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第十章 懊悩する青年 7


 馬車の外に出たマリアージュは、降り出した雨に天を見上げた。
 漆黒の闇。その間に入る光の亀裂。朝から急転した天候に顔をしかめる。
 マリアージュは縺れぬように衣装の裾をつまみ上げ、御者台の前に回り込んだ。
「お前、なぜ馬車を動かさないの?」
 手綱を握る男は、前方を見据えたまま動こうとしない。
 雨に身を震わせる馬は、落ち着かぬ様子で土を蹴っている。黒糖の飴玉のような黒目が、早く厩へ連れて行けと強請っているように見えた。
 御者が、動いた。
 彼は目を見開いたまま、ぐらりと横倒しになった。そのまま御者台から落下する。唐突な出来事に悲鳴を飲み込みながら馬を迂回して、マリアージュは地に横たわる男の下へと急いだ。
 改めて見下ろした男の首筋には、人差し指ほどの細長い鋼が鋭角に突き立っている。
「……な、に? これ」
「がぁっ」
 ふらりと退いたマリアージュの耳に、男のものと思しき鈍い呻きが届いた。息を呑んで周囲を見回す。
 マリアージュを護送していた衛兵の馬が、見当たらなかった。
 明らかに絶命している御者から視線を逸らさぬまま、もう一歩、後方に向かって足を踏み出す。
 ふと。
 ひやりとしたものが、首筋に触れた。
 口が覆われ、悲鳴を上げることすら叶わない。
 殺される、とマリアージュが覚悟したその刹那。
「はーいそこまでぇ」
 緊張感に欠ける間延びした女の声が、雨音に割り込んだ。
 夜闇を押しのけて女が現れる。その輪郭が揺らいで見えたのは、歯がかみ合わぬほどの震えからだろうか。
 赤銅色の髪をした魔術師は、マリアージュの下に歩み寄りながら、ふわりと微笑んだ。
「マリアージュ」
 彼女はにこやかに言った。
「大丈夫よ、動いても。相手、動けないから。あ、でも傍に短剣があるから、気を付けてね」
 驚くべきことにアルヴィナの言う通り、マリアージュが腰を屈めてそっと抜け出しても、襲撃者は指先すら動かさなかった。
 襲撃者の懐から無事に逃れ、マリアージュは焦りながらアルヴィナに駆け寄った。彼女の背後に隠れて振り返る。
 マリアージュを拘束していた黒衣の男は、首元に刃を押し当てていた時の姿そのままで、石化したように固まっていた。
 唯一動く彼の目が、驚愕を表している。
「ごめんなさいねぇ」
 アルヴィナが、男に微笑んだ。
「いっぱいご馳走になったものだから、一回ぐらい助けないとーって思って」
 男は鋭くアルヴィナを睨み付ける。剣呑な笑いに喉を震わせた彼女は、ことりと首を傾げた。
「ねぇ、おしゃべりはできるはずよ。どうしてこの子を襲うのかはっきりとした理由を私にくれる? そしたら私は手出しをしない」
 返答次第では自分を売るつもりかと、マリアージュは絶句する。
 仰ぎ見たアルヴィナには、冗談を口にしている様子は微塵もなかった。
「話すと思うのか」
 襲撃者の返答に、魔術師は肩をすくめる。
「じゃぁ、行きなさい。そうすれば見逃してあげるから」
 アルヴィナがつい、と指を動かした瞬間、男は糸が切れた繰り人形のように崩れ落ちた。その場に膝をついた彼はその目に殺意の光を宿し、短剣を逆手に握り返して、ばねのように跳躍する。
「……馬鹿な子たち」
 一気に距離を詰めて刃を振り下ろす男を見つめながら、アルヴィナがぽつりと呟いた。
「忠告には素直に従うべきなのに」
 悠長なアルヴィナの傍らで流血沙汰を覚悟し、マリアージュは声にならぬ悲鳴をあげた。


 侍女頭の腹部に細い鋼が突き立っている。護身用によく用いられる、手のひらほどの刃渡りしかない短剣だった。
 それを汚す赤い雫が、ヒースの手からも滴っている。
 彼は、ダイを見つめて嗤った。
「待っていろと言ったのに」
 唇の中に入り込む雨に不快感を覚えながらダイは呻いた。
「……これは、一体、なん、なんですか? ヒース」
「見てわからないのですか?」
「……ハンティンドンさんを、殺したの?」
「そうですね。もう間もなく、死ぬでしょう」
 さして感情のこもらぬ声。
 虫の息である老女を見下ろし、彼は言葉を続ける。
「連絡を取っているところを以前見られてしまいましてね。はぐらかしたつもりでしたが、見張っていたらしい。今夜、屋敷を抜けるのに……邪魔になりました」
「れん、らく?」
 呟きながら、ダイはヒースの背後に視線を移した。鳥が一羽、木の枝で羽を休めながら様子を窺っている。
 間違いない。
 ダイを窓から覗き見ていた、あの鳥だった。
「どこへ……連絡を……。いえ、どこへ、いく、つもりだったんですか?」
「ペルフィリア」
 男は、隣国の名前を口にした。
「故国(くに)へ戻るだけの話です。……人形としての女王が欲しかったのですが、困ったことに、マリアージュ様はもうわが主の望む役割を果たせそうもないものでね。……私がこの国にいる必要もなくなった」
 ダイはゆるゆると頭を振った。耳を塞ぎたくなった。
 何を言っているのか、わからない。
 彼が、何を、言っているのかが、全くわからない。
 ただ――……。
「だから、私は戻る。わが主の下へ」
 彼が此処を去ろうとしていることだけは、理解できた。
 ふと、ヒースは笑った。
 天に向けた右の手のひらを、ダイに向かって差し出す。
「一緒に来ますか? ディアナ」
 彼は言った。
「私と共に、いきますか?」
 あまいあまい、声。
 蜜のように、どこまでも甘く、魂を絡め取る声。
 ダイは炎に引き寄せられる虫のように、ふらりと足を踏み出していた。
 彼と共に、行く。
 彼と共に、生きる。
 その誘惑はとてつもなく甘美なものだった。煙る雨の幕を突き破るようにして差し伸べられる手。かつて自分はその手を取り、揺篭のようであった花街を出たのだ。
 外に出て、そして。
『貴女が私を、女王にした』
 声が脳裏を掠め、ダイは動かしていた足を止めた。
『ちゃんと付いてくるのよ』
「……ない」
『最後まで』
 ――……自分は、女王の化粧師となった。
「いけない」
 喉を裂くようにして吐き出した拒絶は、激しさを増すばかりの雨音に紛れることなく、しかと林の中に木霊する。
「マリアージュ様を置いて」
 白く濁っていく瞼の奥に反して、喉はからからに渇いていた。
「私はいけない――……!!!」
 血を吐くように。
 悲鳴のように、ダイは決別の言葉を告げた。
 まさにこの瞬間、今まで同じくしていた彼と自分の道は引き裂かれた。この採択が、二人の間を永遠に隔ててしまうだろうことも予感していた。
 それでもダイは、マリアージュを見捨てられなかった。これから国を背負っていかなければならない少女を、置いていくことなど、出来なかった。
 付いて来いといった彼女に、自分の代わりにこの国の平穏を守ると約束した新しい女王に、ダイは確かな忠義を込めて是と頷いたのだ。
 だから行けない。
 彼と共に、行くことはできない。
 彼と共に、生きることは、叶わない。
 マリアージュを、見限ろうとする彼とは――……。
 侍女頭の腹部で雷を鈍く照り返す刃が、二人の間に入った楔の象徴のように思えた。
 雨と闇に閉ざされた向こう、彼は静かに手を下ろす。既に洗い清められているそれが、労わりを以って伸ばされることはもうないのだろう。
「……貴方は、裏切るの?」
 泥を踏み分けながら歩み寄ってくる男に問いかける。ダイの前で立ち止まった彼は、決然と言った。
「これは、裏切りではない」
 ダイは瞬き、瞳から水滴を追い出して尋ねる。
「最初から、決まっていた?」
 出逢った時から。
 あるいは、それ以前から。
 ずっとずっと、前から。
 こうやって、自分たちの前から姿を消すことは。
 ダイの問いに、ヒースは頷いた。
「そう、最初から決まっていたことだった」
「嘘」
 胸中に浮かんだ言葉が、思わず口をついて出る。
 嘘だと、信じたかった。
 彼が、自分たちを見放すなどと。
「最初から決まっていたなら、どうして貴方は優しかったの?」
 ヒースが示した皆への気配りや優しさは、決して偽りのものではなかった。
「優しい?」
 ヒースは嘲笑に喉を鳴らした。口元を歪に吊り上げ、彼は言う。
「私はあなた方に情をかけた覚えはいちどもない」
「嘘」
「嘘ではない」
 嘘吐きなのは、貴方だ。
 彼と出逢ってから今日までの日々が、矢のように脳裏を駆け抜ける。
 彼はいつも優しかった。最後の最後で、自分を守り、庇い。
 彼がダイに与えた優しさは、本物だった。
 紛い物の親愛に踊らされるほど、自分は浅はかでも愚かでもない。
 不毛な問答にも飽きたのかヒースは目を細め、おもむろに手を持ち上げる。
 その冷えた指先が、ダイの首筋を鷲掴んだ。
 どん、と、雷鳴が空気を震わせる。
 しかしその音も、すぐに聞こえなくなった。
「ぐ……うっ」
 耳鳴りばかりが煩い世界に、自らの呻きが落ちる。
 気管支を強く圧迫され、視界が明滅する。朦朧とする意識の狭間で、ダイは首を絞めるヒースの手に爪を立てた。
 その先が、傷跡に引っかかる。
 かつて、ダイを守って付いたそれ。
 こんな風に道を違えるというのなら、負傷してまで自分を守る必要がどこにあったというのだ。
 どうしてこんな風になったの。
 何が貴方を駆り立てるの。
 確かな決意と物悲しさを、いつも瞳に宿していた人。
「ひ……あぁ」
 ヒースの名を呼ぼうと試みるダイの唇からは、言葉にもならぬ低い呻きが零れるばかりだった。首に掛かる彼の手は、びくともしない。
 脳裏を、親しい人々の顔が埋めていく。アスマ。ミゲル。花街の芸妓たち。裏街の職人衆。ミズウィーリ家の人々。
 そして。
 ヒース。
 空を引き裂く光が、一瞬だけヒースを照らし出した。
 その顔をぼんやりと見つめながら、ダイは息を吐く。
 ――……あぁ、なんという顔を、しているのだろう。
 依然として首に指を食い込ませる男の手を握り締めながら、ダイは泣きたくなった。雷が暴いた男の顔は、先ほどの冷笑をどこへ消したのか、ひどく泣き歪んでいた。苦しさに喘ぐその顔は、まるで彼の方こそ首を絞められているかのような様相だった。
(もういい)
 目を伏せて、ダイは思った。
 そんなに彼が、苦しんでいるというのなら。
 もういい。
 思い出す。近い昔、生への執着が、とてもささやかなものであったこと。誰も、自分を求めなかった。自分はいつも父の身代わりであり母の代理であった。歪んだ生にどうして執着を持てるだろう。
 その自分に、息を吹き込んだのが。新しい世界を見せたのが。
 自分を、求めたのが。
 ヒース・リヴォートという、この男だったのだ。
 その彼が自分を拒絶するという。邪魔だという。この世界からの退場を、求めるという。
 ならば、もういい。
 この男に殺されるのならば、いい。
 ダイは微笑み、手を下ろす。
 首を締め付ける力が、ふいに緩んだ。
「……ぐっ……げほっ!!!!」
 膝と両手を突いた拍子に、ばしゃりと泥が跳ねる。ダイは新鮮な空気を求めて幾度も咳き込み、その合間に激しく喘いだ。
「げほっ!! げほっ! ごほっっ!!」
 喉の奥から響く喘鳴。眩暈にも似た感覚が脳を揺さぶる。絶え間ない雨の音が戻ってくる。しかし泥濘の中に埋もれる血の気ない両手の感覚は、最後まで遊離していた。
 ダイの手の狭間に、ヒースが膝を突く。
 彼はダイの頭を持ち上げて、何かを口の中に押し込んだ。
 丸く、硬い、何か。
 飲み込みかけたところで、気管支が痙攣を起こす。身体が跳ねた拍子に吐き出したそれを、ダイは見下ろした。
(……丸薬?)
 唾液と雨に塗れた褐色の小さな球体は、腹痛や流感の際に処方される丸薬とよく似ている。
 ダイは虚脱して上半身をその場に伏せた。
 泥の感触が頬を覆ったのは、ほんの僅かな間だった。ヒースがすぐさまその手をダイの顔と地面の隙間に差し入れたのだ。彼は今にも崩れ落ちそうなダイの身体を抱き、頤を支えると、再び口内に丸薬を押し込んだ。
 ダイの顔に影が差す。
 口の中のものを吐き出すことは許さぬというように、ヒースの唇がダイのそれを塞いだ。
 温かな腕が、骨が軋むほどに強い力で、ダイの身体を閉じ込める。
 ヒースの舌が球体を、口内のさらに奥へと押し込む。ダイはそれを嚥下し、彼の衣服を強く握り締めた。
 一瞬、目が合う。
 蒼が、視界を覆いつくす。
 哀しく、優しく――……愛しい色。
 彼は冷えた手でダイの頬の泥を拭い、さらに口付けを深めていった。
 固く閉じた瞼の狭間から涙が零れる。この状況に反した、身体の芯を甘くとろかす行為に没頭しながら、ダイは彼の背に回した腕に力を込めた。
(眠りたくない)
 ダイの意識を身体から引き剥がそうと、闇が手を伸ばしている。
 それはおそらく、強引に飲みまされた物のせいだった。
(眠ったら、彼は行く)
 自分の傍から離れ、どこか遠くへ。
 彼は、行く。
 手の届かぬ場所へ、行ってしまう。
(どこにも行かないで)
 彼の傍から離れることを選んだのは他でもないダイ自身だ。それでも胸中で、懇願せずにはいられなかった。
 嫌だ。離れたくない。いつまでもこの腕の中にいたい。いつまでもこのぬくもりを感じていたい。いつまでもいつまでも、彼の声で名前を呼ばれていたい。
 彼と共に、生きていたい。
(あぁ、だってこんなにも)
 私は彼のことが、とてもとても。
 すきだったのに――……!


「ダイ」
 腕の中、少女は死人のように動かない。脱力した身体を抱きしめ、その額に唇を押し当てたまま、ヒースは少女に呼びかけた。
「ディアナ」
 彼女は、答えない。
 固く閉じられた瞼から伝う雫は、雨だろうか。
 そうに違いないと、ヒースは自らに言い聞かせた。彼女が去り往く自分を惜しんで涙するなど、あってはならない。
 少女の身体を抱いたまま、天を仰ぐ。
「……どうして……大人しく、待っていなかったんだ……」
 氷雨の生み出す瀑布が、呟きを誰の耳にも届かぬように隔て隠した。


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