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第四章 侵攻する聖女 4


 早朝、改めてドッペルガム側と行動予定の擦り合わせを行い、昼食をルグロワ市の実務者たちと取る。レイナの下へ案内されたのはその後。太陽の光が最も眩しく、かつ、室内に入り込まない昼下がりだった。
 正方形の居室。ルグロワ市の紋章が織られた絨毯と大判の姿見。作業台替わりの円卓。椅子は二脚。一脚は腰の丈まである背のない丸井座面の椅子で、もう一方は揺り椅子に似た、背もたれ部分が大きく上に弧を描く籐製のものである。
 その椅子にゆったりと身を預けるレイナの肌に、ダイは香膏を塗り付けた。質の良い蜜蝋、香油、精油を組み合わせて作るもので、肌に載せると体温でとろける。それを、まずは両肩のまるみ。続いて鎖骨回り。首筋から顎下を通って輪郭へ。頬や額、鼻筋にも。
「違和感はございませんか?」
「いーえ。とおってもいい気分です」
 ダイの問いにレイナが答える。弾むような明るい声だ。
「何かありましたら、お声がけを」
「はい。よろしくお願いいたします」
 レイナの言葉に頷いて、ダイはゆっくり手を滑らせた。
(……こういうのも、久しぶりだなぁ)
 この戦時下で、残念ながら化粧師としてのダイの仕事は多くない。マリアージュの日々の手入れと化粧は欠かさないし、ダイの下についた女官たちを相手に練習は怠らないようにしているが、贅沢に時間を使って手入れや化粧をすることは少なくなった。ダイの時間の多くは、文化や技術、職人の保護のために割かれている。いつか誰もがそういったことを気兼ねなく楽しめる日がきたときのために。《芸技の小国》。その銘を喪失しないように。
「うふふ、きもちーい」
 ダイがレイナの耳下から鎖骨にかけて、掌底の圧を加えつつ、ゆっくり撫で下ろしていると、彼女は機嫌よくくふくふ笑った。
「これが毎日だなんて贅沢だわ……。ねぇ、ダイは知っていて? 魔女は皆、とてもうつくしいのですって。当然よね。魔力が高いのだもの。そうならきっと、シンシア様はきれいに肌を磨いてもらったり、聖女と定められたときも、お化粧をしてもらえなかったってことだわ。きっとレイナのことを羨むわね」
「かもしれませんね。……あぁ、そうです。式典の化粧について、あとでいくつか質問をさせていただいても?」
 昨晩、聖女教会が布告した。これより五日後に聖女再誕の儀式を執り行う。教会は聖女シンシアの血統に連なる者として、レイナ・ルグロワを候補とする。
 そのあと教会からレイナの肌の手入れと化粧を行うよう指示があった。元よりそのつもりで来た。否やはない。だが、聖女の儀式についてダイは何も知らされていなかった。確認したいことが山とある。
 ダイの問いにレイナはもちろんです、と、明るく請け合った。
「あとじゃなくてもかまいません。いまでも」
「レイナ様がくつろげないのではありませんか?」
「いいえ。むしろダイとたくさんおしゃべりできるのならうれしいです。それで、何をお知りになりたいの?」
 当のレイナがそう言ってくれるならありがたい。ダイは壁際に控えていたアレッタに書記を依頼して、手入れを進めながら、式典の内容を質すことにした。
「まず端的に、レイナ様ご自身のご希望はございますか?」
「お化粧について? 聖女らしいものがいいです。あとはダイにお任せします」
「衣裳はどのようなものを身に着けるご予定でしょうか」
「クランの伝統衣装なのです。国色に染めた絹をたっぷり使っていて……。うーん、お口で説明するのは難しいですね。あとで似たものを宿舎にお届けいたしますね」
「何か演出はございますか?」
「うーん、その辺りはレイナも詳しくないのです。複雑なことはオジサマたちがすべて決めていて……」
 そのほか、時間帯や同席する人員など、様々なことを尋ねたが、具体的なことは何もわからない。困った顔でレイナはごめんなさい、と、言った。本当に知らされていないのか、彼女がのらりくらりと交わしているのか。
 香膏を拭って、泥炭を混ぜた練り物を肌に塗る。肌を鎮静させている間に、次は洗顔料を水で溶いて泡立てる。
「お化粧を決めるのに、いつもこんなにたくさんのことを確認するの?」
「行事ごとのときは特にそうですね。衣裳や宝飾品との調和を考えますから、国元でも女官たちと細かく打ち合わせします。厳かな雰囲気を重んじるのなら、華やかな色味を控えることもありますし……」
「そう。ダイのお化粧は、その人を世界に馴染ませてあげるお仕事なのね」
「いえ、どちらかと言うと……その人が一番、ありたい姿に近づける仕事です」
 湯につけて絞った柔らかな布で、レイナの肌から泥炭の練り物を取り除きながら、ダイは答えた。
「えぇっと、他の顔師はどうかわかりませんが、その人がどうありたいかが、わたしにとっては一番たいせつなので、場から浮き出たいのか、それとも馴染みたいのか。どちらを選ぶにせよ、舞台や背景を知らなければ始まりませんし」
 こういう話をすることも久々だな、と、ダイは思った。
 ミズウィーリに勤め始めたばかりのころは、よくマリアージュに自身の仕事について説明した。いまのレイナのようにダイの仕事の意図をマリアージュもわかっていなかったからだ。
 そこでふと、ダイはもっとも重要なことをレイナに聞きそびれていたことに気づいた。これだから政治に意識を傾けすぎるのはいけない。
 塗布していた洗顔料をレイナの肌からキレイに拭い、綿布とばら水の入った瓶を取り上げて、ダイは彼女に問いかける。
「レイナ様は、どのような聖女になりたいのですか?」
「どのような? 聖女は聖女ではないのですか?」
「聖女とひと口に言っても色々あるかと。礼拝堂の聖女像は同じ顔ですけれど、木造とか、石造とか……素材によって雰囲気も違いますし」
「難しいですね……」
「そもそもレイナ様は、なぜ、聖女になろうと思われたのですか?」
 次の聖女として教会の特使となり、ペルフィリアの民を生贄にと宣った、その行動の理由はいまだ明らかにされていない。
 ダイはレイナについて詳しくない。過去に共に過ごした時間はわずかで、キレイなもの、キレイであることを好み、ダイの化粧を気に入ってくれたこともその嗜好の一環だと思われる。
 社交に長け、初回の大陸会議では主催側に回って世話役を務めている。母は聖女――つまり、魔女を作り出す研究の責任者の片割れだというから、その研究の成果を娘として証明したいのかもしれない。だがレイナは父についてばかり饒舌で。母の意志を継ぎたい云々とは欠片も述べていなかった。
 なぜ、レイナ・ルグロワは聖女となることを決めたのか。
「キレイになりたいから」
 レイナがぽつりと答えた。
「ううん、違うわね。キレイに、したい。……あぁ、そう。レイナは、キレイになりたい。清らかで、キレイな聖女さまに」
「レイナ様は……充分におきれいだと思いますが」
「ふふ、ありがとう。でもね、ダイ。きれいなものはすぐに汚れてしまうのです。この世界がキレイじゃないから」
 ダイは綿布を使い、ばら水をレイナの肌へ丁寧に塗布した。レイナは先ほどまでと打って変わり、胸の上で両手を組んで瞼を閉じていた。
「……ダイが初めてですね。なぜ、教会の求めに応じて聖女になることにしたのか、レイナに尋ねたのは」
 ダイは清めかけていた手を止めた。
「むかぁし昔のお話です」
 椅子に横たわる彼女はどことも知れない宙を見つめて口を開いた。
「ひとりの女の子がいました。お父様と仲良く暮らしていました。お母様は女の子が赤ん坊のときに死んでしまったのだとお父様は言いました。お母様はいませんでしたが、女の子は寂しくありませんでした。女の子はお父様が大好きでした」
「レイナさま、それは」
「ところでこの女の子ですが、お父様は男の子だと、皆に言って育てていました」
 ダイは口を噤んだ。
 謳うようにレイナは語り続ける。
「ある日、女の子が目覚めると、敷布が真っ赤に汚れていました。血だということはわかりました。女の子は敷布を隠しました。自分が何かの病気なのかも知れないと思って。もしそうだとしたら、お父様や、家の皆が大好きだったから、怖がらせるといけないと思って。女の子がお父様の次に仲良しだと思っていた、お父様の一番のお友達だったオジサマに、こっそり相談しました。……その日、すべては一変してしまいました」
 女の子はオジサマに連れさられそうになり、それをお父様が見つけて。女の子のお父様は、オジサマと、そのお友達のオジサマとオジサマとオジサマたちに責められました。
 よこせ。よこせ。その娘をよこせ。
 その娘は、尊い血を濃く受け継ぐ娘。
 お前の妻と同じく、わけられてしかるべきもの。
 よこせ。よこせ。隠していたな。
 聖女の血を我々にも寄越せ。
 オジサマたちに責められて、女の子のお父様は動かなくなり、オジサマたちは女の子の家に火を点けました。オジサマたちがそこいたことを知られないようにするために。
 女の子の大切な人々は、火の中で踊り、そして動かなくなりました。
「女の子の持つ尊い血は権力への標。オジサマたちは弱かったから、力が欲しかったのです。努力もなぁんにもしなかったから弱かったのに。強い人たちは弱い自分たちに力を分け与えて当然。それをしない強い人は罪人。オジサマたちは、そう考えたのです」
「女の子は……どうなりましたか?」
「生き延びました。オジサマたちの間を渡り歩いて。女の子は、それはもう、色んなことをしました。……レイナはね、そう、こういうことがない、キレイな世界を作りたいの。だから、聖女になることにしたの」
 手の止まったダイを見上げて、レイナがにこりと笑う。
「ダイ、これはとある女の子のお話。レイナではないわ。そんな悲しそうな顔をしないで」
 レイナの手がダイの頬に触れる。
 冷えた手だった。
「お化粧の話に戻りましょう。あぁ、そうだわ。ダイのお化粧だけれど、儀式の後になります」
「儀式の後? では、さっきの演出やご衣裳のお話は……」
「儀式と式典は同じではなくて、レイナが聖女になったあと、改めて式典があるのです。ダイのお化粧はそのときに。あぁ、お伝えしておいてよかった」
(そうか。魔術を起動させるのが儀式で、公の行事が式典……)
 教会とルグロワ市は聖女関連の動きをダイたちに伏せている。
 今後の予定について、もう少し詳しく尋ねることはできないか。
「あの、レイナ様……」
「ううん、やっぱり、オジサマたちにお願いしようかしら」
「……何をですか?」
「決まっています」
 レイナはパンと手を打って微笑んだ。
「ダイに、聖女誕生の儀式に立ち会ってもらえないかって」


 レイナの希望は通った。
 教会からはダイとファビアンの二名だけ、儀式の同行を許すと通達が来た。ルグロワ市到着より五日後。ダイはファビアンとふたり、教会側が用意した護衛、兼、見張りの騎士たちに連れられて、地下道を歩いていた。
(ここはどこなんだろう……?)
 地上からはそう離れていない。換気のためか。天井にところどころ穴が開いていて、ちらちらと月あかりが見える――今日は満月なのだ。
 各国から集まっていた教会関係者や魔術師たちは夕刻、船に乗ってルグロワ河を登った。これでルグロワ河が聖女再誕の儀式を行う場所はかの河だとほぼ確定だ。
 ところがダイとファビアンはその船に乗せられなかった。ルグロワ市庁舎の地下階段を下り、そのまま地下水道らしき道を案内されていまに至る。
 前方をレイナが歩いていなければ、どこかに監禁でもされるのかと勘ぐるところだった。
(いえ、いまでも充分、その可能性はあるんですが……)
 同行者は最少人数。道に脇道なし。いざとなれば逃げられるはず、と、ダイは左の手首を撫でた。レイナに渡された銀細工と似た形を模したアルヴィナ手製の護身具の、ひやりとした温度を改めて感じた。
「暗くて狭くて、いやになってしまうわ。ね、ダイ。バルニエ外務官もそう思うでしょう?」
 シーラや女官、数名の兵を伴って先行していたレイナが肩越しにダイたちを省みた。そうですね、ど、ダイは頷き、ファビアンが口元を押さえてこふこふと咳き込む。
「あら、どうなさったの?」
「体調を崩してしまったらしくて……」
 レイナの問いに対し、申し訳なさそうに手を振る彼に替わって、ダイは答える。
「咳が出るので、話せないと、出がけに彼の側近から言われています」
『本当に、本当に情けないのですが。確かにうちの国とクランは気候が全く違いますが。ここに来て風邪を引きますか。馬鹿じゃありませんか。それでも筆頭外務官ですか。この重要な局面で声が出ないとか、ダイ様に何かあったらどうするおつもりですか』
 クレアは今日も今日とて上官に辛辣だった。虫けらを見るような目だった。どうぞ不肖の上官をよろしくお願いいたしますと、ダイたちを送り出す際も深々と頭を下げていた。
 あら、それは大変、と、レイナが口を手で覆う。
「どうぞこのあと、お倒れにならないでね」
「あと……?」
「皆さま、もう間もなくです」
 ダイの疑問はシーラの言葉に遮られた。気が付くと道は若干の下りに入り、傍らにあったはずの水路は消えていた。
 程なくして視界が開ける。
 壺を逆さにしたような広い空間に出た。
「……祭壇?」
 いや、神殿だろうか。
 空間の中央に門らしきものがある。三本の巨大な脊柱を組み合わせて造られている。石の高さはダイの身長の倍、幅は大人が両手を広げて足りぬほど。
 暗闇の中でその石はほのかな光を放っていた。
 淡い緑。近づくと銀がちらついているとわかる。
(石じゃない)
 これは、招力石だ。この巨大な石柱は三本とも、魔力を蓄える性質を持つ特殊な樹木、銀樹の化石なのだ。
 ダイの隣でファビアンが立ち止まる。
 彼は険しい表情でその門を睨み据えていた。
「どうぞ、足下にお気をつけて、そのままお進みください」
 門の傍で待ち構えていたらしい。左右に分かれて三人ずつ並ぶ、魔術師と思しき人々のうちひとりが、ダイたちに門を通過するように誘導した。
 石柱の門の中は闇だった。なのに奇妙に波打って見えた。ちらちら。微細な虹色の光が輝いている。
 いつか見たルグロワ河の、妖精光が舞い踊る夜の水面のようだった。
 いや、本当に水だったのかもしれない。
 ダイが門をくぐると、水に沈んだときのような圧迫感があった。どぷり、と、音がした。呼吸はできる。目も開く。視界は暗かった。前方を歩くレイナたちの姿が奇妙に揺らいでいて、賢明に足を動かすが、砂でも詰めたように重たかった。
 ダイは息を吸って、力強く足を踏み出した。
 そしてその一歩は先ほどの重さが嘘のように地面を踏みしめていた。
 気が付けば、景色が一変していた。
「ここ、は……どこですか?」
「祭壇ですよ」
 思わず零れたダイの疑問にレイナが答える。
「聖女を生み出す、祭壇です」
 そこは半球型の開けた場所だった。
 先ほどの空間が伏せた壺なら、今度は碗だ。天井がやや低い。ただ明るかった。壁も床も天井もすべて壁の内側から淡い緑の光を放っている。その壁面にはびっしりと――執念すら感じさせるほど執拗に、虫の這った跡のような溝がある。魔術文字だ。円形の床にもまた、五重の同心円を描くように、赤黒い墨で魔術文字が描かれていた。
(なんだろ、この臭い……)
 ダイは思わず鼻を覆った。
 嗅いだことのある臭いだ。ひどく、鉄臭い。
「ダイ……」
「ジュノさん!?」
 聞き覚えのある掠れた声はジュノのものだった。彼は両手足を鎖で拘束されて、兵士に押さえつけられている。彼の傍に女性が身を丸めて崩れ落ちていた。
 この角度から顔は確かめられないが、背格好や髪色から判断できる。
「イネカ……リア=エル」
「ダイ様とバルニエ外務官はそちらの椅子へ」
 壁際に設えられた椅子に、シーラがダイたちを座らせる。そのダイたちに微笑んで踵を返し、円の中心へ向かうレイナにダイは叫んだ。
「ま、待ってくださいレイナ様!」
 レイナが怪訝そうに振り返る。
「なぁに、ダイ。いまから儀式です。どうぞ、大人しくそちらでご覧になっていてくださいね。せっかく招待したのです」
「そうではな、いえ、儀式を……いまから、ですか?」
(考えなければ……時間を稼いで、どうにか、状況だけでもわからないと!)
 船がルグロワ河を遡り、魔術で追跡しているジュノの生体反応もそちらへと動いた。この時点で潜入していたドッペルガムの人員が動いている。
 だがここには船で河を先行したはずの人々がいない。せいぜい揃っている人員は、魔術師が十名程度、教会からは三名、あとはジュノ、イネカ、そして、レイナが率いてきたダイたちだけだ。
「あの、先に行った、他の人たちは……」
「ここには来ません。儀式の同席者はこれで全員です」
「じゃあ、あの人たちは……」
「上にいますよ」
 レイナが円天井を仰ぐ。ダイは混乱した。
「上って……じゃあ、ここは河の底? いえ、でも、そんな、街から出てない、ですよね?」
 歩いた距離から判ずるに、まだルグロワ市内のはずである。
 だが、レイナは穏やかに笑って首を横に振った。
「ルグロワ河ですよ。ルグロワ河の……妖精光をご覧いただいた、あそこです」
「そんな、だって距離が……」
「ごめんなさい、ダイ。時間が押してしまうの。質問はまた、終わったら答えて差し上げますね」
「待ってください、レイナさま!」
 ダイはシーラたちの間をかいくぐって、レイナの手を取った。剣を抜きかけた兵たちを手で制し、レイナがダイの手を握りしめる。
「なぁに、ダイ。情熱的なのは結構だけれど、手短にね」
「やめませんか……聖女になるの、これは……これは危険です!」
 ようやく気付いた。
 広い空間を満たす、何とも言えない濃厚な臭気。
 これは、血臭だ。
 聖女を生む魔術には失敗も在りうる。それ自体が危険な魔術だとも聞いている。だが、それ以上に。
「こんな、こんなので、聖女が生まれるはずがない! あなたが望む、キレイなものにはなれない! 絶対に!」
「ダイの言う通りだ」
 はた、と、ダイは動きを止めた。恐る恐る隣を見る。そこにいたファビアンから、彼のものではない声が響いたからだった。
 ファビアンの輪郭が燐光を零しながらほろほろと崩れていく。柔和な印象の顔立ちが怜悧に整ったそれに。
 ダイは叫んだ。
「セイスさん!?」
 ファビアンとしてかけていた丸眼鏡を捨てていたセイスが唇の中で何ごとかを呟く。魔術の呪だとダイは悟った。
「取り押さえろ!」
 誰かが叫び、セイスに兵が殺到する。彼らの影に隠れてレイナがダイの手から逃れて走りだした。
「レイナ様!」
 かっと閃光が瞬き、ダイは目の前を肘で庇った。雷鳴に似た轟音が響いて、セイスの周りの人間が吹き飛ぶ。レイナが円の中央に立ち、魔術師たちに囁く。
「始めて」
 セイスが再び呪を唱え始める。その響きが先ほどと同じで、ダイは慌てて彼に縋った。
「待ってくださいセイスさん!」
「邪魔するの?」
「違います! さっきと同じのはやめてください。ここは地下なんですよ!?」
 何の魔術だったかは知らないが、先ほどの影響で天井から埃が落ちてくる。セイスはあぁ、と、瞬いて、ダイを引きはがした。
「問題ない。この程度で崩れる場所なものか」
「でも」
「離れて」
「えっ、わっ!」
 ダイの身体を跳ね飛ばし、セイスが足下に転がった剣を横向きに掲げる。
 頭上から振り下ろされた剣が激しい剣戟の音を立てた。シーラだ。彼女が細身の剣をセイスに向かって繰り出している。
「ドッペルガムの魔術師?」
 シーラの問いにセイスは答えない。繰り出される剣先を手持ちの剣で弾いては往なしながら、呪を呟き続けている。
 セイスの魔術の後遺症か。兵たちは軒並み蹲って痙攣している。ダイは彼らを跨いでレイナの下へ駆け出した。
「レイナさ……あぐっ……!」
 最も外側の円が輝いて、ダイを弾き飛ばす。
 壁に背を強打して、ダイはその場に蹲った。あまりの痛さに手足がしびれ、呼吸ができない。視界も一気に暗くなっていく。
 レイナは円の中央に跪いて祈っている。彼女の傍でジュノが痙攣しながら何かを呟いており、彼の傍に横たわるイネカがそれに唱和していた。他方に散らばる魔術師たちも同じく。
 魔術の呪が空間一杯に反響し、同時に壁面の魔術文字が光を放っていく。
 赤い、光を。
「あああぁああああああああっ!」
 突如、悲鳴が響いた。
 しわがれた男のものだった。
 ダイはよろよろと上半身を起こした。壁に背を預けたダイの目の前に、男が倒れ込んでくる。
 教会の法衣を身にまとった老父だった。
 彼は血走った目をしてダイの腕を握りしめた。
 その手首にはまる銀細工が異様な輝きを帯びている。
「な、に」
「た、たすけ、な…あ、が……」
 ぼひゅ、と。
 男が燐光になって消えた。
「……え?」
 ダイが混乱しなかったのはひとえに、似た光景を見たことがあったからに過ぎない。
 男だった燐光が円の中心に引きずり込まれていく。
 彼だけではない。その場にいた教会からの随行者は皆、苦しみぬいて断末魔を挙げながら人のかたちを失っていた。
「まて、なんだこれは」
「あぁああああいだいいだいいだい」
「たす、たすけ、な」
「あ、う……」
「ダイっ」
 セイスがダイの下に駆け込んでくる。
 彼は片膝を突いてダイの顔を覗き込んだ。
「立てる? ここから離れないと」
「セイスさん……」
 震えた手で彼の手を握り、ダイは呻いた。
「これは……これは、いったい、なんなんですか!?」
 教会の人々だけではなく、兵たちもほとんどが燐光に姿を変えた。ダイの周囲は虹色の光の嵐だ。視界すらまともに利かない中で、残った人数はごくわずか。魔術師と――いや、魔術師すらも、ひとり、ふたりと崩れ始めている。
 ジュノとイネカ、シーラ、ダイとセイス、そして、レイナだけが。


 明るい夜だった。
 濃紺の空の中天に差し掛かる月は真円をしている。まるで黄金の金貨のような。とても美しい月だった。
 その月に向かって光の柱が立つ。
 その様は海を隔てた遠くの土地からも望むことができたという。
 その根元から数多の虹の光が放射線を描いている。
 やがて光が空から先細り、明滅しながら消えていくと。
 あちこちの土地に人の姿のない衣服ばかりが残された。
 恐慌した人々の絶叫が西の土地にさざ波のように広がった。


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