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第四章 隠遁する魔術師 1


「ずいぶんと様変わりしたよ、外はね」
 久々に訪ねてきた友人は、珈琲の香りを堪能するためだろう、白い陶器を揺らしていた。ゆるゆると波紋を描く褐色の液体を満足げに見つめた彼は、薄い唇に微笑を浮かべて陶器の縁に口をつける。
「近年、加速度的に変化してくる。驚かざるを得ないね。ここにきて、何故変化が訪れるのか。その謎に、私は胸の高鳴りを覚えずにはいられない」
 朗々とした声。まるで詩でも謳っているかのようだ。
 腕を組み、部屋の壁に背を預けて友人の話に耳を傾けていた彼女は、大きく嘆息を零した。
「まぁったく、あのときの坊やが、どぉしたらこんな風になっちゃうのかしら」
「時が経てば変質するさ。精神ぐらいは。君も知っていることだろう?」
「そうね」
 同意して、再び嘆息。
「……あの子は元気なのかしらね?」
 変質、で思い出した。自分達の中でまだ若年に位置する同胞のことを。年若いうちは、精神も不安定だ。変質しやすい。
「さぁって、それは私にもわからんね」
 顎をしゃくって彼は言う。
「何せもう、長いこと会っていない」
「あら? でも貴方さっき、北に寄ったのよって言ってたじゃなぁい」
「生憎と、留守だった。彼は君とは違って、一箇所に留まっていられない質だ」
「貴方もね」
 こちらの指摘に肩をすくめた友人は、陶器の中身をゆっくり啜っていった。
 自分とは異なり、彼は旅烏(たびがらす)を決め込んでいる。外の状況を尋ねてみたいが、彼が珈琲を堪能している間にあまり口を挟みすぎると怒られてしまう。仕方なく一度、その場を離れた。
 彼の為に鶏でも焼こうか。そう思い立ち、味付け用の香草を採りに、庭へ出る。しばらくして彼女が部屋に戻ると、友人の手元の陶器はすっかり空になっていた。
「おかわりいる?」
「いや。私は失礼するとするよ」
「あらぁもう?」
 香草を置き、代わりに取り出しかけていた菓子皿を一瞥して、彼女は呻いた。
「もうちょっとゆっくりしていけばいいのに」
 何せ彼が来てから、半刻と経っていない。近況を含んだ挨拶を交わし、一杯目の珈琲を出したばかりだというのに。
「読みたい本が溜まっていてね」
「そんなの後でいいじゃなぁい?」
「そうもいかない。紙魚の餌になって跡形もなくなるまえに戻らなければ」
「薄情者。私と本、どっちが大事なの?」
「本は朽ちる。君は朽ちない」
「最低。大体、防護の術ぐらいかけて出ていきなさいよぅ」
 抗議を無視して立ち上がった友人は、上着に袖を通し帽子を被ると、さっさと背を向けた。名残惜しさのかけらもない。
「あぁそうそう」
「なぁに?」
 こつ、と踵を鳴らして転移門を開いた男は、ふと思い出したかのように振り返った。その口元には、実に意地の悪い笑み。
 彼女は、嫌な予感を覚えて軽く身構えた。
「なに、君も閉じこもってばかりで退屈だろう」
 友人は微笑んで言う。
「ちょっとした悪戯を仕掛けておいた」
「……はぁ!? 悪戯!?」
「もちろん、たいしたものではない。君に破れない魔術ではない」
「ちょ、どんな術かけたのよぉ!?」
「がんばってくれたまえ」
 ひらひらと手を振って棒読みの激励を述べた友人の身体は、光の渦に溶け込んでいく。程なくして、その姿は跡形もなく虚空に掻き消えた。読書、というからには、彼の根城に帰ったのだろうが――それにしても。
「うっ。すっごく面倒な術式組んでる」
 軽く意識を向けて、住居の内部を探ってみたところ、なるほど、確かに厄介な術が仕掛けられている。
「まったく、何だってこんな術かけるのよぉ」
 住居の一角に食い込んだ彼の術は、彼女自身がもともと仕掛けていた魔術を無効化するだけのもので、さして害あるものではない。しかし無視するわけにはいかないだろう。
 だが取り外すためには非常に労力を強いられる代物である。術式を視れば視るほど気鬱になって、彼女は地団太を踏みながら、今頃、根城で蜘蛛の巣を振り払っているだろう友人に叫んだ。
「んっもぅ……最低っ!!!」




 ごとごとと、馬車が揺れている。
 馬車の中は静かだった。時折、紙が乾いた音を立てる程度である。やがて静寂に飽きたのか、紙を捲る手を止めた男が、躊躇いがちに声を掛けてきた。
「ダイ」
 ダイは面を上げ、対面に腰掛ける男を見つめる。彼――ヒースの顔は苦笑に彩られていた。仕事の書類を脇に退け、彼は労わりに満ちた声を紡いでくる。
「そんなに落ち込まなくとも」
「落ち込みもしますよ」
 嘆息交じりに呟いて、ダイは目を伏せた。
「……あんなふうに、取り乱すだなんて」
「私は見てみたかった。貴方が啖呵を切ったところ」
「笑い事ではないんですよ」
 彼の言葉の節々には、今の状況を面白がるような響きがある。ダイは思わず口先を尖らせた。
「知っています」
 ダイの注視を受け流したヒースは、膝の上で手を組み微笑む。
「大丈夫ですよ……あれから、マリアージュ様も大人しいようですしね。今朝も、マリアージュ様に付いていたシシィが、あの方は熱でもあるのかと首を傾げていました。それに、マリアージュ様から、貴方を首にするようにとは、打診されていませんよ」
「まだ?」
 卑屈になっているダイを咎めるように、ヒースが顔を歪める。ダイは俯いて謝罪した。
「すみません」
「いいえ」
 慰めてくれているというのに、なんという態度だろう。謝罪に対して大丈夫だと述べる彼を見て、ダイは一層気を落とさざるを得なかった。
 さすがに、化粧箱を痛めつけられたことが、痛かったのかもしれない。
 マリアージュによって壁に叩きつけられた箱の悲鳴に似た軋みを聞いた瞬間、自分の中で、何か箍のようなものが外れてしまったのを感じた。同時に、それまで胸中に渦巻いていた何かが、一気に噴出してしまったのである。
 そうしてマリアージュに現在のミズウィーリ家の状況を暴露し、今のままでは化粧をすることなどできやしないと彼女に喧嘩を売った翌朝、ヒースが朝早くに訪ねてきた――街へ、出ないか、と。
 街とは無論、門のあちら側。市井が暮らす城下町のことである。突然何を、と思っていたら、どうやら昨晩の顛末を耳にしたらしい。駄目になってしまった化粧道具の調達もかねて街へ、とのことだった。
 ヒース自身、門を出る用事があったらしい。門を抜け、さらには城壁の向こうにある小さな町まで付き合ってもらうことになる。一日掛りの行程だが、と前置く彼の誘いを、ダイは受けた。今の自分には、ミズウィーリ家の外の空気が必要だった。
 侍女頭に外出の届けを出し、軽い朝食をとって、ヒースと共に馬車に乗り込んだ。
 そして、現在に至る。
「気分転換にはならなかったですか?」
「そんなことないですよ。……ありがたいです」
 こうやって、ヒースが気を回して自分を連れ出してくれたこと。
 本当に、ありがたいと思っている。
 しかし気が滅入ってしまうことはどうにもならない。時間が経てば経つほど、どうしてあんな真似が出来たのか不思議でならなくなってくる。穴があったら入りたいぐらいだった。後でマリアージュとどうやって顔を合わせようかと考えるだけで、胃を重く感じてしまう。
「……お仕事、首になることが、怖いんじゃないんです」
 ごつ、と窓枠に額を当てながら、ダイは呟いた。
「せっかくのお仕事だから、続けたいのは山々なんですけど……」
「何が怖いのですか?」
「……あの、花街以外のところで、私はもしかして、上手くやっていけないんじゃないかって。……そういうのが、怖いです」
 今更のように自覚する。
 自分がどれだけ、あの花街で甘やかされてきたか。
 まだたった一月。帰ろうと思えばいつでもそうできる距離。
 なのに、郷愁に胸が潰れそうだ。
「戻りたい……」
 胸中を吐露したのは、無意識だった。
「……今日、帰りにでも、寄ってみますか?」
 ヒースの問いかけに、我に返る。
「だっ、大丈夫です!」
 申し出を断るために、ダイは慌てて両手を振った。
「……戻れない、の、で」
 帰ることはできる。花街の皆は、自分を迎えてくれるだろう。
 しかしそれは、自分が花街の外に基盤を置いた前提の上に成り立つことだ。まだ、戻ることはできない。
「仕事のことは、そんなに心配する必要はありませんよ」
 深刻な顔を、していたのかもしれない。案じるような響きの声音で、ヒースが諭すように言った。
「貴方がミズウィーリ家に来て、一月強、ですね。環境が急に変わって、気を遣ってきたことに対する疲れが出る頃。誰にだってあることだ。……住み慣れた場所を離れて一月もすれば、誰だって前が恋しくなる」
「……ヒースにも、そういうこと、あったんですか?」
「私?」
「……どこか、遠いとこから来たんでしょう? ヒース」
 当てのない旅の途中に、マリアージュの父に出会ったのだと聞いている。
 彼は一体どこから来て、どこへと流れていく途中だったのだろう。
「私はそんな遠くから来たわけではないですよ」
 少し寂しそうな微笑を浮かべ、ヒースは肩をすくめる。
「ですがそうですね。……私にも、確かにそんなときが」
 ありました、と、ヒースは小さく頷いた。
「……ヒースは、どこから来たんですか?」
 答えを期待していたわけではない。マリアージュも彼の故郷を知らぬといっていたのだ。もっとも、使用人の生まれた土地など、彼女は気に掛けたこともないだろうが。
 マリアージュだけではない。他の使用人たちの中にも、ヒースの素性について詳しく知る者はいないらしい。
「……やっぱり、いいです」
 ほろ苦い微笑を浮かべて口を閉ざすヒースの様子から、やはり生まれについては口にしたくないことなのだと悟って、ダイは引き下がった。尋ねるのではなかったと、後悔する。
 誰にだって、踏み込んでほしくない領域はあるものだ。ダイ自身、母のことについて他者に触れられることを、無意識のうちに避けているのだから。
 気まずい沈黙が降りてしばし。
「……私は、デルリゲイリアとペルフィリアの国境沿いの生まれです」
 そっと、躊躇うようにして口にされたヒースの言葉に、ダイは伏せていた顔を上げた。彼は窓の外を眺めている。彼の蒼の双眸に、流れる街の景色の陰影が映し出されていた。
「ペルフィリア……」
 この国、デルリゲイリアの南東に位置する隣国だ。東部の国境が、隣り合っている。
「どんなところなんですか?」
 この都、引いていえば花街からほとんど出たことのなかったダイにとって、彼の語る場所は未知の土地だった。俄かに湧いた興味に抗えず、ヒースに尋ねる。
「平野ですよ」
 何もないところです、と、彼は応じた。
「山脈の麓で、東にまるで海のような荒れ野が延々と広がっている土地です。ハリエニシダとヒースだけが自生する」
「ヒース?」
 彼の名前と、同じだ。瞬いて思わず声を上げたダイに、彼は苦笑してみせる。
「低木で、紫色の花が咲きます。私の名前も、この花から。私が生まれたとき、平原のヒースが一気に咲いたといって。おかしいでしょう? 男にそんな、花の名前をつけるなんて」
「どうして? 素敵だと思いますけれど。……どなたが付けられたんですか?」
「父です。母は、反対したようですが」
 彼の、両親についての語り口は普通だった。むしろそこには、愛情ある一つの家族の姿が垣間見える。
 なんだか、嬉しかった。いつの間にかダイに向き直っている彼の蒼い目を見て、そう思った。
「ハリエニシダってなんですか?」
「ハリエニシダもヒースと同じく低木で、黄色の花が咲きます。どちらも春先の時期に花が開いて、そのときだけ、荒れ野に紫と黄の色が付く。春が終われば、灰色に戻る。そんな、痩せた土地です」
 何もないと、言いながらも。
 彼の口調には郷愁と愛しさが滲む。
「……戻りたい、ですか?」
 ダイの問いに、ヒースは哀しげに微笑んだ。
「貴方と同じです。戻れない」
 がたん、と。
 馬車が大きく揺れた。
 断続的に響いていた車輪の音が消える。馬が嘶(いなな)き、流れていた景色が静止しているのを見て、ダイは目的の場所に到着したことを知った。
 花街に暮らしていたころから、ここだけは時折足を踏み入れた――商業区である。
「店まで一緒に行きましょう」
 ヒースが外套の袖に腕を通しながらそう申し出てくる。ダイは思わず、彼の隣に置かれた書類や書籍を一瞥して呻いた。
「ですが」
「私が散歩したいだけです」
 書類の数枚を懐へ入れた彼は、御者によって開かれた扉をくぐり様、振り返って笑う。
「この土地は、故郷と違ってあまりに窮屈だ。……私もたまには外の空気を吸わないと、窒息してしまいそうなんですよ」


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