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第八章 墜落する競争者 6


 何故、と男は常に思っていた。
 何故、この大陸には呪いがあるのだ。
 何故、正当なる血筋に生まれた自分が、他者に譲り渡さなくてはならないのだ。
 他大陸では、当然のように手に入るものを。
 何故。
 しかし喉から手が出るほど望んでも、彼にそれが与えられることはない。
 だから男は形代を用意した。
 その形代に、意思などいらぬ。
 役に立たぬのならば。
 邪魔になるのならば。
 消してしまえばいいだけの話だと、男は自分を娘の下へと導く愚かな馬車の姿にかかと嗤った。


 目的地への道程のほとんどが、互いに口を開かぬまま過ぎた。
 当然だろう。自分たちはそこまで親しいわけではないし、ロウエンは恋人の安否が気に掛かっているはずだ。自分とて怪我の為か微熱を感じる。気だるさが身体を襲い、世間話をするような余力はなかった。
「……あんな言い方する必要がどこにあったっていうんだい?」
 街の外門を抜けて城壁沿いに馬車が走り始めた頃、医者の男が唐突に話を切り出した。なんのことか、と片眉を上げるヒースに、ロウエンは非難の眼差しを向けてくる。
「ダイは賢い子だ。説明さえすれば役割を弁える」
 あぁ、彼女のことか。
 下した命令に承諾を示した時の、悲哀を押し殺した月色の瞳を思い浮かべ、ヒースは嗤った。
「そんなことは知っています」
「あんな言い方したら、嫌われるよ」
 忠告のつもりらしいその言葉に、肩をすくめて即答する。
「嫌われても構いません」
 自分の声ながら、実にそっけなく響くものだ。
 そう、嫌われてもいい。
 むしろ憎まれたい。
 あの月色の目に、はやくはやく、拒絶を宿してほしい。
 窓の外。灰色の煉瓦を汲み上げた城壁だけで構成される、色褪せた景色が流れている。
 しかしこの眼が捉えているものは、ひどく傷ついた顔をした少女の幻影、そればかりだ。
「へぇ、よく言うよ」
 残像から逃げるように視界を暗闇に閉ざしたヒースの耳に、揶揄するような医者の声が届いた。
「アリシュエルの手紙をダイから受け取っているとき、踏み込んできた君の顔、鏡で見せてやりたかったね。実に見物(みもの)だった」
「……見物?」
「色々御託並べてダイに説教していたけど、あの時の君の顔は、嫉妬に眩む男の顔そのものだった。恋人の浮気現場に踏み込んだ男の顔だったよ。嫌われてもいい、だなんて、あんな顔しておいてよく言えたものだ」
 ヒースは、億劫に思いながら瞼を上げた。苛立っていた。憶測で冗談を口にするにも、ほどがある。
 しかしロウエンの顔は、とても人をからかうそれではない。膝の狭間で祈るように手を組む男の真剣な表情に、ヒースは口を噤まざるを得なかった。
「君は、あの子の身体のことを……知っているんだね?」
 その確認に、ヒースは壁面に背を預けて頷く。
「知っています」
 知りたくなかった。
 知らなければ。
 きっとこんな穴には墜ちなかった。
「……貴方もご存知なんですね」
「彼女の身体を検診していた医者は僕でね」
 自嘲にも見える笑みを浮かべ、ロウエンは言った。
「……そうか。知っているんだね。ミズウィーリ家の……他の人たちも?」
「えぇ。性別だけなら。私は……事情も、全部聞きました」
「彼女の母親のことも?」
「そうです。全部」
「……そう、か」
 ロウエンは喜色を浮かべ、身体を背面に向けて倒した。天を仰ぐように、こつり、と後頭部を壁に押し当てる。
「じゃぁ、あの子は本当にあの街から、解放されたんだね」
 ロウエンの唇が微かに震え、よかった、と歓喜を紡ぐ。
 ヒースはロウエンの反応に顔をしかめた。何をそこまで喜ぶ必要があるのか。ダイがロウエンの恋人なわけでもあるまいし。
「そう」
 ヒースはゆっくりと首肯する。
「……花街で性別を隠して生きる必要はもうありません」
「違うよ、ヒース」
 しかしロウエンは即座にヒースの解釈を否定した。
「そういう意味じゃない」
「……なら」
 どういう意味だ。
 不可解さに、ヒースは首をかしげた。
「僕の言う『街からの解放』とは、彼女が誰の思惑からも外れて自由になれたっていうことさ」
「……思惑?」
「そう」
 ロウエンが苦渋に満ちた声音で答える。
「あの子は……犠牲者さ。あの子の母親、その客であった男たち、そして芸妓の女たち。彼女らの狂気の犠牲者。それが……ダイだ」
「母親はわかりますが……客の男たちと芸妓の女たちの狂気、というのはどういうことです?」
 以前に話を聞いた限りでは、ダイの母親以外は加害者ではなく彼女を守るために動いた庇護者だ。なのに何故、ロウエンはあたかもダイの周囲全てが狂っていたかのような表現をするのだろう。
「ダイは子供の無力さ故にあの街に残る必要があり、職人制故に性別を偽らなければならなかったと説明しただろう?」
「えぇ」
 芸妓の小国ゆえに、職人制ゆえに、幼かったゆえに。
 化粧師の少女は、強要された歪んだ生き方から、逃げられなかったのだ、と。
「それはね、刷り込みだよ」
 ロウエンはその今までの認識を、真っ向から否定した。
「そんな風に生きる必要はどこにもなかった。アスマにしたって……あぁ君、アスマのことも知ってるかい?」
「えぇ。知っています」
「……本当に全部知ってるんだね」
 ロウエンは驚いたといわんばかりに言葉を止める。本題から逸れかける彼に、ヒースは顎を軽く上げて話の先を促した。
「それで?」
「……あぁ、うん。どこまで話したっけ。……そう。アスマだ。本当にダイを助けたいと思うのならね、彼女がダイを街の外に出してやればよかった。花街の外で生きられるよう援助してやればよかった。アスマには造作もないことだっただろう。そうしなかったのは……他でもない彼女が、ダイの母親の遺産を手放したくなかったからだ。……アスマもまた、ダイの母親を強烈に愛している人間の一人だったからね」
 ロウエンの解説に、ヒースは目を瞠った。
(あの、アスマが?)
「彼女は理不尽な理由でダイを縛り付けているようには見えませんでしたが」
 アスマは話の筋通った常識人として自分の目に映った。ダイが彼女を母親のように慕っていることは知っている。アスマはそれに適うだけの愛情をダイに注ぎ、彼女の成長を見守ってきたに違いない。
 そのアスマが、ダイの人生を歪めた一端を担っているなど。
「アスマは狂いきれなかっただけさ。いつかは手放さなければと思っていたにすぎない。ダイの性別を歪めてまで留め置いていたのは、彼女のダイの母親に対する執着の為せる技だ」
「……そこまで執着されるダイの母親とは、一体どういう女性だったのですか?」
「娼婦だったというのは聞いているんだろう? 誰からも求められ、誰からも愛された」
「貴方はダイの母親にお会いしたことは?」
「ないよ。僕がこの国に来たとき、彼女は既に故人だった。けれどその存在は伝説的だったね。大勢の男がその人に溺れた。女に対しては食指動かぬと豪語する、筋金入りの男色家であるあのミゲルですらだ」
 その言葉に、ヒースは驚きに息を詰めた。ダイと親しげに会話する、細身の店主を思い浮かべる。
「彼はダイの母親の客だったんですか!?」
「抱いたことのある唯一の女性が彼(か)の娼婦だったと、ミゲルはいつも言ってるよ」
 では、ミゲルもおそらくダイの性別を知る一人だったのだ。思い返せば彼もダイが男であるとは明言していない。彼女がミゲルの店を行きつけとしているのは、自らを偽る必要のない気安さもあるからだったのだろう。
「まるで聖女のような女だったと、ダイの母親について皆は口を揃える。抱いても抱いても穢れずにそこに在る、永遠の乙女。永遠の処女性を宿した女だったと」
 自分とて別に女の経験がないわけではない。だが一人の女がそこまで皆を溺れさせるなどと、全く想像の付かぬ話だ。
「彼女は人を抱くということにおける、天才だったんだろう」
 ロウエンは言った。
「誰もが執着せずにはいられなかった。彼女に関った者達は皆、色んなものを失った。客の男達は妻子、金、名誉、時に地位。芸妓達は彼女に客を根こそぎ奪われた。……だから、ダイの母親が死んだとき、彼らは皆、逆に喜んだんだ。そしてもう二度と、同じ異端児が生まれないように封殺しなければならなかった」
「……ではダイは」
「ダイはアスマや芸妓達を慕っているだろう? ダイはアスマたちが彼女の境遇に同情して自分を守ってくれていたのだと信じている。けれどアスマたちは決して単なる同情によって、ダイをこの茶番劇の中心に据えたわけじゃない。アスマの執着、客の男達のまた溺れてしまうのではないかという恐怖、芸妓達の嫉妬が、ダイを歪な形で花街に縛り付けたんだ」
 花街の女たちを心から慕って笑う、少女を思う。
 人を真っ直ぐに信じる、少女を。
 こんなにも狂気と虚偽にまみれて、彼女はどうしてあそこまで清らかでいられるのだろう。
「あの狂気から彼女が解放されたって、知ることができてよかった」
「心配していた?」
「当然さ。友人だもの」
 ヒースの問いに一笑して、ロウエンは続ける。
「僕はもう彼女を助けてやれない」
 この件が終われば結末はどうであれ、彼はこの国を出て行く。
 黒い目を細めて、ロウエンはヒースに懇願した。
「だからどうか、ずっと彼女を見守っていてあげて」
 静謐なその声音に、ヒースは眉間を寄せた。
「……私が?」
「君以外に誰がいる?」
「大勢。彼女は皆に愛されますよ」
 雇われたばかりの頃、彼女はミズウィーリ家にとって『異物』だった。今、彼女はそのミズウィーリ家にとって――少なくとも、当主たるマリアージュにとって、なくてはならぬ存在だ。皆に受け入れられている。愛されている。
 逆境に腐ることなく、ただ、真っ直ぐに向かい合おうとするそのひたむきさに、皆集まる。
 そしてこれからも、彼女はそうやって人を強く惹きつけていくのだろう。
「皆が、彼女を愛して、見守っていくでしょう」
 なにも自分でなくとも。
 誰かが彼女の傍にあるだろう。
 いつか素晴らしい女性となった暁に。
「君は……その皆の中に、含まれないのかい?」
「えぇ」
 ヒースは肯定に微笑んだ。
「私は誰も愛しません」
 亡霊の、自分に、そのようなことは出来ない。
 出来るはずがない。
 愛することも、見守っていくことも、傍に置いていくことも。
 何も。
 出来ない、はずだ。
 馬車が、止まる。
 短いようでいて長かった会話が途切れる。いつの間にか目的の場所に到着していた。窓の向こう、垣根を挟んでかなり近くに白亜の王宮が見える。
「僕が祈るのはもう、アリシュエルの幸せだけだから」
 御者が扉を開け、光が射す。ロウエンは外套を羽織り、立ち上がって言った。
「ヒース。余裕のある時でいいんだ。いつもとは言わない。余裕があるときだけでいい。……ダイに、優しくしてやって」
 馬車を降りながら、彼は笑って付け加える。
「頼みを聞いてくれると嬉しい。餞別だと、思ってさ」
 光の向こうに融け往く男の背を見送って、ヒースは嘆息した。
「……そんな義理はありません」
 低く呻く。
「この短い付き合いに」
 ダイを通じた、か細い繋がりに。
「餞別も何もないでしょうに」


 屋敷の警備の人間を何人か手勢として裂いて率い、ダイたちは一度城壁の外へ出た。ヒースたちと上手く合流するためには、彼らの後を追ったほうがよいだろうということになったのである。案の定、城が間近に望める城壁の外、細い山道の入り口でダイたちは二台の馬車を見つけた。
「こっちは、ミズウィーリ家の馬車ですよね……」
 二連の野薔薇の家章が刻まれた空っぽのそれを覗き込んで、ダイは呟いた。ミゲルの店へ向かう際にダイも乗った馬車だ。本来ならば御者は残っているはずだが、誰の影も見当たらない。
 のんびりと草を食む馬から離れたダイは、止まっているもう一台に歩み寄った。その周囲には、マリアージュたちが集まっている。
「マリアージュ様、この馬車は?」
「ガートルード家の馬車」
 即答したマリアージュは、口元を歪めて唸った。
「ご当主の馬車よ」
「……バイラム氏がもうこちらに?」
「可能性は高いな」
 馬車から降りてきたダダンが口を挟んだ。どうやらこの馬車の中も、もぬけの殻らしい。
「多分ずっとお前らを見張ってたんじゃねぇのか? いっちばん最初の、ミゲルの店に来る前から。んで俺らが別れたあと、ロウエンたちの後を追ってここに来たと考えりゃ、そのバイラムっつう男の馬車がここにあることにも頷ける」
 ダダンは腰に剣を佩きなおし、馬車から離れて急勾配な山道へ向かった。マリアージュも競争するように彼の後を付いていく。
「とりあえず僕はこっちで馬車を見ている」
 共にやってきた数人の警備のうち一人が申し出る。
 残りの男達は、ダイの肩を軽く叩いた。
「俺達もいくぞ、ダイ、置いていかれちまう」


 彼女は走っていた。
 男に手を引かれて走っていた。
 暗い森をでたらめに。父から逃れるために。
 彼女は自分の手首を強く握り締める熱い手を見つめながら思った。この手だ。この手がずっと欲しかった。この手と、それに繋がる全て。この男と共に生きたかった。
 そのためならば、何を捨てても構わないのに。
 男はその恋を、外の世界への憧憬と混同していると笑ったけれども、そんなことはない。
 男の背中を見つめながら、彼女は思った。
 このまま、ずっと、どこか遠くへ。
 二人で。


「ちょ、だ、ダイ、待ちなさいよ!」
 音を上げてその場にしゃがみこむマリアージュに、ダイは呆れ顔で手を差し伸べた。
「だから言ったんですよ。しんどいと思いますけどって」
 最初こそは意気込んでいたマリアージュだが、その足取りは徐々に重くなっていった。歩き始めて半刻近く。とうとう降参らしい。
 日頃、他人に傅かれ必要以上に動くことのない彼女だ。この山道は辛かっただろう。
 よく我慢したほうだ。彼女の矜持の高さ故に為せることである。
「な、んでっ、あんたは平気なのよ!」
 ダイの手を支えに立ち上がり、マリアージュは息切れ切れに叫ぶ。ダイは肩をすくめて答えた。
「一応、これでも下町育ちなので」
 体力にはマリアージュよりも自信がある。自分はただ、非力なだけだ。
 だがさすがに疲れた。山道はどんどん険しくなり、本当にアリシュエルはここにいるのだろうかと疑問に思う。マリアージュと同様、アリシュエルにもそんなに体力があるとは思えない。この傾斜厳しい道をロウエンたちが上っていったかどうかも、はなはだ怪しかった。
「マ、マリアージュ様、どうぞ私の背に……」
 背を貸そうかと躊躇いがちに提案してきた警備の男を、マリアージュはきっと睨み付ける。
「自分で歩くわ!」
 呼吸を必死に整える主人を眺めながら、むしろ引き返して馬車で待機していてほしいとダイは思った。ここまでくると、彼女の意地っ張りも天晴れである。
「おい、こっちに人はいなさそうだ」
 がさ、と草木を掻き分けて、偵察に出ていたダダンが戻ってきた。
「一度引き返したほうがいいな。人が通った気配もない」
「道を間違えましたか?」
「あーわからん。別の道へ行かせた奴と合流して報告聞くしかねぇだろう。もうそろそろガートルード家の別働隊もここに来てる頃じゃねぇか? 馬車に戻って情報交換してみるのも手だ。何より……」
 一度言葉を区切ったダダンは、笑みに口の端を吊り上げてマリアージュを一瞥する。
「お姫さんの体力がなさそうだしな!」
「ちょっと休憩してただけじゃない! 余計なお世話よ!」
「ダダン、マリアージュ様を焚き付けないでくださいよ……」
 マリアージュも本当ならもっと早くに、もう嫌だと投げ出していただろう。彼女が辛抱強く山道を登ってきたのは、足を止めそうになるその度に、再三ダダンが揚げ足を取るからだ。
「戻らなくてもいいわよ! 私は!」
「あそ。じゃぁここにいろ。俺は戻るぞ」
「こっの! あんた私たちの護衛じゃないわけ!?」
「あのな、俺はロウエンの義理立てでここにいるんだ。お前に雇われてるわけじゃねぇよ。金払わねぇっていったのもお姫さんだろ」
「ダダン! マリアージュ様も! もう少し仲良くしてくださいよ!」
 ダダンとマリアージュの二人は道中ずっとこんな様子だ。いい加減、ダイの疲れも頂点に達していた。二人の仲裁に入りながら、周囲の同僚たちに助けを目で請う。しかし彼らは係わり合いになりたくないとばかりに距離を置いて、ダイに全てを丸投げしていた。
 思わず、嘆息を零す。この状態から抜け出すためにも、アリシュエルにはさっさと姿を現して欲しいところだ。
 言い合いを再開する二人を生ぬるい目で眺めていたダイは、擦れあう梢の音が一瞬大きくなったように感じ、面を上げた。
「……え?」
 晴れ渡った空と、山道をなで上げていく風。ゆっくりと揺れる緑。
 気のせいか、と二人に向き直りかけたダイの耳に、今度こそ、ぱきりという枯れ枝を踏み割る音がはっきりと届いた。
(ひとのあしおと)
「ダダン!」
 ダイの呼びかけに応じて、ダダンがマリアージュとの言い合いを切り上げる。彼は厳しい表情で、腰に佩いた剣の柄に手をかけた。警備の男達もまた一斉に剣を構え、踏み込みの体勢に腰を屈める。
 梢が左右に激しく揺れた。
 ひときわ大きな音を立てて、影が姿を現す。
「ヒース!?」
 ダイは、悲鳴じみた叫びを上げた。
 千切れた草木を体中に付けて、衣服の裾を泥で汚した男は、ダイの姿を見るなり顔を歪める。
「なんで貴女がここにいるんですか」


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