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第十章 懊悩する青年 5


 慰労会は祝賀会と名を変えて催された。
『マリアージュ様に! 新たなる女王に!』
 別館の広間、長い卓の上を所狭しと埋める料理を前に、酒に満たされた高杯を掲げ、唱和する人々の顔は朗らかだった。城に付いていった者たちは、マリアージュが女王として行進する様子を留守番していた皆に、身振り手振り交えて説明している。アルヴィナは厨房長のグレインと、今日の料理の出来栄えについて話し込んでいた。
 付き合いで一口だけ舐めた酒に火照る身体を手で扇ぎ、ダイは会場をそっと後にした。廊下の窓辺に立って外を見つめる。
 いつの間にか、黒い雲が天でとぐろを巻いていた。
「もうすぐ降り出しそうね」
 酒の杯を手に、ほろ酔いの様子でアルヴィナが歩み寄ってきた。
「そうですね」
「私の家辺りはもう雨ね。この様子だと。魔が煩いもの」
「やっぱり魔から読んでたんですか?」
「もちろん」
「便利ですねぇ。……雨、酷くなりそうですか?」
「かなりね。嵐になるわ」
「嵐」
 アルヴィナは頷き、酒を飲み干して笑った。
「あぁ、美味しい。賑やかだとお酒も美味しくなるわね」
 機嫌よさそうなその横顔を見上げ、ダイは首を捻る。
「だったら、なんでもうちょっと街寄りで暮らさないんですか?」
 人里外れた場所に住む者にありがちな、厭世的な雰囲気をアルヴィナは持たない。あのような寂しい場所で一人住まいしていることが不思議なほどだった。
「一人は気楽よ。あまり街に出ることは好きではないの」
「……じゃぁ、なんで」
「ダイは別。おしゃべりしてて楽しいし。おかげで、久しぶりに人に混じれて、とても楽しかった」
 アルヴィナは空になった玻璃の高杯を、窓枠に置いた。
 ゆっくりと亜麻色の瞳を細め、雨雲を見据える女の顔は美しい。
 その神聖さすら感じる触れがたい雰囲気に、いつもは身近な友人が急に遠く思え、ダイも窓に向き直った。その拍子に、玻璃に映った友人の姿が目に入る。
「ティティ」
 ティティアンナが、手を振りながら駆け寄ってきた。
「ダイ。こんなところにいたの?」
「えぇ。ちょっとお酒で火照ったので、涼んでいました」
「ダイ、お酒に弱いものね」
 傍で立ち止まるティティアンナに、ダイは懇願する。
「もう前みたいに無理に飲ませないでくださいよ」
「わかってる。アルヴィナさんも楽しんでる?」
「うん。ご覧の通り」
 アルヴィナは、杯を掲げて答えた。
「ティティ。明日の仕度終わったんですか?」
 全員がずっと祝宴に参加しているわけではない。仕事も交代で行っている。また、マリアージュがいつ戻ってきてもよいように、数名は玄関傍の控えで待機していた。
 ティティアンナも乾杯のときだけ顔を出した後、明日の仕度のために席を外していたのだ。
「うん。私の分は終わり」
「早く行かないとご馳走なくなっちゃいますよ」
「うんうんわかってる! あ、それはそうとダイ、リヴォート様知らない?」
「……リヴォート様、ですか?」
 言われてみれば確かに、乾杯の後は彼の姿を見ていない。
「ハンティンドンさんが探してるのよね。どこ行ったのかしら。別館も今一通り見て回ってきたんだけど」
 首を捻るティティアンナに、ダイは申し出た。
「じゃぁ、私が探してきますよ。おなかごなしに」
「そう?」
「丁度、お腹が膨れすぎて、焼き菓子が入らなくて困ってたんです」
 ダイが腹を撫で擦ると、ティティアンナはおかしそうに笑い声を立てた。
「じゃぁお願い。ダイの分のお菓子、しっかり確保しておくからね」


 ダイ自身も別館を一通り巡回してみたが、結局ヒースは見当たらなかった。
 屋根にも上ってみたものの、目的の姿は影も形もない。強く吹き付ける風の中に雨の臭いを嗅ぎ取り、身震いしながら屋内に戻る。その後、ダイは最小限に照明の絞られた本館の廊下を歩いていた。向かう先は、ヒースの執務室だ。
 辿り着いたその部屋は明らかに人気なく、試しに扉を叩いても応答はない。やはりいないかと、肩を落としかけたダイは、鍵が開いていることに気が付いた。念のため、と自分に言い聞かせ、身体を室内にそっと滑り込ませる。
 燭台の冷えた部屋は暗闇に沈み、家具の輪郭が辛うじてその存在を仄めかす程度だった。
 この部屋に、こんな風に足を踏み入れたことがある。あれは性別を偽っていた理由を説明すべく、皆で集まったときのことだった。ダイが最初に到着し、燐寸を探して燭台の周りを一人ぐるぐる回っていた。
 そのあとすぐに、ヒースが来て。
 互いの手の大きさを比べて、あまりに違っていて驚いた。
 懐かしむにはまだ早い過去。しかし手の届かなくなってしまった、遠い思い出のように感じられる。
 かたんっ……
 部屋に響いた小さな物音に、ダイは無意識に見下ろしていた手から顔を上げた。音源を探って周囲を見回し、壁にぼんやり浮かび上がる、今しがた潜ったものとは別の扉に目を留める。
 書斎への、入り口だった。
 ダイはその部屋に向かって歩いた。まだヒースとの仲がおかしくなる前に、二度ほど立ち入ったことがある。空間の大半を書架が占めていて、長椅子が一つ置いてあるだけの簡素な書斎だった。ヒースが仕事に疲れたとき、仮眠室代わりに使っていることを知っている。
 恐々と扉を開くと、窓辺に探していた男の姿があった。
「……リヴォート、様?」
 遮光幕が、風を受けて翻る。
 ばたばたばたと、音をたててはためくそれを静観していたヒースは、ダイの姿に目を留め、静かに窓を閉じた。
 薄暗い部屋には、墨汁の濃密な匂いが漂っている。
「ディアナ」
 闇に溶け込むようにして佇むヒースに近寄りがたさを覚え、どのように声を掛けるべきか逡巡していたダイは、柔らかい呼び掛けに唇を引き結んだ。
 あれほど拒んでいたダイの本当の名を、彼は今日だけでもう三回も口にしている。
 深く、吐息が漏れた。
「無視するの、やめられたんですか? リヴォート様」
 喜びに震える自らの胸の内に気づかぬふりをして、あえて冷ややかにダイは尋ねた。
「えぇ」
 ヒースは頷く。
「やめました」
「どういう心境の変化で? マリアージュ様が無事女王におなりになったから、気が楽になったっていうことでいいんでしょうか?」
「そう思っていただいて構いません」
 こつ、と。
 靴音を響かせ、ヒースが前に進み出る。
 反射的にダイが距離を取ると、彼は傷ついた顔をした。
「ディアナ」
 甘い声。
 身体の芯を舐るようなその響きに、ダイは耳を塞ぎたくなった。
「卑怯ですよ。さんざん、無視しておいて、今更なんなんですか?」
 目を逸らし、本心から言葉を吐き捨てる。しかしその一方で、彼の瞳に自分が映っているという事実に、弾む心を抑えられなかった。
「すみませんでした」
「謝ったらいいっていう問題じゃ、ないです」
 愚かしい。
 あれほど仲直りする機会を渇望していたというのに、謝罪するヒースを、ここぞとばかりに罵っている。
 握り締められたダイの拳に、ヒースの手が触れる。
 心地よい冷たさに、縋り付きたくなる自分を押し殺し、ダイは彼から目を逸らし続けた。
「すみませんでした」
 男が、謝罪を重ねる。
 ここで彼を許さねば、本当の愚か者だ。
「……しんどかったんですよ。ほんとうに、しんどかったんです」
「えぇ」
「あとで、ちゃんと理由を教えてください」
「わかりました」
「これは、貸し、ひとつですからね」
「貸し?」
「そう。なんでも一つ、私の言うこと聞いてくださいね、ヒース。そしたら、許してあげます」
 そっと顔を上げると、蒼の瞳と視線がかち合う。男は目元を和らげ、小さく頷いた。
「わかりました。貸し、ひとつですね」
 覚えておきますと、ヒースは言った。
 安堵に息を吐く。
 これで仲直りだ。
 気を取り直し、ダイはヒースに微笑んだ。
「ハンティンドンさんがヒースを探してたらしいですよ。だから探しに来たんです。こんなところで何をやってたんですか?」
「窓を開けっぱなしにしていたことを思い出したんです。雨が降りそうだったので、閉めに来たんですよ」
 閉じたばかりの窓を振り返って、ヒースは答える。
「……それだけ? ティティはヒースのことかなり探してたみたいですけど」
「こちらに来るまでに、他の部屋も見回りましたからね。行き違いになったのでしょう」
 なるほど。それはありそうな話だ。
 ダイはヒースの手を引いた。
「早く戻りましょう。お料理とお酒、なくなっちゃいますよ」
「少しは口にしました。……今は何も、食べたくないんですよ」
 手を離して、ダイは男の顔色を改めて窺った。彼は疲れているのだろう。度を過ぎた疲労は時に食欲を奪う。
「部屋に戻って、眠ります?」
「それはできない」
「どうして?」
「……マリアージュ様が、まだ戻られてない」
「あ、そうでした」
 城からいまだに戻らぬ主人を置いて、就寝もないだろう。その辺りは他の使用人たちも心得ていて、調子に乗って酒を飲み過ぎ、泥酔してしまわぬように気をつけている。
「じゃぁとりあえず、長椅子に座って休みませんか?」
 ダイは部屋の中央に鎮座する長椅子を指差した。彼がやはり仮眠をとるというのなら、マリアージュが戻り次第、ダイが起こせばいい。
 提案に従い、ヒースが椅子に腰を下ろす。
「何か欲しいものとかあります?」
 戸棚から毛布を引き出しながら、ダイは尋ねた。
「飲み物とか、別館から持ってきてもいいですし」
「貴女のお茶は御免被りたいですね」
「……もう一回怒りますよ」
 ヒースが喉を鳴らしてくつくつ笑う。
 からかわれたことに些か腹を立て、ダイは口先を尖らせて毛布を差し出した。
「少し横になってたらいいですよ。もし寝ちゃっても起こしますから」
 しかしヒースは首を横に振り、毛布をやんわり退けた。
「それはいい……ディアナ」
「はい」
「少し、横に、座って」
 ヒースは隣の空間を、軽く叩いてダイに示す。
「え、何で、ですか?」
「……いいから」
 結局、ヒースはダイの腕を引き、強引な形で隣に座らせた。
 僅かな躊躇の後、彼は囁く。
「……すこし、もたれかかっても、いいですか?」
 困惑に絶句しながら仰ぎ見た男の顔は、思いがけず近いところにあった。
「……ど、うぞ」
 破顔したヒースは倒れるように身を伏せ、顔をダイの左肩に押し付ける。
 額を肩口にすり寄せる様は、まるで幼い子供のようだった。
「……ひ、ひーす?」
 ダイは焦りながら呼びかけた。しかし返って来るものは沈黙だけだ。
 本当に、この男は一体何を考えているのだ。
 目の前の頭を小突きたくなる衝動を堪え、しばらく様子を見てみたものの、男は身じろぎ一つしない。眠っているかのような密やかな呼吸だけが、ダイの首筋の産毛を撫でる。
 嘆息を零して、ダイは肩の力を抜いた。
 ふわふわ、ふわふわ、彼の髪が顎先を掠める。
 それが、くすぐったい。
(……さわっても、いいかな……)
 すぐ目の前にある、彼の髪を。
 欲求に抗えず、ダイは比較的自由になる右手を、彼の髪に恐々と差し入れた。
 女の髪を弄る機会はよくあったが、男のそれに触れるのは、初めてといっていいかもしれない。
(あぁ、けっこう、さらさらなんだな……)
 襟足短く切られた髪は絡むことなく、滑らかな感触だけを指に残す。それがだんだん楽しく思えて、ダイはほそほそと彼の頭を撫でた。
 甘えて、圧し掛かってくる、大きな犬を撫でている気分だ。
 ダイがいくら髪の柔らかさを堪能していても、ヒースは何も言わない。
 本当に、眠ってしまったのだろうか。
「ヒース?」
「ん?」
 彼はすぐに返事を寄越し、ダイは首を横に振った。
「なんでもないです」
 とはいえど、この体勢はそろそろ限界だった。彼の頭が滑り落ちぬよう、椅子の縁に手をついて持ち上げている肩が、徐々に痺れ始める。
 ふとダイは遠い昔に花街で見た、芸妓の胸にうずまる男の姿を思い出した。たまにいるのだ。女を抱くためではなく、女に抱かれて眠るためにやってくる男が。
 ダイは身体の位置をずらして両の腕を持ち上げ、男の身体をそっと抱き寄せた。
(……おとなになりたいな……)
 生まれて初めて、そう思う。
 ダイの腕はあまりに未熟だった。せめて年相応にしなやかに伸びていれば、もう少し上手に男の身体を支えることが出来ただろう。
 彼の頭に頬を寄せ、腕にぎこちなく力を込める。
 この感情を、何と呼ぶのか、わからない。
 ただそれは胸を、容赦なく引き絞っていく。
 ふいに大きな手が腰に添えられ、ダイは驚きに身体を震わせた。しかしそれから動きだす素振りがない。ただ添えられただけかと、やや拍子抜けしてダイは身体の強張りを解いた。
 それを待っていたとばかりに、手がゆっくりと、ダイの腰の線を確かめるように滑り始める。
 ダイは唾を嚥下した。
 じわじわ、じわじわと、手は移動する範囲を広げていく。
 腰から背へ、そして。
 指先が、首筋に触れた。
 ゆるゆると襟元を撫ぜる親指の感触に、ダイは喉の奥に詰まっていた熱を吐く。ヒースが、ダイの首筋に手を伏せさせたまま身体を起こした。
 彼の瞳が、自分を映している。
 薄く膜掛かった、彼の蒼い瞳が。
 自分だけを。
 そのことに打ち震えるような歓喜を覚え、ダイは陶然となった。
 冷えた指先が、幾度も、幾度も。顔の輪郭を往復している。
 以前、彼が自分を抱きしめた、あの時のように。
 ヒースがダイの顎に手を添える。
 その目が、ゆっくりと細められていく。
 吐息が触れるほどに、彼の顔が間近にあった。


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