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第三章 渦旋する因習者 1


「なるほどね……」
 ダイが午前の仔細について報告を終えると、マリアージュがどこか呆れた響きで呟いた。
「つまりこの急な予定変更はあんたのせい」
 レイナが宣言した通り、午後の船による遊覧は、ルグロワ河の沿岸を一日がかりで視察する旅に変更された。侍女も含めたデルリゲイリアからの官全員の参加である。
 ダイは心外だと声を荒げる。
「私のせいになるんですか!?」
「ユマたちが忙しそうだったわ。昼餉前に夕方までの視察がいきなり一泊の予定に切り替わったんだから」
「あ、あとで謝っておきます……」
「別にあんたが謝る必要ないわ。市長を悪者にすればいいのよ」
「私のせいっておっしゃったのはどなたでしたっけ?」
「言葉の綾に決まってるでしょうが」
 まったく、口の減らない御方だ。
 ダイはしばし主君を半眼で眺めていたが、鳴り響いた鐘の音に正面へと向き直った。ルグロワの街がゆっくりと遠ざかっている。自分たちの乗る船が接岸していた港から離れ始めているのだ。
 ルグロワ市の誇る河川巡航船は、三本の帆を持つ甲板船である。赤茶けた大地を抉るルグロワ河の早い流れにも耐えうる強靭な船舶で、広い船室をいくつも備えていた。ちょっとした屋敷がそのまま船になったかのような大きさだ。
 ダイたちは慌ただしく市街地を視察したのち、つい先ほどこの船に乗り終えたばかりだった。ユマたち侍女は今ごろ船室で荷解きに大忙しに違いない。
 その一方でダイはマリアージュの伴として、船室の屋上にあたる楼甲板に控えていた。正方形の板張りには絨毯と円卓と椅子。それらの周囲でルグロワ側の侍女がてきぱきと茶の準備を整えている。甲板へ下りる階段の傍には警戒に気を配るアッセの姿。レイナはまだ姿を見せていなかった。
 ダイはマリアージュから離れて、楼甲板の縁から身を乗りだし、船乗りたちの動きを観察した。
 広い甲板を慌ただしく行き交い、縄を曳いて、風を帆で捕まえるべく奮闘する。
 焼けた肌を昼下がりの日差しにさらした彼らの動きはどれをとってももの珍しく映る。
 デルリゲイリアの王都に接する河川は狭くて浅い。当然ながら船の往航はなく、ダイたちのだれもが船乗りとは縁遠かった。こういった自国では目に出来ないものに触れられるという点には少なからず心が躍る。
「ホント、すごいですねぇ……」
「ダイにそうおっしゃっていただけて光栄ですわ」
 感嘆の吐息を零したダイは返ってきた反応に背筋を正した。
「レイナ様」
 甲板からの階段を見れば、シーラを伴ったレイナがゆっくりと登ってくるところだった。彼女はダイに笑みだけを寄越して通り過ぎるとマリアージュの前で優雅な礼をとった。身にまとう衣装の裾を花弁のように広げてそのままマリアージュへと微笑みかける。
「お気に召しまして? マリアージュ様」
「もちろんです」
 マリアージュが礼を返して応じる。
「このような立派な船に乗るなど滅多にないこと。貴重な機会をお与えくださり、ルグロワ市長には心よりの感謝を」
「やぁんもうレイナってお呼びくださいって申し上げておりますのに!」
 いじわるぅ、と拗ねたレイナにばしばし腕を叩かれ、マリアージュが口元を引き攣らせる。
 ふたりの間にダイは慌てて割って入った。マリアージュに癇癪を起されてはたまらない。
「船ももちろんですけれど、街並みも興味深かったですよ。デルリゲイリアと、まったく違って」
 遠方からは巨石の群れにしか見えなかったルグロワ市。しかし港に向かう道中に通り抜けたその街並みは異国情緒にあふれ、一種のうつくしさを秘めていた。
 砂塵に角を削られた日干し煉瓦造りの集合住宅は、ひと棟あたりに何十もの世帯が暮らしているという。その巨大な直方体の建造物が階段を挟んで積み木のように組み合わさる。
 光が鮮烈で影が濃い。しかし粉塵が舞うせいか景色のそこかしこが霞んでいる。かといって殺風景な印象は受けなかった。壁面に穿たれた窓の周囲には花模様の彫刻が必ず施され、捩じれた金属の棒が吊るされて風に揺られては涼やかな音を立てる。往来する人々が被る色鮮やかな布が方々でひるがえる。彼らのほとんどはおおきな籠を担ぐか背負うかしていて、その中は色鮮やかな果実でいっぱいだった。豆科と思しき植物が青々と茂る川縁では女たちが洗濯とおしゃべりに精を出している。そこここに立つ市はいずれも活気にあふれていた。
「とても、明るかった」
 日を追うごとに顔を曇らせていくデルリゲイリアの民とは大きな差だ。
「ダイから聞きました。人の出入りにかなり気を払っていらっしゃるとか」
「えぇ。よくない影響があると思われる方の街の出入りを制限させていただいていますの。おかげでマリアージュ様たちを安全にご案内することができましたわ。ルグロワの街は気に入っていただけまして?」
「えぇ」
 マリアージュが首肯するとレイナは微笑んで身を翻した。どうぞ、とその手がダイたちを円卓へと呼ぶ。そして支度のすっかり整った席に一同を座らせると、彼女は手ずから茶器を取り上げて茶を振る舞い始めた。
「この船旅もきっと気に入っていただけると思います。船に一泊というのもなかなか快適ですのよ」
「湖に停泊するという話でしたわね。……ここからどれぐらいの距離があるのかしら?」
 マリアージュがやや硬い声音でレイナに問うた。
 マリアージュは乗り物の揺れに強い方ではない。船の揺れも然り。航行の長さを不安に思ったのだろう。
「シーラ、地図を」
 レイナの指示を受けたシーラがひと巻の地図を卓上に広げた。ルグロワ周辺の地形が描かれている。
「この点線までがルグロワ市。こちらの青い線がルグロワ河です」
 河を示す線はクラン・ハイヴの中東部を走っていた。
「その先が目的地の湖ですね。日が暮れるまでには着くでしょう。流れがゆるやかで船の揺れも少ないのです。碇を降ろせば快適に過ごせる場所ですわ」
「レイナ様はよく船にお乗りになるのですか?」
 船の揺れをものともしないレイナの様子に慣れを感じ、ダイは問いを口にした。
「いいえ。それほどは。お客さまがおいでになったときぐらいかしら。実際に航行して泊まっていただくことはほとんどないの……今回は、特別」
 レイナがダイに目配せを寄越して、ふふ、と笑う。
「おふたりに、ご覧いただきたいものがあるの」
「そういえば……今朝もそうおっしゃっていましたね」
 レイナの視線の意味を計りかねて軽く身を引きながらダイは尋ねた。
「いったい何があるんですか?」
 レイナは円卓に両肘を突いて手を組むとその上に顎を載せた。彼女はそのつややかな唇の端を笑みにいっそう引き上げて、小鳥のようにちいさく小首をかしげて見せる。
「おふたりは、妖精光のこと、ご存知かしら?」


「へぇ、妖精光?」
 レイナとのやり取りをダイから耳にしたアルヴィナが作業の手を止めて言った。
 控えの間として宛がわれたうちの一室には、術式の調整に勤しむアルヴィナと、茶碗を手にひと息つくユマのふたりが残っている。楼甲板からひと足先に戻ってきたダイは、勧められた椅子に腰を下ろしながら、そうなんですよ、と頷いた。
「こんなところで見られるんですねぇ」
「妖精光が見られるだなんて……」
 薬湯茶を注ぎ終えたユマが茶器を卓に置いて目を輝かせる。
「どうしよう。どきどきしてきちゃった」
「ふたりとも見たことないの?」
 アルヴィナの口ぶりはダイたちの反応は意外だと言わんばかりだった。
「もちろんありませんよ。アルヴィーはあるんですか?」
「えぇ」
「多分、城のひとたちで見たことあるひとっていないと思いますよ」
「……妖精光ってそんなに珍しいこと?」
「少なくともデルリゲイリアの国内では見られないんじゃないかと」
 魔術が発動する際にも見られる燐光が自然発祥したものを妖精光と呼ぶ。世界でも稀に見る現象である。
 デルリゲイリアの王城の勤務者の大半は、国外どころか王都からすら出たことのない者に占められる。妖精光に遭遇する機会などあるはずがない。
「そっかぁ、見られる場所ってそんなに少なくなってるのねぇ……」
 アルヴィナがぼそぼそと独りごちる。
「まあ、仕方ないわよねぇ。大きな魔術を使うことはもう滅多にないだろうし」
「魔術と妖精光って関係があるんですか?」
「うん」
 ダイの問い掛けに首肯して、アルヴィナが解説を始める。
「妖精光ってね、いくつかの例外はあるけど、ほとんどが大きな魔術を使った跡地で見られる現象なのよ。船が向かっている湖って河の源流って聞いてるけど、もしかしたら昔、だれかがそこで水源を掘り起こしたのかも」
「水源を掘り起こす……? 魔術でそんなことできたんですか?」
「ひとが住みやすいように土地を均したり、河の支流を引きこんだりすることもあったの。ひとりじゃ難しいから、複数人で陣を敷いて」
 アルヴィナが指を鳴らすと魔術師を表すと思しき四人分のちいさな影が宙に浮かんだ。光の輪が彼らを繋ぐように生まれ、円を成す。続けてその芯で火柱が上がったかと思えば、燐光を散らしながら瞬く間に消え去っていった。
「……とまぁ、こんな感じでね」
 ユマが感動した様子で勢いよく拍手を始める。ダイもつられて手を叩きながら、でも、と疑問を口にした。
「どうして大きな術を使うと、妖精光が見られるようになるんですか?」
「大がかりな術はその場の魔の調和を乱してしまうからよ。魔の量が枯渇するのね。すると魔がほかの場所から引っ張られてきて、修復のために活発に動くの。傷口がかさぶたになって盛り上がるみたいにね。妖精光ってようは世界のかさぶたなのよ」
「はぁ。なるほど」
「ということは魔の状態が普通に戻ったら、妖精光って見られなくなっちゃうの?」
「するどいねぇ、ユマ。そういうことになるかな」
「アルヴィー、妖精光ってどれぐらいの間、見られるものなんですか?」
「んんー。術の規模にもよるけど、だいたい百年か千年ぐらいかしら」
「けっこう長く見られるんですねぇ……」
「でもこれから見に行く妖精光ももしかしたら見られない可能性があるってこと?」
「それはないと思うなぁ。いきなりなくなるものでもないから。ちょっとずつ見られる光の数が減っていくの。わざわざ私たちに見せようとするぐらいだもの。まだちゃんと見られると思うよ」
「よかった……」
 ユマが胸を撫で下ろす。本当ですね、とダイは同意した。ここまで来て見られないとなればさすがに残念だ。
「あ、そうだわ、ダイ」
「はいはい? なんですか?」
 急に顔を上げたアルヴィナに呼び掛けられて、ダイは茶器から口を離した。
「休憩はあとどれぐらいで終わる? マリア……陛下のところにすぐ戻っちゃうの?」
「打ち合わせに寄るところもあるので、このお茶飲んだらすぐに行くつもりでしたけど、どうかしました?」
「妖精光が出るなら遣い魔を調整しないといけないなって思って。ううーん。どうかなぁ。大丈夫かしらぁ……」
 アルヴィナが壁際の棚を横目で見る。ダイもその視線を追った。その造りつけの棚の上では鳥の姿を模した遣い魔が、本物さながらにくちばしで身づくろいをしているところだった。
「調整が必要なんですか?」
「妖精光が見られるっていうことは、魔の密度が濃いってことだもの。ちょっと暴発するかもしれないから……」
「暴発」
 思わず反芻したダイにアルヴィナが苦笑する。
「勘違いしないでね。術の威力が強まってしまうっていうこと。たとえば……」
 アルヴィナが唐突に右の人差し指を立て、その先に蝋燭の炎めいた光を生み出した。
「この光が」
 アルヴィナが言葉を区切ると、光はこぶし大にまで膨らんだ。
「これぐらいになってしまうみたいに」
「なるほど」
 説明を終えたアルヴィナが右手を軽く振ると、光はかけらの名残もなく瞬く間に消え去った。
 ユマが、ほぅ、と吐息する。
「アルヴィナさんって、すごいんだねぇ……」
 ユマの賞賛はもっともだ。このように詠唱も何もなく息をするような容易さで、術を行使する魔術師はアルヴィナ以外に存在しない。
 アルヴィナは微笑んだ。
「うふふ。ありがと、ユマ」
「ところでアルヴィー、その調整ってどれぐらいかかるんですか?」
「そんなに長くはないわよぉ。でも核を弄る必要があるから、すぐには終わらないわねぇ」
 遣い魔は銀や水晶、あるいは招力石といった素材の核に、魔を纏わせて作りだされる。核には効果を指定した術式が刻まれる。ダイが護衛に連れ歩く遣い魔の核は純銀の鳥の像で、親指ほどの大きさしかないが、眠りの術を含むおびただしい数の術式がアルヴィナによって書き込まれていた。
「鳥、おいていったほうがいいですか?」
「それは駄目。ま、このままでも大丈夫でしょう。何かあっても皆に眠ってもらうだけだし」
 と、明るく告げるアルヴィナに、ダイは苦く笑って呻いた。
「何かあったら困りますけどね……」
「そうね」
「ねぇ、ダイ。外が暗くなってきたけれど、陛下はいつまで楼甲板においでなのかしら」
 茶器を片づけ始めたユマが窓を示した。室内に光をもたらしていたはずの丸窓がいつの間にか闇色に染まっている。
「上着をお持ちしたほうがいいわよね。日が落ちると冷えるわ」
「あんまり寒かったら船内に入るんじゃない? というか陛下ったらあの市長さんとふたりでずっとおしゃべりしてるの? 頑張るわねぇ……大丈夫なの?」
「そうですねぇ……」
 レイナの言動を苦手とするマリアージュを案じるアルヴィナに、ダイは天井を仰ぎながら呟いた。
「私が下がるまでは和やかにお話していましたから、大丈夫だと思います。……たぶん」


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