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第七章 篭絡する医師 2


 久方ぶりに見る顔。息を切らす男の名を、ダイは呼んだ。
「ロ、ロウエン?」
「よかった……やっぱりダイだ」
 黒髪黒目の、東大陸の民の面差しをした男。花街にも多く患者を抱える、裏町の医者だ。
 吐息に大きく肩を上下させた男は、ダイを解放したその手で胸を撫で下ろした。
「なぁに? お知り合い?」
「友人です。ミゲルとも知り合いで、ロウエンっていいます。ロウエン、こっちはアルヴィナ」
「こんにちは」
「えぇ。初めまして」
 微笑し挨拶するアルヴィナに、彼は笑顔を取り繕った。
「失礼。あまり時間がなくて……」
 そう言って、ロウエンは額の汗を手の甲で拭う。彼の姿ときたら、水浴びでもしてきたかのように汗みずくである。呼吸も荒い。
「どうしたんですか? なんか街を走り回ってきたみたいな感じですけど」
「その通り、走り回っているんだよ」
 ロウエンは肌に張り付いた衣服を引き剥がして苦笑を浮かべた。涼風を肌へと送りながら、呼吸を整える。やや置き、居住まいを正した彼の口から零れた懇願の響きに、ダイは瞬いた。
「……ダイ、一つ頼みがあるんだ。いいかい?」
「いいですけど……」
 安堵らしき表情に目元を緩め、彼は言った。
「おそらく近々、ガートルード家からミズウィーリ家に……君に、化粧の依頼がいくだろう。それを引き受けてほしい」
 思わず、絶句する。
「…………は?」
 裏町の医者であるロウエンの口から、ごく自然に上級貴族の名前が出てきたことにも驚いた。しかしそれ以上に、自分の新しい勤め先を彼が知っていることに困惑する。アスマは花街の皆に事情を漏らしていない。ダイがミズウィーリ家で働いていると知っている者は、彼女以外存在しないはずである。
「どうし」
「頼む」
 ダイの問いは、男の懇願によって打ち消された。溺れるものが藁にすがるかのような表情を浮かべ、ロウエンはダイの肩を再び掴む。食い込む男の指。握力の掛かる骨が軋みを上げる。
 彼の手は、苦痛を訴えるよりも早くダイから離れた。
「ロウエン!」
 唐突に割り込んだその声に、呼ばれた当人がはっとなって面を上げる。頼んだよ、とダイの肩を叩き、彼はまた走り出した。
 医者の背中は、雑踏に紛れて消えていく。
「ロウエン! 待て! 待ちやがれ!」
 ロウエンを追いかけて、声の主が姿を現す。見覚えのない男だ。短く切られた砂色の髪、顎周りを覆う無精ひげ。彼は鋭くダイを一瞥して通り過ぎ、人の群れの中へと埋もれていった。
 あっという間の出来事に呆然とするダイの心中を、傍らでアルヴィナが代弁する。
「……なんだったのかしらねぇ」


 釈然としない気分を抱いたままミゲルの店に到着すると、先客がいた。
 ミゲルが応対するその男はダイと目を合わせて同時に呻く。
『あ』
 自分の背後からひょいと顔を出したアルヴィナも、口元を押さえて驚きの声を上げた。
「あら。あなたさっきの」
 先客は、ロウエンを追いかけていた、あの砂色の髪の男である。
 年は三十路前後。瞳の色は灰色で、肌はよく日に焼けた赤褐色。別大陸から来たと思しき風貌の、大柄な体躯の男だった。
 男は、笑みに白い歯を見せる。
「さっきは悪かったなぁ坊主。睨みつけちまって」
「いえ、気にしてないですから」
 ダイは店の中を進んで男に並び、ミゲルを仰ぎ見た。
「眠たそうですねぇ」
「本当に。夜に店閉めて朝開けようかしらと考えているところだわさ」
 疲れた様相の店主は卓に頬杖を突いて、盛大にため息をつく。こちらとアルヴィナに挨拶をする気力もないほど、疲弊しているらしい。
「なんでさっきロウエンを追いかけてたんですか?」
 ダイの問いに男は即答した。
「話し合いの最中で奴が逃げちまったからだよ」
「話し合い?」
「俺の雇い主との、な。俺だって野郎と追いかけっこなんてしたくなかったが、やつが体力ないもんでなぁ」
「体力なくて悪かったな」
 不機嫌そうな男の声が、会話に割り込んでくる。
 どこか聞き覚えのある声だが、判然としない。ダイは首を傾げながら声の方向に顔を向けた。
 ミゲルの背後、店舗の奥から濡れた布を手に、少年が現れる。
「僕だって不本意だよ」
 苦い表情を浮かべる少年に、男はにやりと口角を吊り上げた。
「ぼっちゃん育ちにはきつかったか」
「ぼっちゃんって呼ぶのやめろといってるだろ!?」
「……あのぅ?」
 話が、全く見えない。
 困惑に立ち尽くすダイの背後から、アルヴィナが口を挟んだ。
「あら、そこの子。さっきのロウエンさんのご家族?」
「え?」
 アルヴィナの指摘に、ダイは改めて少年を観察した。一見したところ十代半ば。黒髪黒目の、東大陸の民の面差しをした――言われてみれば確かに、ロウエンとよく似ている。
「よくわかったなぁ」
 灰色の目の男が腰に手をあて、感嘆の声を上げる。
「人の顔を覚えるのは得意なの」
 アルヴィナは笑ってそう言うが、実際に判別に用いたのは顔ではなく、内在魔力なのだろう。
「紹介するわ、ダイ、アルヴィナ」
 ミゲルが頬杖を突いたまま、空いている手で見慣れぬ男二人を指し示した。
「そっちの大柄な男がダダン。そしてあっちがロウエンの弟のカイト」
 灰色の目の男が軽く手を挙げ、ロウエンの弟として紹介された少年が、小さく会釈する。
 ミゲルは続けてこちらに指を向けた。
「ダダン、カイト。あっちがアルヴィナ。そっちがダイ。二人とも、うちの客」
 紹介を受け、ダイはぺこりと頭を下げた。
「で、なんでロウエン追っかけてたんですか?」
 切羽詰った様子の知己を思い返して尋ねる。ロウエンが残した『依頼』についても気になるところだが、まず彼の状況を知る方が先決だろう。
「そもそも、私ロウエンに弟さんがいること初めて知りました」
 彼がこの街に居つくようになったのはダイの母親が亡くなった直後だったから、もう五年になる。その間に彼から家族の話を耳にしたことは一度もない。
「お互い身辺のことは尋ねない約束だしねぇ。こっちもカイトが訪ねてきて初めて知ったんだわさ」
「……東大陸から来られたんですか?」
「そうだ」
 カイトがあっさり頷き、ダイは唖然となった。本当に彼は兄を探してわざわざ東大陸からこの西大陸の辺境までやって来たらしい。
 花街には東大陸からの客も来る。大抵は彼の大陸でも西に位置するマジェーエンナからの商人だ。旅慣れている彼らでさえ、隔たる距離の長さには閉口しているというのに。
「一体、彼に何の用事で?」
 そんな距離を越えてきたというのか。
 ダイの問いに、カイトが神妙な表情を浮かべた。
「連れ戻しに来たんだ」
「……ロウエンを?」
「そう。兄を」
「……どちらに?」
「僕らの家に決まってる! 両親も妹も待っているんだ、兄の帰りを!」
 興奮気味に彼は拳を握って主張する。
「もしかして、家出人、だった?」
 身寄りのない流浪人かと思っていたのに、あの医者の男にはどうやらきちんとした家族があったらしい。
「あー、俺に説明させてくれ」
 自分とカイトの間に、頭をばりばり掻きながらダダンが割って入ってきた。
「この兄大好きな坊ちゃんは感情的すぎて誤解を与えそうだ」
「何も嘘は言ってないだろ!」
「はいはい黙ってろ」
 ぐ、とカイトの頭を押さえつけ、軽くダダンは咳払いする。
「坊主……名前、ダイだっけ? お前さんはロウエンと知り合いなのか? さっき街中でもしゃべってたみたいだが」
「友人です」
 知人、で片付けてしまうには近い付き合いをしている。
「最近あまり顔見てなかったですけど」
「そっちのねーさんは?」
「私は無関係ねぇ。通りすがりだと思ってくれて結構よ」
「わかった」
 状況を把握した男は一つ頷いてみせて、話を切り出した。
「さっきも紹介してもらったが、自分でも名乗らせてくれ。このカイトに護衛を兼ねた案内人として雇われている」
「案内人?」
「東大陸からデルリゲイリアまでの付き添いだな。けど途中色々あって、こいつの代わりにこいつの兄貴を探してやることになった。なにせ坊ちゃん育ちのこいつが自力で兄貴を見つけ出すなんて夢のまた夢っぽかったしな。金ぼったくられて路頭に迷うが落ちだ」
「煩い!」
 ダダンの手をどうにか除けようと奮闘しつつカイトが叫ぶ。完璧にいいようにあしらわれている少年に、ダイは心底同情した。
「弟さんがおぼ……育ちがいいっていうことは、もちろんロウエンさんも?」
 アルヴィナの推測に、ダダンは肯定を示した。
「あぁ。カイトの家は東大陸の国の、下級とはいえ貴族の家だ。ロウエンはそこの長子に当たる」
「……き、ぞくだったんですか? ロウエン」
「こっちも驚いたんだわさ」
 はぁ、と嘆息を零してミゲルが呻いた。
「ホント、知り合いの素性なんてききたかぁないわぁね。妙に物腰柔らかいとは思ってたけど、あれは育ちのよさから来てたんだわさ」
「……貴族っていっても、そんなに育ちがいいわけじゃない。生活が楽になったのも、ここ五、六年の話だ」
 ダダンの手からようやく逃れ、カイトが前に進み出ながら低く呻いた。
「僕らの国は長い間、混迷してたんだ。下級貴族なんて名ばかりさ。武官じゃなくて文士の一族だったから、なおさら軽んじられて……。皇帝陛下が代替わりされて、十年過ぎて、ようやっとだ。僕らが貴族を名乗っても恥じない生活になりえたのは」
「と、カイトが言ってる通り、こいつの国はその筋じゃ結構有名な国でな。近年は目覚しい発展を遂げているが、いつ倒れてもおかしくないっつう状態がずっと続いてた。目にした奴は揃って口を閉ざしたくなるぐらい、ひでぇ有様の国だった」
 言葉を一度区切り、ダダンは懐から取り出した巻煙草を口に咥えた。
「ロウエンが家を出たのも、その状況を苦にしてっつうよりも家を助けるためだ。知り合った他国の医者に師事し、国の外で学びながら金を稼いで、物資を家に仕送りしてたんだと」
「でも、もうそんなことする必要はないって、僕は言いに来たんだ。国も落ち着いたし、父も母も兄を待ってる。だから帰ろうって。……なのに」
「帰りたくないって、ロウエンさんは逃げたのねぇ?」
 アルヴィナの問いに、ダダンとカイトは揃って頷いた。
 煙草に火を移し、燐寸を軽く振りながらダダンは言う。
「来てくれて嬉しい。いつかは帰る。だがまだ帰ることはできない。……ロウエンの煮え切らん態度に、この短気なお坊ちゃんが噛み付いちまったわけだな」
「噛み付いたってなんだよ! 人を犬みたいに!」
「だってそうだろ? お前が感情むき出しにするから、ロウエンは逃げたんじゃねぇか。二十歳にもなってお前もう少し落ち着けよ」
「……二十歳なんですか?」
「……なんだよ。それがどうかしたのか?」
 カイトに睨み据えられ、ダイは激しく首を左右に振った。まさか自分と同じ年ぐらいではないかと予想していたとはとても言えない。
 威嚇する犬を連想させる彼の横で、ダダンが豪快に笑う。
「がははは、ま、東大陸のやつらはみんな童顔だよなぁ!」
「そういうダイも十五なんだわ」
 面白そうに横槍を入れたミゲルを、ダダンとカイトが同時に振り返る。彼らは呼吸ぴったりに声を揃えた。
『嘘だろ!?』
 予想していた反応ではある。
 冗談だろ、あれで、などとひそひそ会話する男達を眺めながら、嘆息を零す気にもなれないダイの頭を、アルヴィナがよしよしと撫でた。
「ダイはちゃんと大人だからね」
「アルヴィー。頭撫でながら言ってくれても、全然説得力ないです」
「この坊ちゃんよりも落ち着いて見えるのは確かだな」
 ダダンもよせばいいのに、カイトをさらに煽り立てる。
「だから坊ちゃんはよせ坊ちゃんは!」
「ま、そういうわけだ」
 カイトを一通りからかって満足したらしい。煙草を燻らせながらダダンは笑った。
「俺たちはしばらくここに厄介になってるから、ロウエンは当分こっちには顔を出さねぇだろう。だがあんたらの前には、現れるかも知れない。……さっきみたいにな」
 そう言って灰色の目を細める男に、ダイは背中を粟立てて反射的に身を引いた。別に睨み据えられたわけでも威嚇されたわけでもない。
 ただ、街中で見た、男の鋭い眼光を思い出した。
「俺だってこの坊ちゃんと連れ立って、はるばるこっちまで引き返してきたんだ。カイト抜きでいいから、少しは話ぐらいさせてくれやって、伝えておいてくれよ」
 紫煙を円形に吐き出し、情報屋の男は人懐こく白い歯を見せた。
「もし、やつを見かけたらでいいからよ」


 不足していたものをミゲルの店で仕入れ、アルヴィナと別れる。また近々ね、と笑う彼女に手を振る間も、ダイは気もそぞろであった。
 医者が残した一つの依頼、否、予言が、いつまでもダイの頭の中を廻り続けていた。
『ガートルード家が、化粧を依頼するだろう』
 ロウエンはどうして、そのようなことを知っているのだ。そもそも、どのようにしてダイがミズウィーリ家の化粧師であると知りえたのか。
 友人の身に、一体何が起こっているのかさっぱりである。
 ただ明白なことは、どうやら自分はそれに巻き込まれかけているらしい、ということだった。嫌な予感がひしひしとしている。
 もやもやとした気分を抱えミズウィーリ家に帰宅する。辻馬車を降り、通用門を通って広い裏庭を抜け、別館に入る。
 せっかくの休暇を暗澹とした気分で終えたダイは自室へと歩いている途中、侍女の一人に引きとめられた。
「ダイ」
「あ、メイベル、ただいまです」
「えぇ……」
 ダイの挨拶に曖昧に返事を寄越し、ひどく落ち着かない様子で彼女は駆け寄ってきた。
「帰ってきて早々大変だけど、すぐに着替えて応接間へ行って。至急よ」
「……どうかしたんですか?」
 まさか、と脳裏を過ぎった予感を打ち消して平静を装うダイに、同僚は神妙に一大事を告げる。
「ガートルード家からあなたに遣いが来てるのよ。化粧をしてほしいって」
 ロウエンの予言が当たったことに眩暈を覚え、ダイは思わずその場に倒れたくなった。


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