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第七章 篭絡する医師 6


 報告の手始めに伝えたことは、バイラムがアリシュエルを通じてダイを引き抜きにかかった、ということだった。
「予定通り、ですか」
「はい」
 椅子に深く腰掛けたヒースが、報告に低く唸る。筆記具の先をこつこつ机に当てて何事かを思案する彼に、ダイは尋ねた。
「私が断ったことで……その、やっぱり、嫌がらせとかあるんでしょうか?」
「反抗的、とは見られる。格下ならば化粧師の一人や二人ぐらい献上して然るべきだ、とガートルード家のご主人は考えるでしょう。尊大な方だ。矜持が傷つけられることを許せないに違いない」
「……それって、大丈夫なんですか?」
「こちらはあの家と同じ上級貴族ですよ。しかも女王候補を輩出している家は同等に扱われる。何を謙(へりくだ)る必要がある? 家の情勢は今こそ不利に違いないですが、ひっくり返せる」
「……ひっくり返せますか?」
「もちろん」
 ヒースは即答する。
「……そうですか……」
 そして彼はこちらの気の無い反応に、おや、と片眉を上げ身を起こした。
「どうしました? やけに不安そうですね」
「いえ。不安っていうか、どんな風にしてひっくり返すのかなぁ、と思っただけです」
「まぁ、見ていてください」
 彼は自信ありげに口角を上げる。どこか酷薄に映るその微笑にダイは眉をひそめ、唇を引き結んだ。
 ヒースは仕事においては余計な情を挟まない。必要に迫られれば手段を選ばぬだろうし、人を盤上の駒のように動かすことも、おそらく躊躇わない。それがこの半年の間にダイが理解した、ヒースの仕事の仕方だ。
(ロウエンたちのことは)
 ガートルード家に対する、手札になるのではないか。
 ダイは目を伏せて、母の形見の化粧箱に仕舞いこんだアリシュエルの手紙を思い浮かべた。ヒースはそれを単なる恋文としては扱わないだろう。アリシュエルを失墜させるための鍵として見做すに違いない。
 その予感が、ダイの判断を鈍らせる。
「……ディアナ?」
 かた、と椅子の動く音がした。人の歩み寄る気配に、ダイは面を上げる。
「どうしたんですか?」
 ダイの傍で立ち止まり、ヒースは首を傾げた。
「え? い、いいえ」
「何か暗い顔をしていますが。あちらの家で何かあったなら言ってくださいよ」
「いえ、なにもないです。なにも」
 ダイは反射的に主張した。ヒースは不審そうな顔をみせたもの、それ以上追求することはなかった。
「おいで」
 彼は唐突にダイの手を取って卓の方へと誘った。
「お茶でも淹れましょう」
 椅子を勧めながら彼は言う。
「私淹れますよ」
 ヒースの申し出を、ダイは慌てて制した。立場的には上司である彼に、給仕係のようなことをさせられない。
 しかしヒースはダイの主張を、速攻で却下した。
「やですよ。貴女下手ですし」
「……返す言葉がないです」
 項垂れるダイをそのままに、ヒースは含み笑いを漏らしながら棚の方へと歩いていった。大抵は侍女を呼んで茶を用意させるが、この時間だ。皆休んでいる。棚に置かれた茶道具一式は、仕事を終えて下がる前に侍女が用意したものだろう。保温の術式が刻まれた瓶を、控えの間で沸かしたと思しき湯が満たしていた。
(変なひと)
 手際よく茶の仕度をしていくヒースを眺めながら、ダイは思った。
 ヒースの指示の出し方は、部下を持って一年二年の人間が出すそれではない。彼は明らかに誰かを従えることに慣れていた。
 しかし同等の自然さで、彼は他人の世話を焼くのだ。
 たとえば、今のように。
「……ヒースって、ご兄弟が確か」
「いましたよ。妹が」
「あと、弟さんみたいな人もいたんでしたね」
「急にどうしたんですか?」
「ヒースが人の面倒を見ることに慣れてるのも、やっぱりそのせいなのかなぁって思って」
「慣れているように、見えますか?」
「見えます。私、世話焼かれっぱなしのような……」
「目が離せないんですよ」
 かた、と茶器を卓の上に置いて、ヒースは笑った。
「いつの間にかすぐ変なことに足をつっこんでいますからね、貴女は。ガートルード家では別人みたいになって現れるし、アリシュエル嬢に伴われているし」
「あ、それで思い出した!」
 彼から紅茶を受け取りながら、ダイは叫んだ。
「ヒースひどいじゃないですか。なんであの時私だってすぐにわからなかったんですか? アリシュエル様は今日一発で私があの時の迷子だってわかったのに」
「え? 今日貴女いつもの格好だったのに?」
「そうです」
 四半刻も場を共にしていないアリシュエルにわかるものを、どうしてヒースは気付かなかったのだ。
「なんで『女装』していたんだって、訊かれませんでした?」
「……えー……そこのところには触れられませんでしたけど……」
 おそらく、あちらが然るべき姿だと思ったからだろう。もしくは、本題ではなかったからかもしれない。
 ヒースは椅子を引き出すと、ダイの対面に腰を下ろした。卓の上で手を組み合わせ、彼は笑う。
「本当に、何故気付かなかったんでしょうね。まったくわからなかった」
「私あのときかなり焦りましたよ。ものすごい目で睨まれましたし」
「すみませんでした」
 ダイの責めに苦い笑いを返したヒースは、椅子の背に重心を預けた。
「……本当に、何故、とは思いますよ」
 囁きながら、彼は僅かに目を伏せる。
「……あるいは、ただ……気づきたくなかっただけかもしれませんが」
「何に?」
 ダイの問いに、彼は淡く微笑んだ。
「貴女が女の子だって」
「……何か問題が、あるんですか?」
 自分が、女であることに。
「男の振りしてたほうが都合いいなら、ずっとそうしてますよ。ガートルード家でも男扱いされてましたし」
 男として振舞うこと自体には、今更何の苦も覚えないのだ――この身体がこのまま成長しないのであれば、少年に擬態することは決して難しくない。
「いいえ。そういうことではない」
 ダイが女であることに問題があるわけではないらしい。ヒースはゆっくりと頭を横に振る。
「じゃぁ、どういうことなんですか?」
 彼らしくない歯にものの詰まった言い方への苛立ちを自覚しながら、ダイは口先を尖らせた。
 ヒースは、微笑するだけだ。
 哀しく、微笑するだけ。
 泣き出すのを、堪えているような。
 そこに、自信溢れるやり手の男の姿はない。
(ずるいなぁ)
 ダイは内心嘆息する。
(そんな顔されたら)
 訊くに、訊けない。
 続けるべき言葉を失って、ダイは沈黙した。居たたまれなさに、視線を彷徨わせる。
「く……くくっ」
 ふと部屋に小さな笑い声が響き、ダイはヒースに視線を戻した。彼は身体を折って口元を押さえ、喉を鳴らしている。
「そんな難しそうな顔をせずとも」
「……させたのは誰ですか?」
 ダイは恨めしくヒースを見上げた。
 人が真剣に慮ったというのに、笑うことはないではないか。
「すみません。そんな睨まないでください」
 ヒースは笑いにひときわ大きく肩を揺らす。そんな様子で謝罪されても、全く説得力はない。ダイはさらに厳しくヒースを睨め付けた。
「ディアナ」
 ダイが怒りを収めないとみるや、ヒースは一変して表情を引き締める。
 そして身を乗り出した彼は、困り顔で懇願した。
「許して」
 そっと、産毛を撫でていくような。
 低く甘い声。
「……ヒースってなんだか色々ずるい気がする」
「何がですか?」
 渋面になって唸ったこちらに、そ知らぬ顔でヒースは応じる。
「もういいですよ」
 椅子の背にもたれかかって、ダイは呻いた。たとえ様のない疲労感が、頭を重くする。
 苦笑したヒースは、湯気を途切れさせた茶器に手を伸ばした。
「……アリシュエル嬢とは、他にどんな話をしたのですか?」
「うーん……」
 茶器に口を付ける彼の所作を視線で追いながら、ダイは思案した。ロウエンのことを語るなら今だとも思うのに、どうしても踏み切ることができない。
「……アリシュエル様がマリアージュ様が大好きっていう話だとか」
 結局、最も話したいこととは別の内容が先に出た。
「……は? そうなんですか?」
「みたいです」
 ダイは身体を起こし紅茶に手を伸ばして、ヒースに頷いて見せた。
「アリシュエル様のお話聞いていて思ったんですけど、マリアージュ様もそこまでアリシュエル様のこと嫌ってはいないんですよね。毎回大騒ぎしますけど……そう思うと、変な関係だなって」
「本当にそれは不思議な関係だ。何であのアリシュエル嬢がマリアージュ様を好きになられたりするんですかね?」
「羨ましいみたいですよ」
「羨ましい?」
 理由が解せないらしい。ヒースはあからさまに表情を歪める。
 ダイは彼の反応に苦笑しつつ、推測を述べた。
「アリシュエル様、なんか生活が色々窮屈そうでした」
「なるほど」
 納得に一つ頷いたヒースは、持論で補足する。
「マリアージュ様はそこをいくとかなり自由にされていらっしゃいますからね。そうですね。アリシュエル嬢はかなり息苦しい生活を強いられているでしょう。あんな風に注目を浴びていては無理もない」
「あと私みたいなお友達がいるから、羨ましいって」
「……貴女とマリアージュ様って友人同士だったんですか?」
 ヒースは紅茶を口に運ぶ手を、驚きの顔で止めた。
「いえ、私もそこは否定しておいたんですけど……」
 ダイは口ごもる。
 貴族の子女と花街生まれの自分が友人同士だ、などとお恐れ多い。そんな風にアリシュエルから見られていると知れば、マリアージュはますます怒りを顕にするだろう。
「何をご覧になって、貴女をマリアージュ様の友人と判断されたのだか。……貴女方二人が一緒にいるところなど、アリシュエル嬢は目にしていらっしゃらないでしょうに」
「ですよね」
「近くにいる私たちからすれば納得できる部分もありますが」
「え!? そうなんですか!?」
 思いがけない意見に、ダイは目を剥いた。先ほどのヒースの弁ではないが、自分達の何を見て彼はそう思ったのだろう。
「貴女は実際のところ、どう思っているんです?」
「……私が、マリアージュ様を?」
 ダイは、腕を組んで唸った。同じことをアリシュエルのところで自問したが、答えは出ぬままだ。
「……ヒースはどうなんですか?」
 回答に窮し、ダイはヒースに質問をそのまま投げ返した。
「私?」
「はい」
 頷いて、ダイは言った。
「ヒースにとって、マリアージュ様って、なんなんですか?」
 答えるに困って彼に参考を求めたわけだが、改めて思う。
「……どうして、マリアージュ様に女王になってほしいって、思ってるんですか?」
 ヒースがミズウィーリ家に仕えるようになって、そろそろ三年近くになるはずだ。マリアージュの父への恩を返すために、彼との契約に従って、ヒースは働いている。
 そう、聞いている。
 しかし本当のところはどうなのだろう。ダイもまたヒースが恩や契約だけで動くような男だとは思えない。もっと何か別の思惑があるはずだ。
 マリアージュはヒースを怪しいだの不遜だのとこき下ろしてはいるが、その能力については絶対の信頼を寄せている。一方ヒースも彼女が女王の器であると妙な確信を得ているようだった。
 マリアージュとアリシュエルのことを話していて思ったことがある。
 ヒースのマリアージュに対する冷ややかな態度は、愛情か深い敬意の裏返しなのではないかと。
「私にとってマリアージュ様は、雇用主ですよ」
 だがダイの憶測とは裏腹に、ヒースはさしたる感慨もなく、さらりと応じた。
「恩ある人の娘。仕えている女王候補者」
 肩透かしを食らったような気分でダイは尋ねる。
「それだけ?」
「他に何があるんですか? 主人と使用人。それ以外に」
 彼らしい淡白さだ。冷淡とも呼べるほど。彼の回答に、ダイは呆れと安堵にも似た不可解な感情を抱いた。
「……おともだち?」
 とりあえず、と冗談半分で尋ねたダイに、ヒースは露骨に顔をしかめてみせる。
「残念ながら、マリアージュ様とは友人関係を結びたいとは思いませんね。もう少し癇癪の回数を減らしていただかないと」
 彼は不快そうに身じろぎした。以前、彼女を篭絡したらいいという話をダイがしたときもそうだったが、彼はマリアージュと個人的に親しくなることを遠慮したいらしい。
「最近、素直になられましたよ」
「それは貴女がマリアージュ様の扱いが上手だからですよ。……その様子を見ていると、友人同士に見えなくもありません」
「そうなんですか……?」
 問い返しながら、マリアージュは嫌がるだろうとダイは思った。花街の出自を受け入れることと、友人として見做すことはまた別の話だ。
「……さて、それでは貴女にとってマリアージュ様は?」
 自分が回答する番は終わったと、ヒースが再び問いかけてくる。腕を組んだまま、ダイは首を捻った。ちなみにヒースの回答は参考になったものではない。
「……わかりません」
 明確な答えなど、出るはずもない。
 諦めて、軽く頭を振った。
「単なる、雇用主と使用人かって言われると、ちょっとなんか、違う気がするんですけど、友人は……うん。なんかやっぱり違う気がするんですよね。でも」
 一度言葉を区切って、ダイは微笑む。
「大事な人には違いないです。やっぱりあの人に女王になっていただきたいって思うし、そうでなくても、幸せになってほしいって、思います」
 マリアージュは乱暴な時もあるが、ダイを本当の意味で傷つけるようなことはしない。人の機微に聡い繊細な少女だ。彼女がもっと自信を持って、輝いていければと思っている。
「ヒースや、ティティや、他のみんなにも、そう思っています」
 もう、母のように誰かが病み苦しんでいく姿はみたくないのだ。
 無論、花街で自分を大切にしてくれた皆にも、幸せになってほしいと願っている。そしてその対象に、ロウエンも含まれていた。
 彼はダイの身体を頓に心配してくれていた人間の一人だった。医者として他人のために尽くし、自分を二の次にしがちな彼があのように必死な顔をしてアリシュエルと連絡を取ろうとしていたと思うと、やはり手伝ってやらねば、という気分になる。そうすると彼らのことは、ヒースに話さないほうがよいのだろう。
 傍近くに仕えているマリアージュのことさえ単なる雇用人だと言いきる彼にしてみれば、一度顔を合わせただけにすぎないロウエンと、敵同然であるアリシュエルのために、寛容になってやることもない。もし必要だと判断すれば、マリアージュを女王にするための布石の一つとして彼らの仲を利用することなど、ヒースにとって些細なことだろう。
 夜の沈黙に燭台の上の炎が揺れる。窓の外は既に暗い。魔は消灯時間をとうに過ぎたと告げている。使用人たちは皆、別館で休んでいる頃だった。
「……ヒース、一つお願いがあるんですけれど」
「お願い?」
 覚悟を決めて紡いだ声音は、神妙な響きを宿していた。ヒースの蒼の双眸が訝りに細められる。ダイは慌てて平静を取り繕った。
「あの、今度の安息日、午前中にお休みいただいてもいいですか?」
「何だそんなことですか」
 肩透かしを食らった顔で、ヒースは目元を緩める。
「急に何かと思いましたよ」
「ごめんなさい。でもついこの間もお休みいただいたばかりだしと思って……」
「そうですね。マリアージュ様の予定が空いているようなら構いませんが、一体何をしに?」
「届いていない品物があったんです」
 嘘を、吐いた。
「ミゲルの店に、午前中に取りに行こうと思って」
 買出しは全て終わっている。街に下りる必要などどこにもない。それでも、嘘を吐いた。アリシュエルの手紙を内緒でロウエンに届けるため。
「それが終わったらすぐに戻ってきます」
「荷物を送ってもらうことは……できませんね。彼はこちらのことを知らないんでしたっけ?」
「はい。アスマに預けてもらったら、時間がかかりますから……」
「いいですよ。ただ気を付けて行くように。もう貴女もそれなりに注目されている身ですから、できればミゲルにもどこかに出てきてもらう方がいいんじゃないですか?」
「はい」
 ヒースの助言を上の空で聞き流して、ダイは椅子から立ち上がった。
「それじゃぁ、私そろそろ行きます」
「あぁ、もうこんな時間か」
 時間を計ったらしいヒースが、長話しすぎたと独りごちる。
「私のほうこそ、疲れてるのに押しかけてすみませんでした」
「報告は義務ですから気にすることないですよ」
「はい」
「ディアナ」
 小走りで扉へ向かっていると、背後からヒースの声が掛かった。
「よく休んで、今日の疲れを残さないように」
 退室の前に足を止めて、ダイは彼を振り返る。
「ありがとうございます。おやすみなさい、ヒース」
「えぇ」
 ヒースはひどく、柔らかく笑った。
「お休みなさい、ディアナ」
 労わるようなその微笑に、途轍もない後悔が波となって押し寄せてくる。
 やはり、彼に全てを吐露したほうがよかったのではないか。
 胸の痛みを押し込めて退室したダイは、こんな選択を自分に迫ったロウエンとアリシュエルの二人を詰りながら、扉を閉めたのだった。


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