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第六章 集会する偽装者 4


「貴女、どちらのおうちの方?」
 扇で口元を覆った婦人の一人が、前に進み出て問いかけてくる。
「ミズウィーリ家ですけれど」
 従っている家について尋ねられたのかと思ったが、問いの意味を取り違えていたらしい。ダイの返答に、失笑が響いた。
「あら、マリアージュ様にこのように愛らしい妹君などいらっしゃったかしら?」
 彼女たちが尋ねているのは、出自の方だ。
 しかし市井の出であるダイに、家名など答えられるはずがない。黙りこくっていると、今度は男が歩み出た。
「まぁまぁ、愛らしい方が怯えてしまっているではありませんか」
 一見ダイを庇うようにして見下ろしてくる男の目は、花街の客を思い起こさせる。人を値踏みするようなその視線にダイは閉口した。
 最初に声を掛けてきた二人に続き、皆が次々と話し掛けてくる。柔らかな――しかし相手を徹底的に拒絶した声音で。彼らが口にするのは挨拶や誰何、踊りの誘い、あとは容姿に対する美辞麗句。しかしそのどれもダイの意識に留まらなかった。
 恐怖を、覚える。
 着飾ったご婦人方から漂う香水の匂いにもむせ返りそうだったし、何より皆が一様に浮かべる、揃いで誂えた仮面のような笑顔が恐ろしかった。
 軽く結われた髢に誰かの手が触れる。刹那、ダイは肌という肌が粟立っていくのを感じた。
 動くな、といわれていたのに。
 もう駄目だった。
(ごめんなさいマリア様!)
 人の足元をすり抜け全力でその場を駆け出しながら、ダイは胸中でマリアージュに詫びた。背後から飛んでくる静止の声。それに混じり、失礼だの、さすがミズウィーリ家の、だのといった、悪意の言葉が響いてくる。腹立たしいことこの上ないが、引き返して言い返す余力をダイは持たなかった。
 会場を飛び出し、廊下を駆ける。マリアージュが戻るのを待つべきだったというのに逃げ出してしまったのは、酒のせいで理性が揺らぎやすかったせいもあるかもしれない。が、飲酒していなかったとしても逃亡していただろう。それほど、身体を蝕む嫌悪感に耐えられなかった。
 慣れぬ靴と衣服に足が縺れる。息が切れる。当初は控えの間に戻ろうとしたのだが、貴族の子女と鉢合わせする都度、悲鳴を上げそうになって道を変えているうちに、自分の所在地がわからなくなっていた。
 来た道を引き返し、見覚えのある場所を探すが――完璧に、迷子である。
 これ以上動いたとしても、さらに迷ってしまいそうなことはわかりきっている。誰かが通り過ぎるのを期待し、しばらくその場に留まる。が、待てども待てども、人が来るような気配は微塵も感じられなかった。
(駄目だ、じっとしてても拉致があかない)
 中庭に続くと思しき玻璃の扉が目に留まり、ダイはそこから廊下を出ることにした。外から見れば多少なりとも自分の位置を把握できるかと思ったし、警備しているはずの兵に会えるかと思ったのだ。しかし闇夜に沈んだ濃い緑の中に動く影はなく、ダイは失望に下唇を噛み締めた。
 連想したのはマリアージュの怒り狂った顔と、送り出してくれたティティアンナの心配そうな顔。
 戻らなくてはならない。けれど、戻る道が、わからない。恐怖に流されマリアージュから離れた、その自らの短慮を悔いる。
 ダイは先ほど通った扉が見える距離内で、腰を下ろせる場所を探した。茶会の席にもなるのだという、開放感溢れる広い庭。太陽の下で散策すればさぞや気持ちよかろう。しかし今その広さは、ダイの心細さを増長するものでしかない。
 ようやっと見つけた長椅子に腰を下ろした頃には、頭はすっかり冴えていた。
 膝を抱えながら、嘆息を零す。
 目を伏せて、思った。
 マリアージュもヒースも、あんな世界で戦っているのだ。
 マリアージュが気持ち悪いと連呼する意味がよくわかった。笑顔に覆い隠された悪意は見るに堪えない。生理的な嫌悪感をダイに催させる。
 来たくなかったと思う一方で、来てよかったのだ、と自分を奮い立たせる声が胸の内から響いてくる。来なければ、見なければ、わからなかった。ミズウィーリ家から見えるものだけが貴族社会の全てではない。
 マリアージュが女王として選ばれる。それがヒースの言ほど容易くないことも、それを為そうとしている彼の大変さも、マリアージュが己をあれほど過小評価する理由も、彼女が行きたくないと駄々を捏ねる意味も。
 嘆息したダイの耳に、ふと、葉擦れの音が響いた。
 続く、土を踏み分ける気配。
 警備か、と期待に腰を浮かせたダイは、現れた影に息を詰める。
 姿を見せたのは、警備の為の兵ではない。
 毛皮で縁取られた外套を身につけた、若い娘だった。
「あら?」
 鈴のような声を上げ、娘が首を傾げる。
 明らかに貴族の令嬢だ。ダイは絶望的な気分になりながら、椅子の上で身を引いた。逃げ出してきた手前、今しばらくは貴族の娘と係わり合いになりたくない。もうあのような侮蔑の視線を受けるのは真っ平である。
「どうなさったの?」
 しかしダイの予想に反し、影が紡いだ声音はひどく柔らかいものだった。
「こちらは今立ち入ってはならないのですよ」
 忠告だが、咎めている響きはない。鈴を転がしたような声は聞き惚れてしまうほどに耳に優しく、労わりに満ちている。
 歩み寄ってくるにつれて顕になる彼女の顔立ちもまた、美しいものだった。
 マリアージュと同じ年頃だろうか。大人びた容貌の中に、あどけなさが僅かに残る。すっと通った鼻梁に、形よい薄い唇。金の髪は眩く夜闇を押しのけ、紺碧の双眸が嵌る目元は涼しげだ。
「アリシュエル、様?」
 ある種の確信を込めたダイの問いかけに、娘は微笑んで応じた。
「えぇ。どこかでお会いしたかしら?」
「いえ。初めて、です」
 答えながら、目を閉じる。
 娘は美しい。だが容貌だけに限れば、それは花街でも見かける程度のものである。
 アリシュエルと他者を隔てているもの。それは空気だった。一度も目にしたことのないダイですら彼女であると看破できてしまうほどの、異なる雰囲気。それは例えば月光や晴れ渡った空といった、何か超越したものを連想させる。マリアージュが妬む気持ちも、よくわかる。圧倒的だ。苦い敗北感を味わってしまうほどだった。
 誰もが次期女王として疑わず、家柄、人柄、姿かたち、全てにおいて申し分ないと噂する、女王候補者。
 あぁ。
 このひとが。
 アリシュエル・ガートルードなのだ――……。
「どうなさいました? 気分が?」
 怪訝そうな面持ちで、アリシュエルがダイの額に手を伸ばす。走り回ったせいで滲んでいたこちらの汗を、彼女は滑らかな指先で拭っていく。体調不良からくる冷や汗と勘違いしたのかもしれない。ダイは首を横に振り、彼女の指を遠慮した。
「いえ。あの、大丈夫です。すみません……道に、迷ってしまって」
「あぁ、そうなのですか」
 状況を理解した様子の彼女は、ダイの手を取って微笑んだ。
「参りましょう。どちらのおうちの方かしら。たった一人で心細かったでしょう?」
 そのようにしてダイを先導する彼女は、あまりにも気安い。こちらを子供だと思っているのかもしれないということを差し引いても、優しかった。
 屋敷の中へと戻り、アリシュエルは玻璃の扉を閉じた。
「送りましょう。これからどちらへ?」
 彼女の質問に、ダイは口ごもった。
 素直にミズウィーリ家の控え室へ、と答えたいところだが、果たしてそうしてよいものか。案内を買って出たのは他でもないマリアージュの天敵、アリシュエル・ガートルードなのである。先ほど晩餐会の会場でメリアとクリステル、二人の女王候補が敵対していたことを考えれば、アリシュエルがマリアージュを競争相手として疎ましく思っていることも十分に考えられる。ミズウィーリ家縁(ゆかり)の人間であることを明かせば、アリシュエルがダイを放り出すこともありえた。
 そういったことを鑑みれば、晩餐会が催されるあの広間を目的地として告げるべきだ。しかし、戻りたくなかった。どうしても。あの場所にもう一度立てる自信がなかった。
 アリシュエルはダイの返答を微笑して待っている。威圧感や嘲りといったものは、微塵も感じられない。
 観念し、ダイは恐々と正直に答えた。
「えぇっと……ミズウィーリ家の、控えの部屋に、行きたいのですが」
 アリシュエルが、はっと息を呑む。
 予想内の反応。手を振り払われることを覚悟し、身構える。
 だが次の瞬間、彼女は親愛ともとれる色を顔に浮かべ、ダイの手を引いてゆっくり廊下を歩き始めた。
「そう、貴女、マリアージュのお付の方?」
 マリアージュの名を、アリシュエルが親しみを込めて呼ぶ。意外な展開に、ダイは及び腰になりつつ頷いた。
「そう、ですね」
「……マリアージュはどうしたの?」
「はぐれてしまったんです。動くなって言われたのに、私が動いてしまったから」
「あら、それじゃぁマリアージュは心配しているでしょうね」
「……そう思いますか?」
「えぇ。人一倍、優しい人でしょう? 彼女は」
 口元を手で覆い、アリシュエルはくすくすと笑いを漏らす。世辞ではない、心からの発言だった。
 ぽかんとアリシュエルを見上げてしまったこちらに、彼女は小首を傾げる。
「あら、優しくない?」
「いえ。や、優しいです。マリアージュ様は」
 少なくとも落ち込んでいるダイを、遠回しに慰めてくることはある。非常にわかりにくい優しさだが。
「でしょう」
 どこか誇らしげな様子で、アリシュエルは言った。
「同じ女王候補の中でも、私あの人が一番好きなんですよ」
「どうしてですか?」
 ダイは反射的に尋ねていた。意外過ぎたのだ。アリシュエルがマリアージュを好いているなどと。好かれているマリアージュに至っては、彼女をあれほど倦厭しているというのに。
 アリシュエルが、ふいに足を止める。怪訝に思って、ダイは彼女を仰ぎ見た。
 アリシュエルの表情は、僅かに曇っている。
 その端整な顔に、己を嘲っているかのようにも見える、儚げな微笑が浮かんでいた。
 ダイの問いに、彼女は答えた。
「あのひとは――……わたくしとちがって、にんげんだから」
 焦がれるような、響き。
 それはマリアージュがアリシュエルの美しさを口にする時のものと同じだった。ダイは驚いた。マリアージュと異なり、アリシュエルは何もかもを手中に納めている。あとは女王の座だけという娘が何故、羨望の眼差しで彼女のことを語ったりするのか。
 ダイが当惑している間に、アリシュエルは誰かを見つけたらしい。面を上げ、彼女は表情を綻ばせる。
「リヴォート様」
 耳に飛び込んだ親しい名前に、ダイは思考を中断した。慌ててアリシュエルの視線の先を探すと、こちらへ歩み寄ってくる男の姿がある。
 ヒースだ。
「ヒース!」
 喜びに思わずその場を駆け出し、ダイは彼の腰に飛びついた。あぁ、よかった。ダイはヒースの衣服を強く握り締め、安堵に泣きたくなった。
 子供だと笑われてもいい。押し込めていた心細さが噴出して、彼に縋らずにはいられなかったのだ。
「ご機嫌麗しく存じます、アリシュエル様。……あの、これは?」
「マリアージュ様と逸れて道に迷われていたそうです」
 ふふ、と笑って、アリシュエルがヒースの問いに応じる。
「よかった。貴方とお会いできて。ちゃんと連れて帰ってあげてくださいね」
「え、えぇ……」
「それでは、失礼いたします」
「あ」
 その場を辞するアリシュエルを、ダイはヒースから離れて振り返った。
「ありがとうございました」
 ダイの謝辞に足を止めた女王候補者の娘は、柔らかく笑って言った。
「どういたしまして。またいつか、お会いいたしましょう」
 外套の裾をふわりと翻し、存在感を残像のように残しながら、アリシュエルは廊下の向こうへと消えていく。
 その足音が完璧に消えるのを待って、ヒースはダイを冷ややかに見下ろした。
「誰なんですか? 貴女」
 いまだかつて向けられたことのない警戒心むき出しの声音に、ダイは慌てた。彼の衣服を再度握り、自らを指差して訴える。
「ヒース、わからないんですか? 私ですよ!」
 胡乱な目をダイに向けて言葉の意味を図っていた彼は、やがてひどく混乱した様子で後ずさった。
「ダ、ダイ!? な、何やってるんですか貴方は!? というか、なんなんですかその格好は!?!?」
 わかってもらえたことに胸を撫で下ろしつつ、ダイは苦笑する。
「そ、それには色々と長い話が……」
「あ、あぁ、え、あぁ……ちょっと待ってください。本当に、ダイ?」
「この後に及んでなんで疑うんですか?」
「いえ、ですけれどね。あぁ……驚いた。別人に見えますよ。どこの令嬢かと思った」
 左胸に手を当て、はぁ、と細い息を吐く彼の顔色は蒼白だ。本当に驚いたらしい。ここまで彼が狼狽するというのも珍しいことだった。
 まじまじとダイの姿を観察した彼は、天井を仰いで一言。
「マリアージュ様ですか?」
 ダイは頷いた。
「えぇ、マリアージュ様です」
 一拍置いて、ヒースは二度目の嘆息。
「詳しい話は部屋で……いえ、屋敷に帰ってからがいいんでしょうかね。とにかく、後で聞きます。今は控えの部屋に戻りましょう」
「はい」
 こっちです、と先導するヒースに、ダイは大きく頷いた。ようやく元の場所へ戻れる喜びに胸躍らせながら、一歩を踏み出す。
 が、その瞬間、踵を鋭い痛みが襲った。
 不意を衝かれ、着地の瞬間に足を捻る。
「わ!」
 一瞬、転倒するかに思え、ダイは悲鳴じみた呻きを上げた。来る衝撃に身構え、硬く目を閉じる。
 しかしいつまで経っても、それは訪れなかった。
「え……」
 気が付いた時にはヒースに腕を掴まれ、傾いだ体勢で宙吊りになっていた。彼に支えられながら両足を床に着けて初めて、横転を免れたことを悟る。
 安堵に微笑み、ダイはヒースを仰いだ。
「ありがとうございます」
「いいえ」
 構わない、と頭を振って、彼は尋ねてくる。
「どうしたんですか? 一体」
「足が急に痛くなって」
「足? どこですか?」
「踵」
 嘆息した彼はその場に膝を突き、ダイの足元を覗き込んだ。踵の辺りをしげしげと眺め、あぁ、と呻く。
「靴擦れですね」
「履き慣れないものを履いてるから?」
「でしょうね」
 肯定するヒースを見下ろしながら、無理もない話だとダイは思った。どこから調達したのか知れない真新しい靴を履いて、存分に走り回ったのである。靴擦れの一つ、出来ぬほうがおかしいというものだろう。
「戻ったらとりあえず手当てを――……」
 そう言いながら顔を起こしたヒースが、ふいに凍り付く。
 唇も半開きのまま。どこか呆然とした表情の彼に、ダイは訝りから瞬いた。
「ヒース?」
 どうしたのか、と尋ねる。
 我に返ったらしいヒースの顔は酷く渋い。本当に何があったのかと首を傾げるこちらを余所に彼は立ち上がり、何でもないと首を横に振った。
「この足じゃ一人で歩くのは辛いでしょう。支えますから、ゆっくり歩いてください」
「支える? どうやって?」
「手を」
 指示通りに差し出したダイの手を、ヒースは左腕の間に潜らせた。
「ちゃんと、腕を持っていてください」
 続けて彼は、己の二の腕を指し示す。
「わかりました」
 素直に頷き、ダイは彼の腕にしっかり自分の手を添わせた。腕を組んだ状態。なるほど、これならただ手を引かれるより、転倒する確率は低いだろう。
「歩くのはゆっくりでいい。歩幅は合わせます」
「はい」
「あと、あまりくっつかないように」
「は……は?」
 どこか苦さを含む青年の声に、首を傾げる。しかし歩きにくいからかと納得して、ダイは彼から僅かに距離を取ったのだった。


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