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第九章 煩悶する少女 1


 暗闇に、光が射す。
 男は扉の向こうから現れた影に、その虚ろな目を上げた。影の主は、男のよく知る女だった――長年、連れ添ってきた女。
「こんなことをして、許されると思っているのか……?」
 従順だったはずの彼女は、鎖に繋がれた男の四肢を一瞥して笑った。
「貴方のしたことこそ、許されぬことでしょう」
 女は言った。
「私は長年、貴方に従って参りました。それが我が家の繁栄に繋がると信じていたからです。事実、貴方の妄執によってこの家は盛栄を極めるに至った……」
 妻は、考えのない平凡な女であったはずだった。ただ、男に使われるだけの。その彼女が、男の方こそ利用される側だったのだと告白する。
 女への評価が、徐々に塗り替えられていく。
 あの丘で逃げ出したときもそうだった。いくら呼んでも、小屋の周囲を哨戒していたはずの護衛が現れない。その代わりに姿を見せた幼馴染に導かれるまま、這這の体で逃げ出した自分を待ち構えていたのが、家臣を従えたこの女だったのだ。
「ですがそれも終わりです。貴方は取り返しの付かぬことをした。どんな理由があれ、貴方は娘に刃を向けるべきではなかった」
 女は現れて初めて、その顔を歪めた。
「……我が家は、貴方の不手際により女王候補を失いました。将来性の見込めぬ我が家を見限る者もいるでしょう。この失態を見過ごすわけには参りません。貴方からは家長の権利を剥奪。……これからは私が、この家の当主です」
 女は、薄い笑みに口元を歪める。
「もっとも、私はこの権利を貴方に譲り渡したつもりは一度もありませんでした。私は、私の先祖が代々受け継いできたものを、貴方に一時的に、お貸ししていただけです」
「おま」
「あなた」
 ここが閨の中であるかのように甘く、女は囁く。
「あの子のことを除けば、貴方はよくやって下さいました。ご褒美です。貴方の罪は万死に値しますが、生きることを許します。この国の行く末を見ていなさいな? この暗闇の中で、ずっとずっと、ずーっと……」
 ずっと。
 背筋を這い登る恐怖から男が上げた咆哮に、女は笑っただけだった。


「終わりました」
 ダイは粉除けを取り去って、マリアージュに声を掛けた。立ち上がった彼女は、大きく伸びをする。
「あぁ、だるいわね」
「ずっとゆっくりできる日がないですから、疲れも溜まりますよ。どうぞ」
「ん」
 マリアージュが腰を下ろす頃合を見計らって、ダイは手鏡を渡した。それを覗き込んだ彼女は、僅かに口元を緩める。彼女はダイの化粧に賞賛を向けることはない。その代わりに、微笑を浮かべる。つんけんとした印象を与えがちな普段の言動からは、想像も付かぬような柔らかい笑みだ。それはおそらく彼女の本質を現しているのだろう。繊細で、やさしい。
 化粧を施し終えた時にだけ見ることの叶うそれが、ダイはとても好きだった。
 マリアージュが肩口に落ちている紅茶色の髪を、おもむろに指に絡める。くるくるくる。弄ばれるその毛先を、ダイは視界の端で捉えた。
 マリアージュの髪は、以前と比べて少しだけ短い。
 ――……焦げた毛先に気づいた時、マリアージュはダイに切れと命じただけで、他には何も言わなかった。そしてダイも命ぜられるままに彼女の毛先を揃え、切り落とした髪が示す出来事について、あえて言及することはなかった。
「ルディア夫人が来られるのは午後だったわよね?」
 鏡を返却しながら問うマリアージュに、ダイは頷く。
「はい。午後一番に」
 山小屋が燃えたあの夜以降、バイラム・ガートルードは行方不明となったらしい。
 ガートルード家の総力をもってしても、とうとう見つけ出すことはできなかったそうだ。ルディアが正式に当主を引き継ぎ、その挨拶と――謝罪に、訪れるのだという。
 アリシュエル失踪の面倒に巻き込んでしまった件についての謝罪。
 しかし当然、ロウエンの死についてのそれはない。
 それでも当主が直々にこの屋敷を訪問するというのだから、まだ対応としては誠実であるとヒースが述べていた。
 ゆるく波打つ髪を肩から払い落としながら、マリアージュがぼやく。
「挨拶なんて、してくれなくて結構なのに」
 その声は、どこか沈んでいるように響いた。


 ルディアの到着を皆で出迎えた後、久々に時間が空いた。
 化粧道具の手入れをのんびりと行う。使用人の部屋は閑散としていた。ルディアとその付き人たちへの接待で、忙しないからだろう。
 窓の外、雲のゆっくり流れる蒼穹を仰いで、ダイは筆の粉を布に移していく手を止めた。
 ロウエンが死に、アリシュエルが姿を消してから、安息日を一つ、数えている。
 なのに、その事実がいまだに信じられない。
 ミゲルの店で、またロウエンとひょっこり顔を合わせるような気がしている。体調はどうだい、と少し腰を折ってダイを覗き込んでくる友人。彼の人の良い笑顔がもうどうやっても見られないということを、受け入れられない。
 マリアージュもまた、賞賛を受けてにっこりと笑うアリシュエルを見かけては歯噛みする日々が、続いている気がしてならないのだという。しかし貴族たちの話題を奪っているものはアリシュエルへの賛辞ではなく彼女の失踪についてであり、ここ数日のマリアージュは悄然と黙り込んで帰宅することが多かった。
 黙々と予定を消化していくマリアージュに不気味さを覚えたのか、使用人たちが彼女の様子を案じてダイに尋ねる。が、気の利いた答えを持ち合わせているはずもなく。無言で応じるダイに皆は溜息を吐き、女王選出が近くなって神経質になっているのだろうと、憶測を述べる程度が関の山だった。
 ダイ自身もまた、余裕がなかった。
 ロウエンのこと、アリシュエルのこと、マリアージュのこと。荒れたままであろうミゲルの店も気がかりだ。それらを相談できる唯一の人物であるヒースもまた、アリシュエルの失踪の煽りを受けて大わらわらしい。ダダンたちの出立を見送った日以降、ダイはヒースとまともに顔を合わせていなかった。今日ルディアを出迎える際、久方ぶりに挨拶を交わした程度である。
 身体のことを憂いながらも化粧師としての仕事をこなしていくだけでよかった、花街での賑やかな日々が、急に懐かしく思える。
 嘆息を零し筆の手入れを再開した刹那、扉が前触れなく開いた。
「あぁダイ」
 そう言って部屋に入ってきた侍女はシシィである。手入れ中の筆を置いて、ダイは微笑んだ。
「お仕事ひと段落したんですか?」
「いいえ」
 長机の前で立ち止まり、シシィは首を横に振る。
「休憩に来たわけではないの。貴方に、お客様」
「……私に?」
 首を傾げたダイの耳に、かつり、と靴音が響いた。
 紅の髪が、扉の影から覗く。
「こぉーんにちは!」
 ひらひら、と手を振って、白砂の荒野に住む魔術師がひょっこり顔を出した。
「アルヴィー!」
 久方ぶりに見る友人の姿に、ダイは勢いよく立ち上がった。椅子を引くのももどかしく席を離れ、彼女に駆け寄る。
 そのダイの頭をくりくりと撫でて、アルヴィナは笑った。
「んもう、しばらくね、ダイ。ここのところぜぇーんぜん連絡がなかったから押しかけてきちゃった!」
 そんなに会っていなかっただろうかと、ダイは慌てて謝罪した。
「え、と、すみません」
「なぁんてね」
 ダイの頭を解放して、アルヴィナは軽く片目を閉じてみせる。
「今日は調整しなおした術式が、ちゃぁんと動いているのか見に来たの」
「あぁ、そうなんですか?」
「うん」
「じゃぁダイ、私は仕事に戻るからね」
 頃合を見計らって口を挟んだシシィを、ダイは振り返った。彼女はわざわざアルヴィナを、ここまで案内してくれたらしい。
「ありがとうございました」
 シシィは口元の笑い皺を深くして、ダイの横をすり抜ける。廊下の向こうへ消える彼女の背を見送り、ダイはアルヴィナを部屋の中に通した。扉を閉めて、彼女に椅子を勧めたその足で、流しの前に立つ。
「ちょっと待ってください。お茶淹れます」
「おかまいなくー」
 湯の入った水差しを引き寄せ、茶葉を探しながら戸棚を空ける。手馴れていないことが丸わかりだ。待たせているアルヴィナの視線を感じながら、がたごとと流しの周囲を漁った末に、ようやくいつもの茶葉を見つけて、ダイは安堵に吐息した。
「なんだかお屋敷ざわざわしてるけど、どうして?」
 アルヴィナの質問に、ダイは匙で茶葉を量る手を止めて振り返った。
「他の家からお客様が来てるんです」
「あぁそれでなの。最初はね、ヒースを呼んだの。一応、今日お邪魔しますって連絡はしてあったのよ。でもなんか手が離せないみたいなことを言われたから、じゃぁダイとおしゃべりしながら待ってよっかなって思って。もちろん、貴女が、もし暇ならだけど」
「ちょうど今時間が空いたところでした」
「道具のお手入れしてたの?」
「そうです」
 ようやく紅茶で満たした茶器を二人分持って席に戻る。アルヴィナは広げられた筆を、しげしげと眺めていた。
「珍しいですか?」
 紅茶を手渡しながら尋ねる。
「んー、そうね。これだけの種類はあんまり見ないなぁ。全部お化粧に使うの?」
「そうです。一回で全ての筆を使うわけじゃないですけど。作り出したい質感とかで使い分けます」
「普通は売ってないんじゃなぁい?」
「絵筆を作ってる知り合いの職人に頼んで作ってもらいました」
「ふぅーん。あ、お茶ありがと!」
「いえ」
 ダイが椅子を引く傍で、アルヴィナが茶器に口を付けた。自分の分の茶器はひとまず置いて。邪魔になりそうな化粧道具を片付けようと、卓の上に軽く身を乗り出す。
「ぶはっ!!」
 突如、お茶を噴出したアルヴィナに、ダイは驚いて直立した。
「ちょ、ちょっとダイ! あなたこれすごく薄すぎっ!!!」
「あぁ……」
 ダイは呻いて、手付かずの方の紅茶を見下ろす。
「えー、やっぱりあんまり美味しくないですか?」
「やっぱり!? やっぱりって!?」
「……自分の分は適当でいいっていう癖が付いちゃってるので……お、美味しく淹れる方法がわからなくて」
「ちゃんともうちょっと蒸らして! 葉が開くのを待つの! すごく水っぽいんだけどどれだけしか入れてないの茶葉!?」
「最初薄すぎるっていわれたから前回はいっぱい入れたんですよ。そしたら渋かったらしいので、そのときよりもうちょっと減らしてみたんですけど……」
「なにそれ!? ちょっとどこに置いたの!? 茶葉見せて!!」
 ダイは無言のまま流しを示した。二人分の茶器を卓の上から引き取って、アルヴィナが些か恐ろしい剣幕で立ち上がる。流しに放置された茶瓶に早足で歩み寄り、その蓋をぱかりと開けた彼女は、その顔をみるみるうちに渋い色で染めていった。
「……ダイ、もうちょっと茶葉は入れて。なんであの味で平気なの?」
 唸るような問いかけに、ダイは弁解した。
「……昔はよく出がらしで飲んでたんで」
「そういう問題じゃなくて! ダイってば味覚は普通なのに! もしかして料理とかも」
「自分で食べる分だけにしてくれってよく言われてました」
 使った茶葉を一度捨て、茶道具一式を盆に載せて戻ってきたアルヴィナは、呆れた眼差しをダイに向ける。
「……今度一緒にお料理しようね。おねーさんが教えてあげるからね」
「……はぁ」
 すとん、と席に付いた彼女は、手際よく茶葉を量り入れた。
「二人分なら、コレぐらいね」
「あれ? 前回それぐらい入れて渋いって」
「多分、蒸らしすぎたんじゃない? 長いこと放置したりしてなかった?」
「……してました」
「ん。ちゃんと時間は計ろうね。計るの忘れるんだったら、最初は砂時計とか用意しておくといいよ。慣れたら勘でやっちゃってもいいからね」
 かぽ、と茶瓶に蓋をし、傍に置いてあった布をその上に被せて、アルヴィナは笑う。
「……すみません色々と」
 客人にお茶の用意をさせてしまうなんて。申し訳なさと自分への不甲斐なさに、ダイはしゅんと項垂れた。
「んーいいのいいの。それよりもね、ダイ、ちょっと訊きたいことがあったんだけど」
「訊きたいことですか?」
 うん、とアルヴィナは頷いた。
「私ここに来る前に用事があってミゲル君のお店に寄ったの。なんだけど、すっごく……ひどい状態だったのよねぇ」
 卓の上に肘を付き、組み合わせた指の上に乗せた顔を、彼女はことりと傾ける。
「ダイ、何か知らない?」
 顔が、強張った。
 知っている。
 知っている、が。
 どう状況を説明すべきかわからず、ダイは視線を彷徨わせた。
「……お店がひどいことになってるのは、知ってるのね?」
「知ってます。……その、色々、ありまして。……どんな感じでした?」
「そうねぇ。なんかこう、がらーんとして、玻璃が割れてたりするし。鍵が壊れてるしね。そぉっと奥までいってみたんだけど、商品の入ってた箱がひっくりかえって空っぽになったり木箱が踏み割られてたり、寝所のほうも寝台めちゃくちゃだったから」
「……そう、ですか」
 ダイが最後に足を踏み入れた時、二階の寝所はまだそこまで荒れていなかった。誰もいなくなった後、窃盗か何かが入ったのかもしれない。
「ミゲル君は無事かしら」
「あ、逃げたらしいですからそれは平気だと思います。しばらく、雲隠れするんだって」
「そう、よかった。あのお店なくなったら困っちゃう。また早く戻ってきて再開してくれるとうれしいなぁ」
 ねぇ、と同意を求められ、ダイは曖昧に頷き返した。店も心配だが、彼自身の安否がやはりそれ以上に気に掛かる。
 どこへ隠れたのかはわからないが、本当に、無事でいて欲しい。
 ロウエンのように、失いたくない。
 老衰や、病、事故といったものではない。
 あんな風に、踏みにじられて死ぬなんて。
 あんなに、優しい男だったのに。
 あんなに、ダイを助けてくれた友人だったのに。
「ダイ?」
「え?」
「お茶が入りました! はい、どーぞ」
「あ、ありがとうございます」
 淹れたての紅茶は、透明な赤茶。
「おいしい」
 口をつけると、同じ茶葉で淹れたとは思えないほど香り芳しかった。
「淹れ方一つで美味しくなるよ。ダイもすぐに美味しいの淹れられるようになるからね」
「ですかねぇ……」
「そしたらヒースも喜ぶと思うよ」
「え? なんでそこにヒースが出てくるんですか?」
 唐突に男の名前の出てくる理由がわからず、思わず尋ねる。
「え? えーっと、なんとなく?」
 えへ、と笑う魔術師に胡乱の目を向けた後、ダイは手元の紅茶に視線を落とした。そういえば、一度休憩の合間にダイが紅茶を淹れたときは彼にまともに咳き込まれて、二回目以降は淹れさせてもらえなくなった。
 そもそも、最後に二人で茶を挟んで会話したのはいつだっただろう。
 相談したいことが、山とある。
 何より、普通に。
 笑いたいのに。
 こんな風に何か美味しいものを用意したら、驚いて笑ってくれるだろうか。また、会話をしてくれるようになるだろうか。
 無理だ、とアルヴィナに気取られぬように頭を振る。そもそも、そのようなことに費やす時間を互いに持ち合わせていない。
 暗澹とした気分を飲み込むように、紅茶を嚥下する。
 今頃、ヒースとマリアージュは一体どんな話をルディアと交わしているのだろうと、ダイはふと思った。


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