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第五章 錯綜する使用人 1


「三日!?」
「それが何か?」
 侍女頭ローラ・ハンティンドンは、何をそんなに驚いているのかと言わんばかりの表情である。ダイは頭を振り、何でもありませんと呻いた。ヒースがそ知らぬ顔をしているのだ。自分が騒ぎ立てるわけにはいくまい。
 だが、驚きたくもなる。
 賊に襲われ、奇妙な魔術師の世話になるという濃密な一日を過ごした翌朝、ミゲルの店で目覚めたダイはヒースの提案に従って辻馬車を拾い、彼と共にミズウィーリ家に戻ったのである。案の定、予定の時間になっても帰宅しなかった自分たちの行方を追って、屋敷はてんやわんやの様相を呈していた。
 賊に襲われたのだという事情を、ミズウィーリ家の使用人は既に聞き知っていた。どうやら隣町へ移動する途中だった商隊が、事態を目撃していたらしい。自分たちを追いかけて賊が姿を消した後、商隊は馬車と殺された御者の遺体を城壁の門まで送り届けてくれたのだ。すぐに捜索隊が荒野に向けて放たれたが、結局はダイたちの姿を見つけること叶わず――三日が、経過しているとの、ことだった。
 アルヴィナの家で過ごした時間は、たった一晩だったにも、関らずである。
「一体どこにいらっしゃったのですか?」
 三日間の間に溜め込んだ疲労を吐き出すようにしてローラが問う。応じたのは、ダイの傍らに立つヒースだった。
「荒野ですよ。城下に着いたのは今日の夜明け前です。ほとんど歩き通しでした」
 嘘を吐くヒースは平然としている。ダイは口を噤んだ。彼の足手まといにならぬよう出来ることといえば、嘘が顔に出ないように注意を払うことぐらいである。
「服は?」
「城壁の衛兵の方々が貸してくださいました。あまりにひどい身なりだといって」
 もともと着ていた衣服は、ミゲルの店に置き去りにしてある。アルヴィナによって洗濯が為され清潔なそれは、荒野を彷徨っていたというには不自然過ぎるものだったからだ。
「……わかりました」
 ヒースへの質疑応答を打ち切ったローラが、ダイのほうへと向き直る。彼女の冷めた目に、知れず身体が強張った。
「ダイ」
「はい」
 直立しながら、ダイは応じた。
「疲れているとは思いますが、今日の午餐のためにマリアージュ様がお待ちです。着替えを済ませたら道具を持ってお行きなさい。それだけして、今日は休みなさい。明日からまたいつも通り仕事をするように」
 ローラの灰褐色の瞳に感情の色はない。口調も平坦で、同じ職場の人間が賊に襲われてもなお無事に帰宅したということへの安堵も何もみられない。ダイに指示を出すローラの態度は、あくまで事務的だった。
 無言で退室を促され、ダイは上目遣いにヒースの様子を窺う。ダイの視線に気がついたらしい彼は口元を僅かに微笑で彩ったものの、すぐに厳しい表情を浮かべてローラに向き直ってしまう。これから彼は、留守にしていた三日間の仕事を取り戻すために奔走するのだろう。
 誰も注意を払っていないと知りつつも、ダイは丁寧に一礼した。空白の期間に起こった出来事を確認しあうヒース達二人を部屋に残して、廊下へ出る。
「ダイ!」
 部屋の扉から少し離れた位置で、見慣れた顔がダイを迎えた。ティティアンナである。
「ティティ」
 飛び跳ね手を振ってこちらを迎えてくれる年上の同僚に、ダイは駆け寄った。
「あぁよかった。盗賊に襲われたって聞いたときは、心臓止まるかと思ったわよ」
 感極まった様子で抱擁してくるティティアンナに、思わず顔を赤くする。まさか抱き寄せられるとは思っていなかった。
「あ、ありがとうございます。どうにか無事で……ティティ?」
 ダイの身体を抱きこんだまま、彼女はぺたぺたと背中を触ってくる。うーんと唸る彼女から身体を離し、ダイは尋ねた。
「どうしたんですか?」
「……ダイって、身体本当に細っこいのねぇ」
 腰に手を当てダイを見下ろしたティティアンナが、しみじみと呟く。はぁ、とダイが生返事で応じると、彼女は労わりの篭った微笑を向けてきた。
「お腹空いたでしょう。朝の麦粥(ポリッジ)、残してあるからね」
「ありがとうございます」
 行きましょう、と促され、ダイは頷いて住まいである別館へ彼女と並んで歩き始めた。
「ハンティンドンさんに今日の予定は聞いた?」
 ティティアンナの問いに、ダイは頷いた。
「マリアージュ様、午餐に呼ばれてるんですね。道具を持って支度手伝うようにっていわれました」
「えぇ。今日はベツレイム家のお屋敷だから、マリア様も殊更ぴりぴりしていらっしゃる。でも物を投げてきたりはしないのよね。大人しいのよ。あれから」
 含みを持たせたティティアンナの笑いに、ダイは渋面になった。彼女が何を示しているのかは明白だ。ダイがマリアージュに喧嘩を吹っかけた、あの時のことだ。
「口では言わないけれど、貴方たちが居なくなって、まだ戻らないのかってずっと仰っていたわよ。心配ですかって訊くといいえって答えられていたけれど、素直じゃないわねぇ、マリアージュ様」
「……はぁ」
「でも大変だったわぁ。マリア様は大人しかったけれど、リヴォート様が居なくなって、これから家はどうなるんだって大騒ぎだった。旦那様が昔、賊に誘拐されたときだってこんなものじゃなかったわ」
 館はひっくり返ったような有様だったと、ティティアンナは言った。
「戻ってきてくださってよかったわ。……ダイ、もちろん貴方もね」
 忘れてないわよ、と片方の目を瞑ってみせる彼女に、ダイは笑いながら頷いた。わかっている、と。
 ヒースの力で持ち堪えているこの家の者が、彼の安否を優先して心配するのは当然のことである。だからこそ、ティティアンナの気の遣い方がひどく嬉しかった。
 別館にあるダイの部屋の前で、麦粥を取ってくると述べたティティアンナと一度別れる。彼女の背を見送り、ダイは自室の扉を開いた。
 主不在であった部屋の空気は淀んでいる。ダイは荷物を寝台の上に置いて遮光布を開き、窓を開けた。風が通り、埃が揺らぐ。
 昼の光が差し込んで初めて、ダイは寝台の傍に置かれた木箱に気が付いた。
(……ミゲルの店からの)
 購入した仕事道具の詰まった木箱。
 賊に襲われて、駄目になってしまったのだと思っていた。しかしここにあるということは、商隊が馬車を引き戻した際に無事回収され、届けられたということだろう。
 ふと、違和感を覚える。
 何か、些細な、しかし決定的な違和感を。
 ダイは木箱の傍らに膝を突き、蓋を開けた。中に詰められていた品々は、ミゲルの店で購入したものに間違いない。
 木箱の縁に手をかけたまま首を傾げる。
 一体、この得体の知れない違和感は何なのだろう。
「ダイ」
 呼びかけに、ダイは振り向いた。
 開け放たれたままだった扉を軽く叩いて、ティティアンナが己の帰還を主張している。戸口に佇む彼女の表情の暗さに、立ち上がったダイは思わず瞬いた。
「……どうかしたんですか?」
 ティティアンナは、麦粥を取ってくると言って自分と別れたはずだ。しかし彼女はその手に何も持っていなかった。一瞬、彼女が取り置いてくれていた分がなくなってしまっていたのかと勘ぐったが、それにしては彼女の表情が深刻過ぎる。彼女は鳶色の瞳をこれ以上ないほどに曇らせ、眉根をきつく寄せていた。豪胆なところのある彼女が、ここまで渋面になることも珍しい。
「ティティ?」
「ダイ、朝御飯は後。今すぐ着替えて、マリア様のお部屋に行くわよ」
「……マリアージュ様が、何か?」
 ダイの問いに、ティティアンナが神妙に頷いた。
「部屋から、出てこようとしないらしいのよ」


 着替えを手早く済ませ、ティティアンナと共にマリアージュの部屋へと急ぐ。ダイが辿り着くと、複数人の侍女と執事、そして警備の兵が、扉の前で屯(たむろ)していた。
 侍女の一人は扉を叩きながら、部屋の主に向けて声を張り上げている。
「マリア様! マリアージュ様!」
 不安顔でひそひそと言葉を交し合う使用人たちの姿は、ダイが初めてこの地に足を踏み入れた日を彷彿とさせた。あの時も屋敷に到着して早々、癇癪を起こす彼女の下へと急いだのだ。
「ヒナ。マリア様は?」
 ダイを先導していたティティアンナが、扉を叩いていた侍女に尋ねる。振り返った彼女はティティアンナとダイの姿を認めて扉からやや距離を取ると、顔の横で力なく手を振った。
「全然駄目。鍵掛かってるのよ。メイベルがリヴォート様とダイが戻ったことを報告して、給仕終えて退室したら、ばたんよ。気配はあるから、そこにいらっしゃるのはわかるんだけど。今リースがハンティンドンさん呼びに行ってるところ」
「理由は?」
「そりゃぁ……ねぇ」
 ヒナの視線がダイに注がれる。彼女のものだけではない。その場で事を見守る一同のそれら全てに一斉に身体を貫かれ、不快感に身じろぎする。
 ダイは嘆息し、ヒナとティティアンナの間をすり抜けた。ヒナに代わって閉め切られた扉を軽く叩く。
「すみません。ダイです。戻りました」
 返事はない。
 しかしヒナの言う通り、すぐ傍に人の気配がある。
 扉越しの、密やかな少女の吐息。
 ダイは再度息を零して、言葉を続けた。
「えぇっと……午餐の会の準備に、みんな集まってます。マリアージュ様、出てこられないと、みんな困ってしまいます」
 何を言い出すのだと、事を見守っていた使用人の一人が蒼白な顔でダイを睨む。もう少し、彼女の安否を気遣うような言葉を掛けろという意味だろうが、そ知らぬ顔でダイは扉に向き直った。
「午餐に出席したくないなら、そう仰っていただければ、熱が出たとか、風邪を引いたとか、理由をつけて休めると思います……多分」
 集まっている使用人たちの中に執事長のキリムと主治医のロドヴィコを見つけ、彼らを一瞥する。ダイの発言にキリムは僅かに眉をひそめ、ロドヴィコは苦笑しながら禿げた頭を撫でただけだった。
「マリアージュ様」
 マリアージュからの応答はない。
「……出てこられないのは、私が原因ですか?」
 午餐の準備のために顔を出す自分と会いたくないから、閉じこもっているのか。
「まぁ、それならそれで、仕方がないです。……それでしたら」
 沈黙ばかりが返ってくる扉に額を付けて、ダイは瞑目した。花街を出てから約一月強。短くも、濃密な日々。
 躊躇しなかったといえば、嘘になる。
 喉から声を絞り出すことも、一苦労だった。
 しかし決然と、ダイは言った。
「……お仕事は、辞めさせていただきます」
「ダイ!?」
 傍で響いた女の上擦った声に、ダイは背後を振り返った。同時に、伸びてきた白い手が乱暴にダイの肩を掴む。
 いつになく険しい表情のティティアンナの顔が、間近にあった。
「急に何言ってるの!」
「だって、マリアージュ様が出てこられない理由が私にあるなら、私が辞めるしかないでしょう?」
「あなたね」
「それに、私は化粧師です。マリアージュ様のお顔、触らせていただけないのなら、いる意味がありません」
 いくら侍女たちに仕事を習い雑務を手伝うとはいっても限界がある。マリアージュの顔を触らずミズウィーリ家に仕え続けていくというのなら、職を鞍替えしなければなるまい。
 しかしそれは、避けたかった。
 化粧は形こそ少し異なるものの、自分に残された、数少ない父の遺産の一つだから。
 部屋の周囲に集う使用人達を見回す。この一月で大分馴染んだとはいえ、ダイは彼らにとってまだ『余所者』だ。だからこそ、今のようにマリアージュとの間に起きた摩擦が表面化したとき、ダイを見る彼らの眼差しは嫌悪を帯びる。
 ダイはティティアンナを見上げた。ヒースに次いで自分に優しくしてくれた年嵩の侍女は、途方に暮れたような目で自分を見下ろしている。
「ティティだって、今のままだったら困るでしょう?」
 マリアージュが、閉じこもったままだったら。他家へ出向く準備のたびに、このような騒ぎを起こされるようであれば。
 困るだろう。困らぬはずがないのだ。
「ダイ」
 ティティアンナが、労わるように呼びかけてくる。ダイは微笑んだ。
「大丈夫ですよ」
 無言で立ち尽くすティティアンナを見上げながら、ダイは部屋を片付けなければなるまいと考えた。荷物はそう多くない。ダイの私物は大半を仕事道具が占める。先日ミゲルの店で仕入れたものは、他の道具と共に鞄に入れ替えてしまえばいい。あとはヒースにこの件を伝えて――この三日間の埋め合わせに忙殺されている彼の頭をさらに痛めるような話で、申し訳ないが。
 暇(いとま)を告げようと踵を返し、背後の扉に再び向き直った、その刹那。
 ばんっ!!!
 文字通り、壁に叩きつけられる勢いで開いた扉が鼻先を掠め、ダイは瞠目しながらその場に立ち尽くした。
 扉の向こうから現れたのは無論、ダイが仕える少女。
「マリアージュ様」
 陽光差し込む部屋、城の見える玻璃製の壁を背後に、マリアージュは一人挑むような眼差しで仁王立ちしている。血の気が失せるほどに強く握られた拳を腿の横に据え落とし、彼女は言った。
「誰が勝手に辞めていいなんて、いったわけ? ダイ」
 唸るような、声音だった。
 我に返って、ダイは呻く。
「ですがマリアージュ様」
「五月蝿い!」
 怒声でダイを圧倒した女王候補の少女は、続けて叫んだ。
「大体、化粧できないっていったのはあんたのほうでしょうが! 黙って聞いていれば、私のせいで顔に触れられないってどういう意味よ!?」
「え、いえ、だって」
「だってじゃないでしょ! あんたが、できないっていったのよ!! あ、ん、た、が!!!」
「……すみません」
 反論の余地もなく、畳み掛けるようにして怒声を浴びせかけられる。実際、彼女の言う通りなので二の句が継げない。
 絶句するダイに、マリアージュは矢継ぎ早に言葉を紡いだ。
「あんたね、勝手に自分のせいにして納得してんじゃないわよ。その被害者面、虫唾が走るのよ」
「ひがいしゃづら」
「自分が引き下がればどうにかなるって思ってるわけ? 私あんたのそういういい子ぶったところが大嫌い!」
 そう叫ぶマリアージュを、ダイは呆然と見つめ返す。彼女の言うような『いい子ぶった』つもりは全くない。しかしそんな風に見られるのかという衝撃のほうが先に立ち、弁明の為に口を開くことすら出来なかった。
「別にあんたのせいなんかじゃない。自惚れないで頂戴」
 鼻息荒く吐き捨てたマリアージュは、腰に手を当て目線を上げる。
「キリム!」
「はい」
 名を呼ばれた執事長が無表情のまま、野次馬の中から一歩前へと進み出た。
「お腹が痛いわ。痛くてたまらない。だから今日の予定は断って」
 一体どこの誰が腹痛に苦しんでいるというのだろうかと問いたくなる顔で、ダイの入れ知恵そのままを用いるマリアージュの命令を、キリムは眉一つ動かすことなく引き受けその場を去る。
「ダイ」
 彼の背を見送っていたダイは、すぐ傍らで響いた声に弾かれるようにして背筋を伸ばした。いつの間にか、マリアージュが間近で仁王立ちしている。萎縮するこちらを睥睨する彼女は、他を圧倒する怒りを滲ませて、ダイに命じた。
「あんたは私が辞めろというまで大人しく待ってればいいのよ……わかったわね!?」


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