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第九章 煩悶する少女 6


 一通り見学し終わった後、マリアージュはその場にばったりと倒れこんでしまった。
 冷えた布を彼女の目元にそっと置いて、ダイは溜息を零した。ミゲルの寝台の上で、マリアージュは青白い顔をして眠っている。アルヴィナは水を貰いに席を外しており、借りた友人の私室にはダイたち二人だけが残されていた。
 椅子から腰を上げて、窓辺に歩み寄る。入り組んだ路地。雨よけの布を軒に張ったその下で、若い細工師たちが修行に励んでいる。彼らの間を縫うようにして子供たちが駆け回り、水路では女たちが衣服を洗っていた。
 垣間見える、裏街の狭苦しくも賑々しい生活。
 夜は夜で明かりが煌々と灯され人が動く。工房は眠らない。裏街は皆、眠らない。
「ダイ」
 呼びかけに振り返る。部屋の戸口に、ミゲルが立っていた。
「お嬢ちゃんはどうなんだわさ?」
 扉を後ろ手に閉じながら、彼は問う。
「見ての通りです。よく耐えましたよ」
「あんたは平気だった?」
「花街の香水といい勝負でした」
「なるほどねぇ」
 ミゲルは椅子を引いて腰掛けつつ、ダイの返答に笑った。
「ありがとうございました、ミゲル」
 ダイはふと思い立ち、彼に頭を下げた。
「早速口添えしてくれて」
 礼がすっかり遅れてしまっていたが、工房の見学を無事に終えることが出来たのも、ミゲルの口添えがあってこそである。
「いぃんだわさ。別に大したことしてない」
「でも助かりました。ありがとうございます」
 ダイが謝辞を重ねると、ミゲルは照れくさそうに身じろぎした。気にするなと言うように、彼は手を軽く左右に振る。
 そして――……奇妙な沈黙が、漂う。
 覚えた居心地の悪さを誤魔化す為に、ダイは口を開いた。
「今は昼に起きてるんですね?」
 ミゲルは頷いた。
「ギーグが朝の仕事なんだわ。あわせるとこうなる」
「彼とはどんな経緯で?」
「うちに商品を卸してた。彼が趣味で作った革細工を」
「アルヴィーとおんなじですね」
「そう。自分の友人知人なんて、客がほとんどなんだわ。あんたもそのうち一人」
「えぇ」
「ダイ」
「はい」
 ダイをひたりと見据えるミゲルの目は、かつてないほどに暗い。
 彼は抑揚を殺した声で問いかけてきた。
「ロウエンは、本当に、死んだんだね?」
 僅かな間を置いて、ダイは肯定に顎を引いた。
「えぇ」
 ――……ダダンから、聞いたのだろう。
 彼はロウエンが死んだ後、ミゲルに事情を話しに行ったはずだから。
 ミゲルはくしゃくしゃの煙草を懐から取り出した。それに火を点け、ゆっくりと燻らす。薄暗い部屋に、白い筋がゆらゆらと棚引いた。
「……あいつ、厄介な、お姫様に、ひっかかったってねぇ」
 煙草を指に挟み直し、ミゲルは言った。
「……ダダンに聞いたんですか?」
「いいや。ロウエンに。……店が滅茶苦茶になった後、色々話してくれたんだわ。……それが、最後の会話ってやつに、なんのかね」
 湿った響きを隠すように、ミゲルは大仰に煙を吐きだす。霧散する紫煙を、ダイは黙って見つめた。
 あの襲撃の後に、ロウエンから事情の説明があったとダダンは言っていた。ミゲルもその場で一緒に話を聞いていたのだろう。
 ならばミゲルは、感づいているはずだ。
 ダイの連れてきた少女が、一体どのような存在なのか。
「……あんたも厄介なのに関わって。なぁに、やってるんだか」
 ロウエンの話を通じ、一度だけアリシュエルと彼の橋渡しをした女王候補付きの化粧師がダイであると、ダダンでさえ気がついた。ダイと付き合いの長いミゲルが、わからぬはずはない。
「自分は貴族なんて嫌いさね」
 頬杖を突いたままマリアージュに視線を向けて、ミゲルは言った。
「厄介ごとばかり持ち込む。厄介ごとに……手前勝手ないざこざに、いつもうちらを巻き込む」
「ミゲル」
 ダイは躊躇いがちに首を横に振った。
「ロウエンは、違います。彼は……自分から」
 出逢い方はどうであれ、ロウエンがアリシュエルの存在を疎ましがっている様子は一切なかった。彼は自らアリシュエルとの恋に身を投じたのだ。
「いいや、巻き込まれたんだ」
 ミゲルは言いきった。いつもとは異なる、断固とした口調で。
「聞けばお姫さんは、家が厳しくて息苦しくて、逃げ出したわけだろう? そこで偶然出逢ったロウエンに、飛びついたんだ。ロウエンが、お姫さんを縛るもんとは無縁の男だったから、飛びついたんだ。あいつは……ロウエンは、本当に、馬鹿みたいにお人好しだから、お姫さんに、同情して……それで」
 一度言葉に詰まったミゲルの手元で、ほとりと灰が落ちる。しかし彼はそれに構う素振りを見せない。瞬きせぬ狐目が、虚空を睨み据えている。
 煙草を挟む彼の指は、震えていた。
「ロウエンは、きちんと分別ついていたんだ」
 話を再開する彼の声も、震えていた。
「身分違いの恋なんていうものの馬鹿馬鹿しさ、あいつはちゃんとわかってたんだ。お偉い貴族様が、こっち側の人間とそんな風に関わろうとするなんてね、ただの現実逃避さ。恋なんてね、飯にくいっぱぐれたこともなけりゃ、仕事で手を荒らしたこともない能天気な奴らが、身分違いでも逃げりゃどうにかなるって、甘っちょろいこと考えてるから出来るもんなんだ。奴らは、巻き込まれる側のことなんて考えない。巻き込まれた結果……見ろ!! ロウエンは死んじまった……!!」
 素性知れぬものも顧客として扱う店の主人の習いとして、ミゲルは他者から一歩引いているところがある。
 その彼が、他者を思ってこのように声を荒げるところを、ダイは初めて見た。
「……ミゲル……」
 ダイの呼びかけにミゲルは弱々しく笑い、灰皿を引き寄せて煙草を置いた。じりじりと細い煙を吐き出すそれをじっと見つめ、彼は呟く。
「……わかってるさね。別に貴族様に関わらなくてもね、死ぬときゃ死ぬんだ。……裏街でも気を抜けば、あっという間にまぼろばの地行きさね」
 それでも、と。
 ミゲルは両手で顔を覆った。
「自分は、恨むさね。訳のわからないいざこざに、あいつを巻き込んだ、姫さんをね……」
 その見え隠れする口元に、彼は苦笑を刻む。
「……うちの店が壊されたときに言ってやったんだ。もう、関わるんじゃないよって。さっさと国を出ていきなって。うちの店が壊されたことを申し訳なく思うんだったら、そうしなよって」
 だがロウエンは、最後に彼が愛した娘と関わった。
 彼女が行方不明だと、ダイが話を持ち込んだから。
 ロウエンは、アリシュエルを、探さずにはいられなかった――……。
「ダイ、あんたに関わるなって言っても、もう、どうしようもないんだろうね」
 手から顔を上げたミゲルが、寝台に仰臥したままの娘を一瞥して呻く。
「ならせめて、死ぬんじゃないんだわ。死ぬな。死ぬんじゃない」
 死ぬな、と。
 ひたすら繰り返す男を、ダイはぼんやりと見つめた。
 気心知れた男。だが彼もかつては母の客だった。時折彼が懐かしそうに目を細め、ダイに彼女を透かし見ることを知っている。
「……それは、私があの人のむすめだから?」
「馬鹿言うんじゃないよ」
 つい口を突いて出たその問いを、ミゲルは苛立たしげに切って捨てた。
「あんたが自分の友人だからに決まってるさね」
 ダイは、微笑んだ。不謹慎だと思いながらも、自分が死んだ後もミゲルが今と同じように取り乱してくれるのかと思うと、嬉しかった。
「どの国に流れても、いいやつほど、早く死んでしまう」
 ミゲルは言った。独白のように。
「……いい奴が死なない、退屈な国が、ほしいさね……」
 その眼差しは、とても空虚だった。


「次は花街に行くからね」
 ミズウィーリ家に戻らねばならぬ時刻になって、ようやっと身体を起こしたマリアージュが、仕度しなさいとダイに命じる。
「え? まだ花街に行くつもりだったんですか?」
 彼女の額に宛(あて)がっていた布を畳みながら、ダイは思わず苦言を漏らした。マリアージュは、口先を尖らせる。
「最初から花街には行くって言ってあったでしょうが」
「でももう遅いですよ」
「花街は夜が本番って聞いたわよ」
「そりゃそうですけど……。だから、今行ったりしたら邪魔扱いされますって」
「そんなこと行ってみないとわからないわ」
「マリアージュ様!」
 我侭も此処まで来ると我慢の限界である。布を握り締めて、ダイは叫んだ。
「もういい加減にしてください! 帰らないとみんなに迷惑かけますし、心配されます! 花街を案内してほしいんでしたらまた女王選が終わったらしますから!」
「駄目」
「ですから!」
「ダイ、お願い」
 初めて耳にしたマリアージュからの懇願の言葉に、ダイは驚愕して息を詰めた。
 寝台の上で上半身を起こすマリアージュは、掛け布を強く握り締めている。切羽詰った顔。その胡桃色の瞳には、薄い膜が張っていた。
「駄目なのよ。今じゃなきゃ駄目なの。遅いのよ。今、見たいの。今がいいのよ」
「……本当に、何があったんですか? マリアージュ様」
 マリアージュの頑な行動は、ルディアとの面会に端を発する。
 彼女との間に、おそらく何かがあったのだ。
「花街を案内してくれたら話すわ」
 ここまで来て、マリアージュはまだ黙秘を貫く。
 それでは、駄目だ。理由もわからぬまま、我侭を聞き続けることはできない。
 工房の若衆たちの力を借りてでも彼女を引きずって馬車に乗せ、ミズウィーリ家に戻さなければならない。そう決意したダイの出鼻を挫いたものは、軽い叩扉の音だった。
「アルヴィー」
 ダイは渋面になりながら、いつの間にか戻ってきていた彼女を振り返った。
「案内してあげたらいいじゃなぁい?」
 アルヴィナは開け放たれたままだった扉の縁から預けていた背を離し、ダイに歩み寄りながら提案する。
「いいじゃないダイ。理由は後で話してくれるって言ってるんだし。付き合ってあげればぁ?」
「でも……」
「ヒースのことなら心配なく。もうちょっと、遅くなりますからねーってちゃぁんと連絡しておいたから」
 立てた人差し指を唇に当て、ふふ、と笑いを漏らす女に、ダイは声を上ずらせながら叫んだ。
「な、なんでそんなことしちゃうんですか!?」
 糾弾するダイを、アルヴィナは意外そうに見つめ返す。
「だぁって、この時間じゃぁどう頑張ったって予定よりも遅くなるんだから、連絡しておくに越したことはないじゃない?」
「……それはそうですけど」
 もう間もなく日は落ちきる。どうあがいたところで、日没までに戻るというヒースとの約束を果たすことはできない。アルヴィナの判断は正しい。
 しかし前もって相談ぐらいはして欲しかった。
「……いつの間に連絡したんですか?」
「ん? 今さっきよ?」
「今?」
 ダイは怪訝さに眉をひそめた。マリアージュが倒れてすぐ水を取りに行った時を除いて、アルヴィナが席を外していた間はほんの僅かだ。とても誰かに託を頼めるような長さではない。
「あぁ。人に頼んだのではないわ」
 心中を読んだのだろう。ダイが方法を尋ねる前に、アルヴィナは言った。
「遣い魔ちゃんを出したの」
「遣い魔?」
「うん」
 彼女は微笑んで頷いた。
「戻ってきたらまた見せてあげるわね。その子だったら、すぐにヒースと連絡が取れるの。花街に行って、予想以上に遅くなるようだったら、また私が彼に伝えるし。そしたら安心じゃない?」
 一体何が安心だというのか。
 喉元まで出た批判を、ダイは慌てて飲み込んだ。一拍置いて心を落ち着け、努めて冷静にアルヴィナに反論する。
「……そういう問題じゃないんですよ、アルヴィー。連絡したから、帰りが存分に遅くなってもいいっていうわけじゃないでしょう?」
「でもね、ダイ。必死な人の話はちゃぁんと聞いてあげるものよ。あなただって理由を話したくないけど、必死になって人に頼みごとすることってなぁい?」
 アルヴィナは子供に対するような柔い声音でダイに説いた。
「ね?」
 そのように同意を求められても、ダイは素直に応じかねた。今すぐ屋敷へ戻るべきだという主張は間違っていないはずである。
 その一方で、自分が悪者のように思えてならない。
「ヒースのことは放っておきなさいよ」
 押し黙るダイに、マリアージュが腕を組んで言った。
「あの様子だと、今から帰っても後で帰ってもぐだぐだ言われるのは変わらないでしょ。今帰って私とあいつ、両方から責められるのと、後で帰ってあいつだけから説教受けるのと、どっちがいいわけ?」
「結局、叱られるのは変わらないじゃないですか……」
 しかも彼女の口ぶりから察するところ、自分一人が責められるらしい。ダイはがくりと肩を落とした。マリアージュに振り回される時間が短いだけ、今から帰った方がまだいいかもしれない。
「ダイ」
 マリアージュが声を低めてダイに呼びかける。
「あんたね、あいつと私、どっちが主人だと思ってんのよ?」
 愚問だ、と、思った。
 ダイは嗤って即答する。
「マリアージュ様ですよ。当然でしょう?」
「でもあんたはヒースのことになると決まって感情的になるわ。あいつのことを、優先させようとする」
「マリアージュ様」
「もう一度訊くわよ」
 念押しする彼女の声音は、神妙だった。
「私とあいつ、どっちの命を選ぶの?」
 詰問に当惑し、ダイは視線を落とした。
 ヒースの事に関し、マリアージュの前でそこまで感情的になった覚えはない。ダイが彼の判断を優先させようとするのは、より筋が通っているからだ。
 ヒースは主人などではない。
 彼は。
 彼に、抱いているものは――……。
 ふるりと頭を振り、ダイはマリアージュを見据えた。
「……わかりましたよ、もう」
 二対一では分が悪い。降参の意を込め、低く呻く。
「案内します。でもマリアージュ様、ぜったい私の言う通りに動いてくださいよ」
「……目を離した隙に消えてちゃうような子供と一緒にしないでよ」
 口を尖らせるマリアージュを無視し、ダイは盛大に溜息を吐いた。
「こうなったら、付き合いますよ。えぇ。つき合わさせていただきますとも」
 彼女の気が、一通り済むまで。


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