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第九章 忍ぶ懸想者 5


 迎えの者たちと合流するやもと思いきや、誰かが広間からくる気配はまったくない。
「職務放棄もいいところだ」
 まったくあいつは、と、ディトラウトが毒づく。あいつ。彼にしては珍しい呼び方だと、ダイは瞬いた。
「ゼノさんは……あなたの専属ですか?」
 ダイがゼノとペルフィリアで対面したとき、彼とディトラウトとの接点は見えなかった。しかし小スカナジアにおいて、ふたりはいつも行動を共にしている。
 訝しげな目をダイに向けて、ディトラウトが問いに答える。
「ゼノは私の近衛の筆頭です。……あぁ、マーレンで会っていたんでしたね」
「……私、何か変なこと言いました?」
「……親しげに呼ぶから」
 ダイはゼノと小スカナジアでは言葉を交わしていない。ダイがゼノをきちんと認識していると、いまごろディトラウトは気づいたらしい。
「親しいわけじゃないですけれど……。マーレンではよくして頂きました。気安い感じのひとですよね」
「ときどき、馴れ馴れしすぎるきらいがありますけれどね」
 息を吐く男の表情の変化を、ダイは見逃さなかった。
「仲がいいんですね」
「いまのどこを聞いたら、そう思えるんですか?」
「だって……ちょっと笑っていましたし」
 単なる護衛について語る顔ではなかった。
 ディトラウトは失敗したと言いたげだ。
 彼は躊躇いがちに説明した。
「……長い付き合いの男です。名家の出身で力がある。私がこの職を拝命する前から、助けてくれている、友人のひとりです」
「……そうですか」
 相づちを打ちながら、ダイは胸元を握った。
 この男に、友人がいる。
 当たり前の事実がなぜか胸に重かった。
 この男が、ペルフィリアの人間であることを、いまさら突きつけられた気がして。
 ディトラウトが会話を続ける。
「テディウス卿も来ませんね」
「暴力沙汰になっていなければいいですけれど……」
 迎えに来ない。つまりは何かに引き留められているということだ。
「広間まで誰にもかち合わなければ、私が先に様子を見に戻ります」
「私は?」
「少し手前で待っていてください。何事もないなら、あなたの騎士を呼ぶか、私が迎えに戻る」
 いいですね、と、念押しされて、ダイはしぶしぶ頷いた。男装時はともかく、女装していては、逃げるにも身を隠すにも苦労する。有事には対応できない。
 ディトラウトの配慮はありがたい。しかし気持ちとしては複雑だ。
「……そこまで守ってくれなくても、いいんですけど……」
「そういう台詞は、厄介ごとに突っ込んでいく癖をなくしてからにしなさい」
「突っ込んではいません」
「引き寄せては?」
「……います」
「なら、おとなしく守られていなさい。……何かに気をとられて、ひとりで走り出したり、ひとりで場所を動いたり、迷子になったりする癖は直りましたか?」
「……それ……癖なんですか……」
 過去に巻き込まれた諸々の件が脳裏をよぎる。遠い目になったダイに、ディトラウトは呆れ顔だ。
「これではあなたの騎士はたいへんそうですね」
「……そ、そういえば、私の騎士って、アッセ……テディウス卿のつもりですか?」
 過去の失態を詰問される前に、ダイは慌てて話題を逸らした。
 ディトラウトは生ぬるい目のまま、そうですが、と、肯定を返す。
「テディウス卿は騎士で、私の護衛ですが、私の騎士というわけではありませんよ。マリアージュ様の命で付いてくださっているだけです」
 本来であればアッセはマリアージュを守る立場だ。アルヴィナの遣い魔がいてさえ、ダイが危険に巻き込まれるので、見かねたマリアージュがアッセを付けることにした。
「テディウス卿はあなたを守ろうとして、今回の騒ぎを引き起こしたのでは?」
「うーん……。そうだとは思いますけど。最近、ちょっと色々あって、私を守ろうと意固地になっているっていうか……。普段は穏やかな、いい人なんですけれどね。裏町出身の私を、友人として扱ってくださいますし」
「……なるほど?」
 ディトラウトがちいさく笑う。
「それはかわいそうに」
「……かわいそう、ですか?」
 ダイは鸚鵡返しに尋ねた。
「いえ……。あなたが彼の思いを理解していないようなので」
「あなたにはわかるんですか?」
「想像は付きます。そうですね……」
 彼は口元に手を添え、思案してから述べた。
「たとえば、あなたは化粧で失敗したなら、それを挽回したいと思うでしょう。失敗を重ねれば重ねるほど。次こそは、と、思うものではないですか?」
「……思います」
「彼の場合も同じでしょう。二度、三度と失敗を重ねたなら、騎士としての矜恃から、今度こそは守らなければと、意地になってしまってもおかしくはない」
「あぁ……そういうことですか……」
 近頃のアッセの行動にも合点がいく。ここのところ抱えていた疑問が氷解した。自分と立場を置き換えて考えて見れば理解は早かったのだ。
 ダイは礼を述べようと男を見上げて、薄い笑みを浮かべる彼に眉をひそめた。
「……何か……たくらんでいません?」
「いいえ? なぜ?」
「あくどい顔をしています」
「ひどいですね。私の説明に何かひっかかりが?」
「んー、そうじゃないんですけど……」
「私は推測しているだけですよ。真実かはわかりません」
 ディトラウトの言う通りだ。それに彼が口にしたものは助言である。アッセと不和が起こるように仕向けるものではない。
「そうですね……。ひとまず、ありがとうございます」
「どういたしまして」
 やわらかな声音で応じる男の姿が、いまは遠くなった日々の彼と重なる。
 ダイは無意識に男に身を寄せた。絡めている彼の腕を、空いている手で握る。
 広間までだ。
 この一本道が途絶えるときに、やさしい時は終わりを迎える。
 自分たちは別々の王に忠義を捧げる臣下に戻る。
(……できるのかな)
 このように穏やかに会話をしたあとで。
 彼の体温を思い出したあとで。
 足が、重い。
 下半身に、砂を詰められたようだ。
 ディトラウトが立ち止まった。ダイは首をかしげた。
「……どうしました?」
「それはこちらの台詞だ」
 ダイの問いにディトラウトが渋面になる。
「……顔が青い。気分が悪いんですか?」
「え? いえ。……あぁ、でも」
 胴回りが苦しいかもしれない。
 下着で締め付けたからだろう。しかしそれをディトラウトに告げてよいものか。
「少し戻ります」
「え?」
 唐突にディトラウトがダイの身体を反転させる。そして宣言通りに道を引き返し始めた。
 彼が立ち止まった場所は、道半ばにある回廊の一角。玻璃のはめ込まれた大窓が片側に並ぶ。
 そのうち一枚の鍵をディトラウトがいじり始めた。
「……何をしているんですか?」
「外に出るんですよ」
「え? 出られるんです?」
「露台にね。あなたは少し、風に当たったほうがいい」
 大窓の数枚は扉になっていて、露台から中庭を望めるという。
「よくご存知ですね」
「会場の説明にありました。行きに通りかかったときも、何組か外にいたようですよ」
「……まったく気づきませんでした……」
 男の様子ばかりが気になっていて。
 かちん、と、金属音が響く。
 開きました、と、ディトラウトが告げた。
 窓が開くと、風が一気に通路に吹き込んだ。束ねられた遮光幕が重たげに揺れる。
 ディトラウトがダイを置いて露台に出る。広さは階段の踊り場ほど。その中央に立った彼は、風を頬に受けて、涼しそうに目を細めていた。
 衣装の裾を軽く持ち上げ、ダイも窓のかまちを跨ぐ。窓を閉めて男の隣に並ぶと、彼がぎょっと目を剥いた。
「何で待っていないんだ!」
「え? 来たら駄目でした?」
「先導されるまで待ちなさい」
「……先にひとりで涼んでいたくせに」
「それは……すみませんでした」
 ディトラウトが謝罪する。素直な態度が少し可笑しい。
 ダイは息を吸った。ずっと屋内にいたから、清涼な夜気は心地よかった。
「……気分はどうですか?」
「さっきよりは。すみません。多分、下着がきつくて……あ」
 口を押さえたが、時すでに遅し。
 ディトラウトが渋面で嘆息する。
「……そういうことは言わない」
「あ、やっぱり言ったら駄目でしたよね」
 前に同じ事を口にして、ユベールから怒られた。
「男にそれを言うのは、誘っているのと同じだ」
「あー……以後、気を付けます」
「あなたの教育係は何をしているんだ……」
 正直、ディトラウトにここまで嘆かれるとは思わなかった。
 彼の小言は続く。
「いいですか。そういう風だから危険に巻き込まれるんです。きちんと自衛する。無防備にならない」
 ちょっと、うるさくなってきた。
 ダイは両耳をふさいで庭を眺めた。野薔薇の意匠を凝らした欄干の向こうに、会議場からも目にした薔薇の庭が広がっている。先ほどまでいた玻璃造りの建物も正面に見える。
 月は山間に沈んでいる。点された照明も少ない。闇が濃いはずの庭はしかし、不思議なほどに明るかった。
 ふわり、と、光が舞う。
「あなた、私の話を聞いて……」
「ヒース、ヒース、見てください! 妖精光です!」
「……なに?」
 ダイは興奮して男の袖を引っ張った。ルグロワ河の源流で見た数より少ないが、雪のように宙を不規則に舞い踊る、虹色の粒子の群れは、確かに妖精光だ。
 ディトラウトがダイの指さす方向を向いて、あぁ、と、得心した様子を見せる。
「あなたはこれが初めてですか?」
「……いえ。違いますけど……」
 彼のあっさりした反応に、ダイは冷静さを取り戻した。
「とても、珍しいものだって聞いていましたし」
「そうですね。……あなたは銀樹を見ましたか? 招力石の原木です。小スカナジアに生えている……」
「はい。借地の庭にもありました」
 ダイの返答にディトラウトがひとつ頷く。
「あれは魔を吸って育つ木ですが、魔を放出することもあるようです。それが妖精光になる」
「じゃあ、ここではそんなに珍しくないんですね」
 叫んだ自分がいま急激に恥ずかしい。
 ディトラウトがくすりと笑った。
「ほかの土地では珍しいものですよ。あなたはどこで? 今の反応からして、ここではないのでしょう?」
「クラン・ハイヴです」
「……ルグロワ?」
「はい。……最初はどんなものかよくわかっていなかったので、期待していなかったんですけど。でも、すごくきれいで……」
 船での一件がなければ、もっとじっくり眺めたかった。
 星空のただ中に立っていると、錯覚するほど幻想的だった。
 そこに花びらの幻影を見て。
 ディアナが。
「……あなたと一緒に、見れたならって……」
 落ちた沈黙に、ダイは我に返った。
 愚かなことを口走った。
「……そろそろ戻りますよ」
 ダイの言葉を聞かなかったことにしたようだ。ディトラウトが固い声で告げて踵を返す。
 ダイは苦笑した。確かにもうゆっくりはしていられない。正餐の開始には急ぎ足でぎりぎりだろう。
 どうやら今回も妖精光をのんびり観覧できないようだ。
 名残惜しくなってダイは、鼻先をかすめた妖精光を、つい手で追った。
 ディトラウトから叱咤が飛ぶ。
「馬鹿!」
「えっ、わっ……!」
 ディトラウトがダイの腕を強く引いた。そのままよろけて踏みとどまるが、結果として壁際に押しつけられる。
 ダイは何が起こったのかと身体を起こし。
「いったいなうぐっ」
「いっつ!」
 ごちっ、と、顔面をディトラウトの顎先にぶつけた。
 彼のほうがダイより痛みが大きかったようだ。ディトラウトはたっぷり数呼間おいて、恨めしげにダイを睨めつける。
「……建物の境界を越えると、警笛が鳴る話は知っていますね?」
「……はい」
「露台の縁から手を出すとどうなると思う?」
 もちろん、建物の出入りがあったと見なされる。
 ダイは心の底から反省した。
「……すみませんでした」
 ディトラウトは怒る気力もないらしい。眉間に指先を当てて、ため息を吐いている。
 その彼のあごに、赤い線がある。
 ぶつかった拍子に切ったのかとも思った。だが目を凝らせば、出血ではないとすぐにわかる。
 口紅が付いたらしい。
 男に気づいた様子は見られない。ダイは彼の顎先に手を伸ばした。
 ディトラウトが困惑の表情を見せる。
「どうし……」
「じっとしていてください」
 親指で撫で擦って口紅をぬぐう。
 きれいに消えたことを確認してダイは微笑んだ。
「もういいですよ」
 このまま広間に戻っていたならば、男が追求の嵐に遭うところだった。
 それはちょっとかわいそうだ。
「すみません口紅が……」
 気配の変化に気づき、ダイは口を閉ざした。
 男の顎から放そうとした手が捕らわれる。
「だから……」
 どろりと熔けた蒼の双眸にダイを映して彼は言った。
「無防備になるなと言ったでしょう」
 苦しげなささやき。
 一瞬のち。
 男から食らいつくような口づけを受けた。



 ゼノの証言通りだった。
 会議場までひと息に駆けたが、ダイたちの姿はどこにもない。
「会議室はやはり施錠されていますね」
「外に出られるわけでもないし」
「どこへ行ったんだ……」
 アッセは頭を抱えた。自分が冷静さを欠いてしまったばかりに。
 しかもダイを連れた男はあのディトラウトだ。ペルフィリアの男。マリアージュを傀儡の女王に仕立てあげ、デルリゲイリアを手中に収めようとした侵略者。
 彼の計画はダイがミズウィーリに勤め始め、マリアージュに王者の自覚を促したことで、破綻したようだと兄からは聞かされている。ペルフィリアでもダイの機転が自分たちの窮地を救った。出し抜かれた側の男の腹の中は煮えくり返っているはず。
「えっ、本気でいない」
 背後から響いた声の主をアッセは振り返った。マーレンでは世話になった騎士の男。彼がディトラウトの護衛という点は皮肉だ。
 アッセはゼノに詰め寄った。
「どういう意味だ? いまの言葉は」
「えっ、あぁ、そのまんまの意味ですよ」
「……宰相の行き先を本当に知らないのか?」
「知らないって! 俺だってディータがいなくなって困ってるんだよ!」
 宰相の愛称を口にするあたり、焦っていることは真実らしい。
 ユベールとランディに周辺の探索を命じて、アッセ自身は来た道を引き返すことにした。
 庭を眺めていて思い出した。
 広間から会議場までは一本道だ。しかし展望室代わりにいくつかの露台が開放されている。
 ダイはアッセにとって不思議な娘だった。
 アッセと対峙する折には、たいていの娘は遠慮する。アッセの身分や人慣れない雰囲気に対して。
 ダイはそういった垣根をすぐ越えた。するりと懐に踏み込むかに見えて、ひとから距離を保っている。それが気楽だった。見目が少年のようであるからか、通常の娘より、気兼ねなく会話できた。
 彼女の女王に対する忠義や献身も尊敬に値した。
 得がたい娘だった。
 けれどもダイはアッセに容易く守られてはくれなかった。ペルフィリアに続き、クラン・ハイヴでも襲撃を受ける。国に帰ってからは、切り込み隊長のような果敢さで社交場に乗り込む。たびたび城下におりて裏町に顔を出そうとする――あれはいずれやめさせたほうがよい。いくら出身地だからといって。
 ミズウィーリに勤め始めたときに縁を切らせるべきだったと思う。親類が恋しいなら呼び寄せて、貴族街に居を与えればいい。そうすれば簡単に会えるはずだ。
 それでなくともダイは多忙を極めた。女王のために心身を削るようにして、あらゆる手立てを尽くしていく姿は痛々しかった。
 一方で、女王への化粧は欠かさない。
 女王もダイに化粧をするなと言い渡さない。
 正直、それほど彼女の化粧が必要か、とも思う。なぜ女王は女官の仕事で我慢し、ダイに休息を与えようとはしないのか。
 日常の静穏が守れないのならせめて、騎士の職務だけでも全うしたいのに。
 結果はこれだ。
 自分の不出来を詰りながら、アッセは道々で大窓を覗く。ひとつ、ふたつ、みっつ――いずれの露台も無人。
 施錠された大窓のひとつにごつりと額を押し当てる。
(落ち着け……)
 冷えた窓が幾ばくかの冷静さを取り戻させる。息を吐いたアッセは、最後の大窓の脇で遮光幕が揺れるさまを、横目で目にした。
 駆け出さなかった理由は、何だろう。
 ゆっくり、歩み寄った。そうしなければならない気がした。
 一見その大窓は閉ざされて見えるが、わずかな隙間が開いている。
 アッセは窓の玻璃に触れた。
 そして。


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