゼンブルが聖女の血を卑しめたときからです。わたくしたちから祈りの力……魔術が失われ始めました。わたくしたちはすでに聖女の逆鱗に触れているのです。わたくしたちは一丸となって聖女をお慰めしなくてはなりません。祈らねばなりません。デルリゲイリアは、その中心となる」
 リリスは己の胸に手を当てて語調を強める。
「わたくしが、中心となる。……デルリゲイリアは聖女の降り立つ地として、栄華を手にするでしょう。……いま国を悩ませる問題も解決いたします。流民? 国防? 文官の方々がいろいろと持ち寄られますが、いまそれらに心を煩わせる必要はないのです。聖女がすべてをきれいに解消してくださるのですから」
 確かに聖女が現れたならば、多くのものが彼女に追随する。大陸中が彼女の振る旗の下に集まる。戦の芽も摘まれていくだろう。
 聖女は偉大なる魔術師。万物に癒しの祝福を与えたという古き魔女だ。現代にその力がよみがえれば、戦に荒廃した土地を癒すことも可能かもしれない。失われた数多くの魔術も復活する。
 それを見込んで、大陸会議で多くの人々が力を合わせて決めた物事を放置したのか。
「リリス・カースン。あなたは本当に聖女が現れると信じているの?」
「あなたは信じられませんか? マリアージュ・ミズウィーリ」
「信じられないわ」
 むしろリリスの話をなぜ信じられるのか。祈りで聖女が再び現れるなら、歴史書の中に事例を見るはずだ。
 残念ながら、マリアージュの考えは少数派らしい。
 マリアージュは広間の貴族たちを見渡して戦慄した。彼らの多くはリリスの言葉に半信半疑の目を向けている。
 半信半疑だ。つまり、信じるに値するかもしれないと、いっときでも考えたということだ。
 馬鹿げたことを。そう思える人間が半分にも満たない。
 空恐ろしい。
 この広間に集う人間たちは決して無教育ではない。
 祈りに応えた聖女が現れて人々を救済するなどありえないとわかっているはずなのに。
「この中に……あなたがたの中に、これまで聖女へ強く何かを祈ったことのある方はいて?」
 マリアージュは思わず彼らに問いかけていた。
「安息日だけではない。毎日、聖女に、どうか、と、祈りをささげた方は?」
 マリアージュの問いかけに応えはない。
 心当たりのあるらしいものたちが、困惑の顔で視線をさまよわせるのみだった。
 マリアージュは彼らに告げた。
「わたくしにはあります」
 彼らから視線が返った。
 マリアージュは繰り返す。
「わたくしには、ある。真剣に祈ったことが。毎日、どうかと祈ったことが。でも……聖女はわたくしに何も応えなかった!」
「聖女は欲深い祈りに応えません」
 リリスの反論にマリアージュは反駁(はんばく)した。
「幼い子どもが母の病の快癒を祈ることが欲深なの? 聖女ともあろう方が随分と狭量であらせられる」
「それは祈りの量が足りなかったのでしょう。楽園にて神の御許に在らせられるお方まで、ちいさな祈りは届きません」
 リリス・カースンは姉と似た可憐な容姿に不釣り合いなほど冷たい微笑を浮かべて断言した。
「この西の獣の安寧に向けた、わたくしたちの祈りをひとつに束ねれば、聖女は必ずお応えになります」
 聖女はきっと栄光の時代へ我らを導く。
 古き時代、魔の公国がいまの世にまで続く栄華を得たように、繁栄の時代は聖女によってもたらされる。
 具体性も何もない夢物語をだれも笑わない。
 リリスの言葉に膝を打って、喝采するものまで現れる。マリアージュはめまいを覚えた。
 祈るだけでは何も救われない。
 だから為政者たちは傷つきながら奔走している。少なくとも、マリアージュの知己は皆。
 ゼムナムのサイアリーズは手足を捥がれても国をかけずりまわった。ドッペルガムのフォルトゥーナも、もがき苦しんで国を興したはずだ。
 セレネスティとディトラウト。あのペルフィリアを治める兄弟も、己の願いのために血を被り、心身を削っているはずだ。
 マリアージュ自身もそうだ。本当は女王になどなりたくはなかった。あぁ、自分かわいさに癇癪を起こして、怠惰に生きていた日々のなんと楽なことだったか――……。
 ふと、気づいた。
(だれだって、傷つきたくない)
 苦しみたくはない。本当なら定まった道を行きたいのに、すぐに情勢の移ろうこの世の中、先祖の築いた道はあてにならない。道行は自ら考えなければならない。しかも己で出した答えは正解とは限らない。自分をさらなる奈落へ突き落す可能性すらあるのだ。
 だれがそれを好き好むだろう。
 祈ることが救われるただひとつの道と言われたほうがずっと楽だ。
 聖女が没して幾星霜。彼女は現れなかった。
 しかしそれは聖女の正当なる血統が大陸を治めていたからだ。それが途絶えてこれまでになく昏迷した時代になら、聖女が人々の祈りに応えたとしてもおかしくはないはずだ。
 そのような甘言は、道を見失う人々の心に、きっとやさしく染みたのだろう。
「敗者の顔をしているな」
 男がマリアージュをせせら笑う。
 マリアージュは背後を振り返った。人々の群れの最前列で、バイラム・ガートルードがマリアージュを嘲っていた。
「あぁ、その顔を見ること叶っただけでも、わたしは聖女に祈りをささげたかいあったと思うとも。これからも聖女に祈りをささげるとも!」
 かつて強く権力を求めていたはずのこの男が、なぜいまさらカースンに従っていたのか、マリアージュはようやっと理解した。
 バイラムはきっとマリアージュを踏みにじりたかったのだ。
(本当なら、毒杯を呷っていた立場だものね)
 マリアージュの遺体の尊厳を辱める権利すら約束されていたのかもしれない。
 マリアージュはふと笑った。
「女王選に勝ち負けはなくてよ、ガートルード卿」
「……なに?」
「女王選にあるものは選ばれるかどうかだけ。国が歩く道を決定するその通過点に過ぎない。……女王が死んで、その女王の治めた時代が善いものだったって、史書にでも書かれたそのときぐらいでしょう。勝ちっていうのはね」
 マリアージュは鼻白むバイラムから、リリスへ視線を移動させた。
 マリアージュは不敵に笑って、リリスに問いかけた。
「現れた聖女に国の展望はすべて任せる。あなたの意見はそれでよろしくて? リリス・カースン」
「……えぇ。聖女のお導きに過ちはありませんから」
 マリアージュの表現に不服そうながらもリリスは肯定した。
「そう。わかったわ。ねぇ、それって、いつ叶うの?」
「……いつ?」
「そう。いつ、聖女は降臨なさるの?」
「皆の祈りがひとつとなって、まぼろばの地へ届いたときです」
「えぇ。だから、それはいつ?」
「それは……」
 リリスが初めて言いよどむ。
 マリアージュは追及した。
「わたくしは具体的な日付を知りたいのです。いつなの? それは。あなたが女王に即位したらすぐ?」
「え。えぇ、そうです」
「そう。なら、わたくしは女王選を降りるから、聖女をいますぐ降臨させて」
「そ……それは、できません。聖女をお迎えするにはしかるべき準備がいるのです!」
「何かの儀式をするってこと? じゃあそれはいつ行うの? いつどのように何の儀式をするの? どこに聖女は現れるの? 現れた聖女はいつ、わたくしたちを救ってくれるの? ……いじわるで尋ねているのではなくてよ。わたくしは知りたい。人々の祈りがいつ束ねられ、いつ聖女が降り立ち、いつわたくしたちはかつての生活を取り戻せるのか。それは――いつなの?」
 広間の貴族たちがリリスを注視する。
 リリスは答えない。笑みのまま顔を凍り付かせ、唇を戦慄かせるばかりだ。
「わたくしは、待てない」
 マリアージュはリリスへ向けられた衆目のただなかへと歩き出した。
「祈りが通じれば、聖女は確かに現れるのかもしれない。わたくしたちを救ってくれるのかもしれない。けれど、それはいつなの? 今日なの? 明日なの? いつ救われるかもわからないまま、過ごすの? ここにお集まりの皆様は、それに耐えられるの? ずっと?」
 マリアージュはリリスの前に立って観衆を見渡した。
「わたくしには、耐えられない」
 しん、と、広間が静まり返る。
 信仰に宛てられていた人々の目に理性の色が広がり始める。
「わたくしは玉座に最も遠い女王候補でした」
 マリアージュは胸に手を当てて口を開いた。
「皆様がご存知の通りです。女王選が始まるまで、いいえ、始まってからも。わたしの毎日は不満と怒りに満ちていました。美も才覚もなく、比べられ、嘲笑され、この苦しみよ、終われと、祈ってばかりの日々だった」
 告白しながら思い出す。
 四方を壁に塞がれたように息苦しかったあの頃。
「女王選に挑むことが正しいこととは思えなかった。かといって自分でほかの道を考えることはできなかった。考えなければならないということすら知らなかった。でも……わたくしには、わたくしの歩くべき道を敷く者がいたし、わたくしが決定した道を肯定して助力するものがいた。わたくしは祈ることをやめて自ら歩き出しました。……祈るよりもよほど、それはわたくしを救った」
 三人で女王選を駆けた。
 悲喜こもごもあったが、それでも、祈るばかりの日々よりとてもよかった。
 あの半年がいまの自分を作っている。
「自ら現実に向き合うことは、祈りよりもよほど早く自身を救うと、わたくしは知っている。だからわたしは祈るだけの日々は耐えられない。わたくしはもっと早くに救われたい。……あなたがたは、いつ救われたいの?」
 いつ、と、唇を動かす者たちの姿が見てとれた。
 もちろん、と、だれかがいった。
 すぐに、すぐにだ。いますぐ救われたい。
「わたくしには力がありません。国をすぐに祝福で満たすような真似はできません。でも、すぐに一歩前へあなた方が進める道を作ることはできる。リリス・カースンは皆さまがたに、いつか救われる道を示しました。わたくしはあなたがたがすぐ救われる道を作ると約束する。……祈って待つだけよりもはるかに前へと進む道を」
「道? たいそうに言うが、それが何だというのか」
 マリアージュに反論したのはバイラムだった。
「そのようなもの、結局は貴様の命令に従えということではないか!」
「えぇ、確かに、負担を願うことはあるでしょう。繰り返すようですが、わたくしには力がない。女王となったとしても、皆からの助けがなければ何もできない。そしてそれは……最初から申し上げていることです」
「開き直ったか! はははははは! 何もできないと! 我々の助けがなければ! はははははっ!」
 バイラムが腹を抱えて哄笑する。彼の狂行を周囲の貴族たちは遠巻きに見ている。
 マリアージュは男に問いかけた。
「ならばガートルード卿は、祈る以外に何をするつもりでいらっしゃったのかしら?」
 男が哄笑の口を閉じた。
 マリアージュは彼に追及した。
「あぁ、この苦痛を取り除いてくれ、われらを救いたまえと祈るだけだと言い切った。領地を治め、人を導く立場にある責任すらとるつもりがない」
「……だまれ」
「わたくしは責任をとると述べているのよ」
 マリアージュが敷いた道を歩くかは個々の自由。けれどもその道を歩いて仮に失敗したとしても、その責はマリアージュが引き受ける。
「自らの幸せを他人への祈りに委ねて待つばかりというのは――」
 マリアージュは声を低めた。それは聞き耳を立てる周囲への配慮もあったが、この突っかかってくる男が邪魔で仕方がない、苛立ちを溜める意味もあったのかもしれない。
 マリアージュは男を睥睨して告げる。
「わたくし以上に無能ではなくて?」
 一拍おいて、バイラムが激高した。
「この、小娘があああぁああぁあっ!!」
「マリア!」
 アルヴィナの呼び声に息をのむ。彼女は身を低くしてシルヴィアナの隣から飛び出し、マリアージュの肩を抱き寄せた。その白い指が示す先にはバイラムがいる。男の血走った目は城の裏手の小屋が焼け落ちた日を思い起こさせた。あのときマリアージュたちは、アリシュエルの恋人を殺して逃走するこの男とすれ違ったのだった。
 バイラムの手には短剣が握られている。つくづく、この城の検閲はもう少し仕事をした方がよいと思う――その緩さのおかげで脱出や潜入が叶ったことを差し引いても。
 永劫にも思える刹那。アルヴィナに一歩遅れて、バイラムを押しとどめんと騎士たちが動く。それと同時にアルヴィナの唇がマリアージュの傍らで何かしがの呪を紡ぎ、バイラムの手にある鋼が黒く腐食し始める。
 彼はかっと目を見開き、剣の柄を取り落とした。
 その反応は短剣の変化に向けられたものだとマリアージュは思っていた。
 けれども違った。
「……か……が……は……」
 のど元をかきむしったバイラムが、数歩よろめき床上に前のめりに転倒する。あらわになった背中の衣服にばっと赤い色が咲いた。
 リリスが悲鳴を上げる。
「きゃ、きゃああああああああっ!!」
 甲高い絶叫に触発されて、周囲の貴族たちが蜘蛛の子を散らしたように四方へ逃れる。
 その急に開けた空間に、ひとりの女が立っている。
 喪服のような灰墨の衣装に華やかな薄紅色の外套を羽織った女だ。長い髪は簡素に結い上げただけ。白粉を叩いた様子もなく、目の下には濃い隈が。白い肌に唇の赤が鮮やかだ。そのやつれた面差しが逆に人目を惹いた。
 マリアージュは女の名を呟いた。
「……ルディア夫人」
「テディウス宰相閣下」
 ルディアはマリアージュではなくロディマスを呼んだ。
「場を騒がせたことをお詫び申し上げます。本来ならば騎士の方々にお任せすべきところ。けれども、あのままでは夫の狂刃がマリアージュ様を襲う方が早いと判断いたしましたの」
「……理由はどうあれ、人目を阻んで得物を持ち込んでいた罪からは逃れられません。元より殺意があったとみなされますがよろしいですか」
「えぇ、覚悟の上です」
 ルディアは微笑んで傍に立った騎士に短剣を渡した。バイラムが手にしていたものよりさらに一回り小ぶりのものだ。女のてのひらほどしかない刃渡りの鋼は、遠目からでもわかるほど赤く濡れている。
「ガートルードからは投票権のはく奪を」
「それも覚悟しております。……ガートルード本家以外にはお認めくださいますか?」
「よろしいでしょう」
 淡々と話を進めていくふたりにマリアージュは困惑した。ルディアがこの場に現れることはまったく予想の埒外だった。彼女は軟禁されていたはずなのだ。
 アルヴィナに支えられながら立ち尽くすマリアージュへルディアは穏やかに言った。
「……少し前に屋敷に賊の侵入する騒ぎがございまして。場所を移されましたの。……その後、わたくしの状況を見て手助けしてくださる者が増えまして、このように表に出ること叶いました」
 ルディアが背後を一瞥する。年若い少女とその護衛と思しき男が立っている。少女はアリシュエルに面差しがよく似ていた。
(あぁ、妹……)
 アリシュエルには女王候補の規定年齢に届かない幼い弟妹がいたと、マリアージュは思い出した。
 マリアージュ様、と、ルディアが穏やかに呼びかける。
「女王陛下、と、今後、わたくしがあなたをお呼びすることはかなわないでしょう。この女王選の行く末がどうであれ」
『女王陛下。そのように呼ばれる貴女の姿を目にすることができない』
 それだけが心残り。
 懐かしい声が耳の奥でよみがえった。
「……最後にわたくしにお聞かせくださいませ、マリアージュ様」
「……何を?」
「先ほど、あなたがリリス様におっしゃっていたことですよ」
 ルディアは娘に似た顔に微笑みを浮かべた。
「あなたが女王となった暁に、まず、何をなさりたいのか。あなたはデルリゲイリアをどのような国としたいのか……それを、お聞かせください」
 あなたにききたかったの、マリアージュ。
 ――あなたは女王になれたとしたら、どんな国を作っていきたい?


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