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第九章 終演する領主 3


 今回の大陸会議に臨む女王として相応しい化粧を。
 それがマリアージュの注文だった。
 ダイは彼女の肌を整えつつ、卓上に並べた道具を一瞥した。
 ヤヨイがペルフィリアに持ち込んだ品はそう多くない。マリアージュとダイの着替えと二着と靴を含めた正装を一着。身分の証明や換金可能な宝石を数種。ダイ付きの女官たちが準備した化粧品とその道具。
 化粧品の品数は必要最低限。筆の本数も少ない。いつもと同じ感覚で肌を造り、色を載せることは難しいだろう。
 目を伏せて黙考する。
(もっとも、今日の会議に)
 ペルフィリアの今後を決める会議に、ふさわしく、かつ、もっともうつくしい。
 存在感を示せるような。
 ダイは化粧を決めて、マリアージュの肌に唇まで覆う大判の綿布を顔に広げた。ばら水をたっぷり含ませた薄手の布だ。これでマリアージュの肌を潤す間に、彼女の髪を梳いていたヤヨイと場所を替わる。
 ヤヨイは正規の訓練を受けた女官ではない。着付けの手伝いはともかく、髪結いなどの腕は他の女官たちに劣る。彼女たちを連れてくることは、危険だからというより、通常の手段で移動させる時間がなくて、できなかったようだ。
 ダイは香油を手のひらに薄く手に取ると、マリアージュの髪に全体的になじませた。彼女のゆるく波打つ髪の中に空気を含ませて動きを付ける。髪を上下に分け、顔周りの毛量を調節し、上の髪を細く編んで頭にくるりと冠状に巻きつける。
 残りの髪はうなじの上で編んで団子状にまとめた。飾りは無しだ。髪型と顔立ちのつり合いが取れていることを確認し、整肌の仕上げへ。
 綿布をそっと外して手のひらで圧を加え、浸透を促す。
 ダイはマリアージュに尋ねた。
「わたしの手、痛くありませんか?」
「痛くないわよ。……肉球が少ないわねっていうぐらい?」
「にくきゅう」
 つまり、痩せて骨が当たる、ということか。
 ダイは苦笑して、わかりました、と、告げた。
 手はダイの仕事道具だ。ルグロワ市からペルフィリア王都への道中、その保護にはことさら気を付けていた。それでも食生活の偏りや睡眠の不足は手指に出る。指先が割れるほどではなかったし、この三日も最優先で保湿し、手のひらに軟膏を擦り込んだ。
 マリアージュの感想から、手のひらを密着させる程度なら平気なようだが、やはり摩擦は避けることにしようとダイは決めた。
 ばら水で湿らせた綿布で、主人の肌に乳液を塗布する。手のひらで再び圧を加えて馴染ませる。土台となる保湿は基本だ。ここまではいつも通り。
 ここから本番。肌造りに入る。
 会議は長時間だ。昼を跨いでおそらく深夜まで続く。どの為政者も己の国から長く離れるわけにはいかない。一日、多くても二、三日のうちに解散するべく、中身を詰めこむ。
 くすんだ色粉は顔を疲れて見せる。崩れた化粧は女王から権威を削ぐ。いつもなら色粉の種類で工夫するが、今回は手持ちが少ない。マリアージュの肌の素を全面に出す道をダイは選ぶことにした。
(大丈夫)
 鏡越しにダイを静かに見据えていた主人の姿を思い返す。
(あなたはうつくしい)
 わたしの願いを受け入れて、頷いてくれたあなたは。
 ――マリアージュの肌は元々、特に美しいというわけではなかった。
 もちろん、貴族令嬢としてよいものを食べ、侍女に世話されて育っただけあって、肌荒れが目立っていたり、きめが粗かったりということはなかった。しかし彼女の肌は乾燥しやすく、合わない口紅や白粉のせいで肌が傷つき、色むらが出やすくなっていた。そばかすが濃く目立った。
 よく癇癪を起こしていて、感情の高ぶりから泣くことが多かったのか、瞼も厚ぼったかった。
 例えば、最も美しいと称され、最有力候補だったアリシュエルの、圧倒的にきめ細やかで滑らかな肌に比べれば、平均的な、凡庸な肌と言えた。
 だがダイがマリアージュに侍るようになって四年強。ダイがその日ごとに化粧を変え、体調に合わせてこつこつと手入れすることで、彼女の肌は変わった。
 きめはより細かく、質感はなめらかに。そばかすの色はほとんど目立たず、むしろ肌全体の明るさを強調する引き立て役にすら見える。 
 化粧は単にされる側のなりたい姿を後押しするものに過ぎない。いくら白粉を厚く塗り重ねても、素の肌は地味な手入れを続けない限り変わらない。
 マリアージュはダイと離れている間も最低限の保湿を欠かさなかったという。いつか、ダイと再会したとき、肌がひどい状態だと怒られるから。
 彼女は政務がどれほど忙しくとも、丁寧に食事を取って、肌の手入れをダイかその指導を受けた女官にさせる。それは贅を求めてのことではない。化粧師を《国章持ち》に据える女王として、自信を持って振舞うために、政務を終えて時間を空けるのだ。
 マリアージュのいまの素顔は、彼女のこれまでの研鑽の象徴。
 歯を食いしばって女王選に向き合い、即位してからは忍耐を覚え、わからないなりに正面から政務に取り組んできた彼女の変化そのものを表していた。
 初めて出会ったときの彼女は女王になどならないと泣き喚いていた。物を投げ、足を踏み鳴らし、人の言葉も何もかもを拒絶して、卑屈に嗤って己を卑下し続けていた。
 いまのマリアージュは穏やかに人の目を真っ直ぐに見る。
 素顔で人と向き合うことを恐れない。
 何も隠す必要はない。彼女が内側から放つ輝きそのものを表すことに、ダイは専念する。
 まずは下地。疲れた顔に見せない、という点を最優先にする。液状の色粉を少量混ぜて、薄紅がかった乳液を頬、額、顎下、と、点置きし、目の細かい海綿で丁寧に塗り伸ばす。目や小鼻の際、瞼の上も念入りに。瞼の上は薬指の先で軽く叩いて馴染ませる。
 薄紅は肌に血色を出す。青系の下地や色粉と異なってくすみづらい。下地の上に色粉を重ねた方が、その効果もわかりやすいのだが、化粧を出来うる限り薄くしたい。重ねる工程を最小限にするための処置である。
 次は練粉だ。主人の肌色よりひとつ明度の高いそれを、ダイは己の左手の甲に落とした。それを平筆でマリアージュの顔の中心部にだけ薄く塗布。
 目尻と小鼻を結んだ線より上から下瞼に掛けて。額の中心と、顎の先に丸く。鼻筋にはそれらの余りを薄く伸ばして、塗らなかった肌との境は、海綿と指の先を場所によって使い分け、馴染ませていく。
 マリアージュが不思議そうに尋ねる。
「全体に塗らなくていいの?」
「はい。最小限にしたいので」
 ダイは次に橙色の練粉を色板から選んだ。本来なら瞼の上を彩色するために用いる、細めの平筆で色を採り、手の甲で液量を調節し、マリアージュの目の下に注す。
「視線を上に向けていただいても? 下瞼の際に色を入れます」
 マリアージュは無言で目だけを動かした。慣れたものである。
 左手の薬指で頬骨の皮膚を押さえ、ぴんと張った目の下に筆を滑らせる。色板にあるときは、それこそ目を瞠る鮮やかな橙なのだが、肌にのせると一転、薄くなじんで隈のようなくすみを消す。
 色の境を海綿の端で馴染ませ、次。
 毛足の柔らかい大型の筆に粉をよく含ませる。その筆で顔全体の肌を磨く。激流の水で揉まれ、角や表面を削られた石の風合いのような、硬質とやわらかさの同居した見目を再現する。
 彼女の素の肌が見えつつも、疲労の色だけがきれいに消えた仕上がりに満足し、ダイは彩色に移った。
 手元にある色はそう多くない。女官たちは基本色の最も淡い色と濃い色を半々に収めたらしい。
 ダイは少し考えて、まず、赤をとった。
「目を閉じていてください」手の甲で色の量を調節する。色がほとんど出ないという域になったことを確かめ、眉山を左の指で瞼の皮膚を張って、眼球の丸みに色をのせる。ぱっと見では化粧をしていないと思える程度だ。しかし遠目に見れば血色感を覚える。
 次に細筆で赤と茶、黒を取る。三色を手の甲で混ぜて、マリアージュのまつげの色を造り、その生え際、目頭から虹彩の端まで、ごくごく細く線を引く。これでマリアージュの胡桃色の瞳が大きく見える。目に力強さが加わるのだ。
 眉は毛流と形をきれいに整え、彼女の髪色に合わせて作った色で毛の隙間を埋める。頬紅は小鼻から頬骨の高い位置まで。マリアージュの肌色を海綿で叩いて注した。土台となる肌を明るくしているから、それで充分な明暗と血色感が出る。
「マリアージュ様、唇を」
 ダイの声掛けにマリアージュが顎を僅かに上げる。ダイはその顎を左手で固定した。今回は下地の蜜蝋を塗らない。そのためにばら水で予め充分に保湿した。
 マリアージュの唇のかたちははっきりとしている。大きくて、肉厚で、なのに皮膚が弱い。色を選ばないと目立つし、皮むけを起こす。
 だから、マリアージュは口紅が嫌いだった。
 初めて彼女に化粧をしたとき、用心して色を選んだ。しっとりと艶のある淡い色を塗った。
 今日は逆だ。夜に咲くばらの花弁のような、黒に限りなく近い赤――国章の色を選んで唇の中心部に刷く。
 ダイは畳んだ布をマリアージュに手渡した。
「すみません、布を咥えてもらいますか?」
「いいけど、珍しいわね」
「色を密着させて、もう一回、さらに塗り直します」
 国章の色は式典用に作ってもらった。たまに目じりに注す。さらさらとした質感の、純粋な色粉だ。口紅にも転用できるが、蜜蝋と混ざっていないので、色がはっきり出る。そして、落ちづらい。
 マリアージュの唇全体に塗ればけばけばしいが、唇の一回り中心部に塗ると神秘的な印象になる。時間が経つごとに輪郭が暈けて馴染み、さらに色味の少ない全体を引き締めてくれる。
 ひと目みただけでは、ただ白粉と口紅をのせただけに見えるかもしれない。
 けれども、それでいいのだ。大勢が傷つき、あるいは命を落とした国の趨勢を決めようという会議に臨むのだ。色彩に溢れる煌びやかな化粧は似合わない。単純に場違いだし、戦場に自分の武器はこれだとひけらかして立つようなものだ。
 全体の調和を見直し、ダイは主人に尋ねる。
「何か気になりますか?」
「ないわ」
 マリアージュの答えは端的だった。
 ダイは粉避けの布をとった。マリアージュが椅子から立ち上がる。傍に控えていたヤヨイが衣装の裾を直し、毛織の外套を着せかけた。
 頃よく廊下から扉が叩かれる。番の騎士が宰相の来訪を告げる。
 マリアージュが外套の裾を翻して言った。
「じゃあ、行ってくるわね」
 散歩にでも出かけるときのような。
 気安く明るい――何も心配ないと思わせる声だった。 


 廊下に立つロディマスはマリアージュを見るなり微笑んで言った。
「今日は格別に美しいね、陛下。力を感じる」
「当然でしょ。ダイの力だもの――あんたも、今日は頼んだわよ」
「お任せください」
 参りましょう、と、ロディマスが手を差し出す。
 彼の先導を受けてマリアージュは歩き出した。
 この三日、ロディマスも情報収集と交渉で方々を走り回っていたはずだが、意気軒高に見える。マリアージュから玉座を奪い、再び仕えると定めてから、あらゆる迷いを捨て、研鑽し、先代女王の息子として利用される側から、女王のために人を操る宰相として一皮むけたようだった。ペルフィリアに来てからも育ちの良さから来る、人当たりの良さを最大限に生かし、目的の達成のために情報をかき集め、神経質なほど細かい交渉の台本を編んでいた。
 だが、会議の円卓に着く面々は、誰もが自分たちより経験ある為政者がほとんどで、誰もが単なる慈善事業でこの場にいるわけではない。
 元より一回目の大陸会議が開かれた時点で、この大陸は混乱の最中にあったのだ。
 聖女教会とレイナ・ルグロワのせいで《光の柱》が立ち、多くの者が唐突に消えて、各国の混乱は加速した。
 デルリゲイリアも安定しているとはとても言えない。ただし、国家転覆を狙っても、相手に何も旨味がない。借金ばかりを背負って苦しむはめになる。だからマリアージュは国を離れられたのだ。
 マリアージュが玉座から蹴落とされ、リリス・カースンが仮の女王となった折、国庫の金は彼女とカースン家、そして彼女たちに追随した一族によって持ち出された。
 マリアージュは残ったわずかな金を投資に回し、手数料を回収して資金繰りに腐心している最中なのだ。ミズウィーリ時代、ヒースがしていた手法である。
 流民や傭兵に畑や工房が荒らされた村も多く、税の収入もはかばかしくない。貴族からも民衆からも、自分たちが貧しいのはお前のせいだと指さされる、そのような王冠を、誰が頂きたいと思うだろうか。
 留守を任せた女たち――女王候補だったシルヴィアナとクリステルも、いま女王になるのはお願い下げだ、くれぐれもペルフィリアで死んでくれるなと、出発前のマリアージュに念を入れるありさまである。
 マリアージュは手に入れたいものがあってペルフィリアまで来た。
 他の国も同様である。わざわざ女王と宰相、《国章持ち》そろい踏みで、無理を押して来ている。それは欲しいものがあるからだ。各国の情勢に有益となる何かがペルフィリアにはあって、それが救済にもなるから、表向き善人の顔をして集まっているに過ぎない。
 老獪な彼女たちと渡り合って、マリアージュはペルフィリアの安寧を手に入れなければならない。
 無言のうちに煩悶するマリアージュの視界にふと、閃く手の影が過った。
 視線を動かすと、進行方向右手。通りの角の壁に寄りかかり、ダダンが腕を組んで立っていた。
 会議までの時間に余裕があることを確かめて、マリアージュはロディマスに告げた。
「少しだけ話がしたいわ」
「……次の角で待つよ」
 ロディマスはダダンを一瞥し、マリアージュの手から腕を外した。
 歩いていく彼の背を見送る。
 ダダンは特に体勢を変えることなかった。立ち止まったマリアージュに首を捻る。
「何か依頼か?」
「そうじゃないわ。ダイのことで礼をって思っただけ」
「殊勝なこった。気にするな。こっちも最後まで送り届けられたわけじゃないからよ」
「それでも、ダイが無事だったのはあんたのおかげでしょ」
 ペルフィリア国境から王都まで安全に運び、その上で王都に潜入させて、混乱する王城の内部でも守り切った。ダイが無傷で帰ってきた最大の功労者は彼である。
 マリアージュも彼がいなければ、再び女王となることはできなかった。
「感謝するわ」
 マリアージュの謝辞にダダンはため息を吐いて頭を掻いた。照れているのだ。それがわかる程度には、マリアージュもこの男と長く生活を共にした。
 ダダンがロディマスを眺めてマリアージュに問う。
「……会議、いけそうか?」
「できる限りのことはしたわ」
「俺はお前の自信のほどを訊いている」
「どうにかする」
「気弱か」
「違うわよ……。怖気づいてもいない、と、思う、けど」
 自信がない、というのではない。
 それは送り出してくれたすべてのものへの侮辱だから。宰相を信頼していないと宣うに等しいから。
 ただ――……。
「わたしって我が儘なのかしらって、考えているの」
「我が儘?」
「そう。……わたし、女王たちの誰からも嫌われたくないのね。衝突したくないし、侮られたくもない」
 我が儘で癇癪持ちの小娘だったマリアージュ。女王候補として選ばれながら、社交界では鼻つまみものだった。
 小スカナジアで開かれた大陸会議では、どの女王とも悪くない関係を築けた。今回もゼムナムからの船上で顔を合わせたとき、互いの無事を喜べた。
「彼女たちと上手く利益を分け合えればいいって思っているし、欲しいものを手に入れたいし、この国も単に利用されるのではなくて、ちゃんと救われてほしいと思っているわ。……というか、そうでなければ嫌だわって思っているの」
 政治の欺瞞を知っていながら、あまりに能天気な達成目標である。
「我が儘じゃない?」
 マリアージュが尋ねると、ダダンが呆れに目を細めた。
「お前が我が儘なのは最初からじゃねぇか」
「……あのね」
「だいたい、世の名君は強欲で我が儘だって、相場が決まってるもんだ」
 ダダンが笑って壁から身体を起こす。
 彼はその手でマリアージュの手の甲を包んだ。
 マリアージュはぎょっとした。この男は自分を荷物のように担ぎもするが、異性に不用意に触れたりはしない。殺気立つ近衛の目があるならなおさらだ。
 男に手を抑え込まれ、マリアージュは自分のそれが、戦慄いていたと知った。完全に無意識だった。
「大丈夫だ」
 ダダンは言った。
 その声で厳かで、マリアージュの手を包む手は大きく、熱かった。
「いくつもの国とその王を見てきたからこそ宣言してやれる」
 男が囁く。
「前を見ろ。胸を張れ。まごう事なき――お前は女王だ」
 その、夢物語のような我が儘を叶えられる、女王なのだ。
 そうね、と、マリアージュは笑った。
 手を放すダダンに問う。
「そういえば、ダイの件の謝礼は何がいいの? 会議が終わるまでに考えておいて頂戴」
「あぁ、たいしたものはいらねぇよ」
 ダダンは肩をすくめて言った。
「上等な酒を一本くれ。お前の酌で飲ませてくれよ」
 今度はマリアージュが呆れる番だった。
「贅沢な報酬だわ」


 会議室に各国の代表と書記を務める文官たちが揃い、扉が騎士たちによって閉じられる。
 ドンファンの女王が宣誓に声を上げる。
「我らここに、まぼろばの地にて仔らを見守りし」
 一瞬だけ躊躇い、彼女は少しだけ、文句を変えた。
「神に誓う。これより語りしことに偽りなく、これより契りしことはしかと叶えん――我らに神の祝福を」
 聖女の名を抜いても、為政者たちから異論はでなかった。
 彼女たちは議長に倣って唱和した。
『祝福を』
 ――そうして会議は始まった。


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