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間章 全ては墓の下 2 


 フランツの出立は早かった。
 土が霜柱に浮く早朝。ディトラウトは日も昇りきらぬ時刻に身支度した。朝に弱いセレネスティを励ましながら、ディトラウトが階下に降りたとき、フランツは玄関広間の肖像画を眺めていた。
 父の絵だ。蜜色の髪に蒼の目。滑らかな象牙色の肌からはあたたかみすら感じる。父が最も美しかったころを、そのまま写し取った精妙な絵だった。
 廊下に並ぶものも、この絵も、すべて同一の画家の手によるものだ。
「……アデレイドのところにこれほど絵を残していたとはね」
「おじさんは、画家の方とお知り合いなのですね」
「彼は君の父君と同郷なんだよ。……もうずいぶん前に亡くなったがね。一緒にデルリゲイリアに移動して、仕事の世話もいくつかした」
 そのうちのひとつは金をひと山もふた山も稼ぎだしたそうだ。
「彼の絵は生々しすぎる。できれば燃やしなさい。アデレイドの執着を断ち切るためにも」
 フランツはディトラウトに諫言して、イェルニ邸を去った。


 フランツが帰国してしまうと、客人の来訪による賑わいは静まり、張り詰めた空気がイェルニ邸に戻った。
 家庭教師に付いて学び、自由時間は読書で過ごす。時折、セレネスティに誘われ、町の子どもたちに混じって遊んだ。遠慮ない彼らは苦手だった。それでも次期領主として人にもっと馴染むべきだと妹から諭されれば、兄として応えないわけにはいかなかった。
 そうこうするうちに新年を越え、荒野が色づく季節となった。方々で燻る花の香りを運ぶ風は、まだ冷たく乾いていたが、日差しは日に日に暖かなものとなっていった。
「ディトラウト様」
「……ヒース?」
 絡み合った古木の根を長椅子代わりに、本を読んでいたディトラウトは、やさしい響きの呼びかけに面を上げた。
 屋敷の方角から歩いてくるヒースが見える。彼のゆったりとした足取りとやわらかな表情から急ぎの用件ではないと知れた。
 ディトラウトは栞を挟んで本を閉じ、笑顔で彼を迎え入れた。
「ヒース、どうしたの? お迎え?」
「いいえ。休憩です。今日は時間が空いて……ここのところディトラウト様のお話をゆっくり聞けておりませんでしたから、参りました」
 ディトラウトは座っていた古木の根の端に寄り、ヒースのための空間を空けた。
「せっかくだから、座って」
「……では、失礼を」
 ヒースがゆったりとした所作で腰を下ろす。彼はヘイデンに徹底的に躾けられていて、ちょっとした指の上げ下ろしでさえ、下手な貴族の子女よりも品がある。
 ほんの四つばかり年上なだけであるのに、青年の域に足を掛けたこの従僕の横顔は、大人として充分な落ち着きを有しているのだった。
 花盛りの丘陵を眺めながら、ヒースは話を切り出した。
「ここのところ、町の皆と出歩いているようですね。慣れましたか?」
「……うん。どうにか……。セレがいないと、まだ緊張するけれど。……情けない?」
「いいえ。苦手なことを克服しようとなさっている。ご立派ですよ」
 ディトラウトはゆるゆる首を横に振った。
 セレネスティも、ヒースも、皆に交じって立場を自ら築いている。妹に手を引かれてようやっと人の輪に入れるディトラウトとは違う。
「僕はまだまだだよ……」
「ですが、前より努力なさっていることは伝わっておりますよ。何か……ございましたか?」
 心境の変化を招くものが。
 ディトラウトはヒースの野の彼方を見つめた。
 蒼と薄紫の入り交じる地平線を越えた先には王都がある。
「セレが王都に行くとき、僕が頼りないままだと、安心して行けないから」
「ディトラウト様らしい理由ですね」
「……ヒースも、王都に行くんでしょう?」
 ディトラウトの指摘に、ヒースが顔色を変える。
「……誰がそのようなことを?」
「……フランツおじさんの部屋で、話しているのを聞いたんだ……」
 ヒースの呆れた目がディトラウトを射る。
 彼は固い声音で追及した。
「……ほかには何を聞かれましたか?」
「母様から呼び出されても、断れって、ヘイデンが言った、ところ、まで……」
 ヒースがみるみるうちに色を失い、ディトラウトは言葉尻をすぼませた。
 父の葬儀を終えてからまもなくのことだ。母の居室から青ざめた顔で現れたヒースと鉢合わせしたことがある。彼は珍しくディトラウトに礼を尽くさずすれ違い、屋敷の裏手まで走って胃の中のものを吐いた。
 そのときのことを、ディトラウトはだれにも告げていない。ヒースに口止めをされたからだ。
 以来、彼が母から呼び出しをたびたび受けていたことも、ディトラウトは知っている。
「お母様からの呼び出しは、よくない、ことだった?」
「……えぇ」
 膝の上で握り合わせた手にディトラウトが視線を落とす。その手の甲に彼自身の爪が強く食い込んだ。
「拒否しろ、とは言われましたが、私はイェルニの、アデレイド様の従僕です。私だけではない。私も、母も、妹も。……できるはずがない」
「僕が……母様に言っても?」
 ディトラウトの問いかけに、ヒースは悲しげに微笑んだだけだった。
 元より母がディトラウトの話に耳を傾けるとは思っていない。それでも、何も、できないのだろうか。
 できないのだろう。
「ディトラウト様もおわかりでしょう。私がここにいること自体がよくないのです。……ご領主様のことがなかったとしても、父は私を王都へ送ろうとしたでしょう」
「いつ戻ってくるの?」
「さぁ、いつでしょうか」
「……戻るなって言われた?」
「ディトラウト様は勘違いしておいでです」
 ヒースが笑いを含んだ声で指摘する。
「いまは私がいても状況が好転しないので、しばらく離れるように言われただけです。ディトラウト様がご領主の職務を引き継がれた折には、ぜひこれまでのようにお手伝いさせてください」
 ヒースの発言は、はたして真実だろうか。
 扉越しに聞き耳を立てたとき、彼が言うようには聞こえなかったけれども。
 黙考するディトラウトに、ヒースは不安を覚えたようだ。彼は古木から腰を上げると、ディトラウトの前に跪いた。
「――お許しくださいますか?」
「あ、当たり前だよ!」
 ディトラウトは勢い込んで立ち上がった。
 拳を握って力説する。
「僕が領主のときは、ヒースが執事の長だ。そうだろう?」
「……ありがとうございます」
 ヒースは瞠目したのち、礼を述べて微笑んだ。
 それはどこか悲しげで、ディトラウトが語る未来を、欠片も信じていないようだった。
 ディトラウトは拳に力を込めた。
(……つよく、ならなきゃだめなんだ)
 セレネスティと同じだ。
 ヒースが王都から安心して戻ってくるためには、ディトラウトは立派な領主となっていなければならないのだ。
 アデレイドは戻ったセレネスティを王都へ追い返す。
 ヒースを居室に呼びつけて、彼をまた苦しめる。
 母にそうさせないだけの、強い領主にならねばならない。
 ディトラウトはヒースの手を握った。彼は驚いたようだったが、ディトラウトは離さなかった。
「ヒース、大丈夫だ。……僕が、ヒースを守れるだけの、領主になる。ぜったいなるから……」
「えぇ……」
 ヒースがディトラウトの手を握り返す。
「なれますよ、ディトラウト様なら」
 ディトラウトを仰ぎ見るヒースの目は確信を抱いている。
 ヒースの目はセレネスティと同じだ。
 ディトラウトを安心させ、勇気づけもする。
 ヒースが腰を上げて膝から土を軽く払う。時を計った彼は、そろそろ館内に戻るべきだと促す。
 頷きかけたディトラウトはヒースの肩越しに、息切らしてかけてくる少女を認めた。
 亜麻色の髪を揺らす彼女は、メアリ。ヒースの妹だ。
「兄さん! こんなところに……あっ、ディン様! 丁度よかった! お館様がお呼びです!」
「……母様が?」
 アデレイドがディトラウトを呼びつけることは稀だ。それこそ父が急逝したときしか、ディトラウトには記憶がない。
 強い風が丘陵の表面を撫でる。
 一斉に散った花弁が、空に投げ出された。


 馬車回しに連なって停められた幾台もの馬車。鞄を抱えて往復する使用人たちの顔には焦燥が滲む。
 彼らの姿を目にするだけで、尋常でない何かが起こったのだと察せられた。
 アデレイドの執務室には、彼女のほかに、執事長、侍女頭といった、各役職の長が集められていた。詰め所から呼ばれたらしく、騎士団長の姿まである。セレネスティもいた。彼女は壁際の椅子に座り、表情を固く強張らせていた。
「――アズラリエル・ウォルガ・ペルフィリア女王陛下が崩御なさいました。次代としてお生まれになるはずだった、姫君とともに」
 アデレイドの宣告はその場から音という音を消し去った。
 緞帳のごとき重苦しい氷雪に部屋が覆い尽くされたときのようだった。
 この花の季節、もうひと月もすれば、ペルフィリアは新しき王女の誕生に賑わうはずだった。
 だがつい数日前、女王は予定よりも早く産気づき、難産の末、子と共にまぼろばの地へ旅立ってしまった。
「喪の儀式と次代女王の承認のため、わたくしは急ぎ王都へ向かわねばなりません」
 ヘイデンがアデレイドに随行する者たちを発表した。彼自身はアデレイドに代わって采配を揮うべく領地に残るようだが、侍女頭、ほか、大勢が母に付き添う。
「しばらくは戻らないでしょう。……ディトラウト」
 いつぶりだろうか。母から名を呼ばれるなど。
 ディトラウトは背筋を正した。
 アデレイドは妹の名も呼んだ。セレネスティも緊張に頬を上気させ、椅子の上で居住まいを正していた。
「不在の間、留守を任せます。皆、ふたりをよく、支えて過ごしなさい。……わたくしが、戻るまで」
 社交季の都度、王都へ向かう母を見送ったが、このように後を任されたことはかつてなかった。
 胸がざわついた。
 アデレイドが最後にヒースに一瞥をくれる。
 それは特別な心情を含んでいるかに見えて、単に業務を指示する目配せだったようだ。
 ヒースは目礼をアデレイドに返し、自分たち兄妹を部屋から連れ出した。
 その夜、アデレイドは王都へと出立した。
 彼女は二度と帰らなかった。


「……母が死んだ……?」
「アデレイド様だけではございません。随行していた者たちも、みな……」
 ディトラウトは母の執務室でヘイデンから母の訃報を受けた。セレネスティとふたりで可能な領地運営業務を捌いているさなかのことだった。
 愕然として声も出せないディトラウトより、セレネスティの方が早く我に返った。
「それって……事故に遭ったってこと?」
「いいえ。事故ではございません――殺されました。暗殺、されたのです」
 ヘイデンの発した言葉の理解に、ディトラウトは少々の時間を要した。
「……えぇ?」
「内乱です、ディトラウト様。女王の座を巡って、争いが始まったのです」
「次の女王陛下となられる方は決まっているはずじゃないか!」
「お亡くなりになりました。ほかの皆様も含め、大勢が……いま、王都は血の海です」
 女王を支えていた大臣二家の諍いを発端に、次代の女王として予定されていた令嬢が暗殺された。
 二家の争いは周囲に飛び火して、貴族同士の内部抗争に発展。王都から女王になり得る女子は、総じて暗殺の憂き目に遭っているという。
 アズラリエルが亡くなってまだ半月ほどだというのに。
「そんな……そんなこと、正気じゃない!」
 セレネスティの叫びに、ヘイデンが表情をさらに沈ませる。
「正気ではないのでしょう。……悪い知らせがもうひとつございます」
「……説明して」
 ディトラウトの促しに応じて、ヘイデンが重々しく口を開く。
「貴族の娘だけではありません。どう聖女の血が入っているかわからないからといって、使用人や、出入りの商人も……とにかく、貴族階級と接触のあったものたち、誰彼かまわずに、虐殺されている状況だそうです」
 さらにはこの混乱に野党が乗じ、王都周辺部の村々までが焼け野原なのだと、ヘイデンは述べた。



 領主になる覚悟は決めていた。
 けれどもこれほどまでに早くなるとは欠片も思っていなかった。
 王都が混乱しているせいか、アデレイドの遺体はイェルニ邸に帰ってこなかった。彼女に随行していた使用人たちの分も同様だった。
 親しい者たちの喪失に泣きくれる皆を励まし、空の棺を前に合同の葬儀を早々に済ませることが、ディトラウトの領主としての最初の仕事になった。
 葬儀の件が片付いて早々に、ディトラウトはヘイデンの勧めから町人たちの順次疎開を命じた。
 中央から広がった戦火の被害者は、拝領している貴族が主だった。襲撃者は次代の王となりうる娘を中心に狙った。それに巻き込まれるかたちで、使用人を含め、平民にも多くの死傷者が出ていた。
 イェルニ家にはセレネスティがいる。田舎領主だが、国境を任されている以上、格式もある。貴族同士の内乱が妹を狙っていつ迫ってきてもおかしくはない。
 町の住人たちを順番に農村地へと逃がす。護衛として騎士団の人員も一部つけた。もう一部の騎士たちを情報収集をさせるべく隣の領地へ派遣し、残りを町周辺の警備に当たらせる。
 人に命じることすら覚束ないなか、ディトラウトは必死に手配をこなした。ヘイデンたちの助けなしには到底なしえなかっただろう。
 ディトラウトが慣れぬ業務に忙殺される一方で、セレネスティは皆の精神的な支柱となっていた。
 アデレイドの死の折に、妻を、夫を、子を友人を失った者たちを慰問し、町を離れる領民を笑顔で送り出す。騎士団の詰め所には塩気を濃くした肉詰めを携え日参する。
 彼女がいて初めてまとまったことも多くある。
 しかしそれをいつまでも続けるわけにはいかない。
「……僕を、デルリゲイリアへ?」
「フランツおじさんから返事がきた。君をいつでも受け入れるって。……母様が亡くなってから、おじさんにはすぐに手紙を書いたんだ。商家の娘を装って移動させるから……亡命の手続きは僕があとでする」
「それ、僕ひとりが逃げるってこと? ふざけないでよ!」
「セレ、よく考えて。暗殺者だか、野党だか知らないけれど、貴族の女子を中心に狙われているんだ。セレはペルフィリアのどこにいても危険なんだよ」
 町人と共に彼女を農村へ避難させることも考えた。
 だが事態が落ち着くまで国内を転々とすることもありうる。他国への亡命を選ぶことは可能なら当然の帰結だった。
 セレネスティが肩を落とした。
「……僕がいたら、ディンたちも危険なんだね」
「うん……」
 ディトラウトは肯定した。
 セレネスティの目に諦念が浮かぶ。
「わかった、行くよ」
「……ごめん、セレ」
「ううん。……おじさんのところへ行けるのって、僕ひとりだけ?」
「メアリたちふたりと一緒だよ。騎士団からもふたりつけるから」
 年少の使用人の多くは先に町から退避させたが、ディトラウトを手伝う家族に従って残る者も数名いた。
 たとえば、妻と残ってディトラウトを補佐するヘイデンの娘、ヒースの妹メアリのように。
「支度でき次第……遅くとも、今日の夜までには出発して欲しいんだ」
「そんなに、すぐ?」
「レミレーとジュラが、焼け落ちたんだ……」
 レミレーとジュラはここからほど近い領地だ。
 ディトラウトの言葉にセレネスティが瞠目した。
「……焼け落ちたって……なに?」
「そのままだよ。町に火が放たれて、その間に領主の館が襲われたらしいんだ」
「相手は徒党を組んでいます。それも大勢で」
 ヘイデンがディトラウトの発言を補足する。
「これが貴族の手によるのか、もう単なる賊であるのかわかりません。その混合かもしれません。大義名分も何もない。殺戮だけが行われ、領主ご夫妻と、ご子息やお嬢様方も、お亡くなりになったと早馬が参りました」
「セレネスティが離れたら、僕らもここから移るから」
 貴族が狙われている以上、ディトラウト自身も危険だ。少なくともイェルニ邸から退避する必要がある。
「ディンは、一緒に行かないんだね」
「僕は領主だ。……セレが帰ってくる場所を守るのが、お役目だよ」
「確かに」
 セレネスティは口元に手を当てて忍び笑った。
「……いっぱい貴族が減って、僕らだけ生き残ったら。僕が女王をするってこともありうるかもね」
「そうなったら大変だね……」
「ディン、なぁに人事みたいに言っているんだよ。僕が女王様になったら、ディンにも手伝ってもらうからね」
「……どう手伝うの? 領地を預かるだけでも、僕もういっぱいいっぱいだよ……?」
「あーも、そういう情けない発言やめてくれる? せっかくさっき見直したのに」
 セレネスティが半眼でディトラウトを睨め付ける。急に生来の弱虫が胸のうちで疼いた。
「ごめん、セレ」
「いいよ、ディン」
 セレネスティが距離を詰めて、ディトラウトの首に腕を回す。
 妹の華奢な身体は震えている。
 ディトラウトの肩に顎を載せ、セレネスティがささやく。
「ちゃあんと生き残ってね。それでまた、僕のことを、守ってね、兄上」
 ディトラウトはセレネスティを抱き返した。
「守られているのは――いつだって僕だよ、セレネスティ」


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