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第八章 討議する執政者 1


 本会議開催に際して小スカナジア宮は、社交用に三つの大広間を提供している。
 最も手前に位置し、以前から解放されていた《白の広間》は、許可証を持つ者ならだれでも入室を許されている。小スカナジアに暮らす元メイゼンブル貴族や、富豪、商人、報知機関員、様々な人種が入り乱れる広間だ。
 白に続く《淡紅の広間》は、会議の傍聴権を有する十一の共同体、並びに、商工協会が使用する。
 会議参加国の代表がそれらの部屋に出入りすることはもちろん自由だ。が、通過する必要もなかった。専用の迂回路が用意されていた。
 その先が、《緋の広間》。
 主要国の代表団のみ、許される場所である。
 その広間に入場して早々に、ダイは知った顔と遭遇した。
「マリアージュっ、さまぁああああぁっ!!」
 きゃああ、と、喜声を上げながら、女がダイたちと距離を詰めている。
 ダイは思わず身を引いた。隣ではマリアージュが、口元を引き攣らせ、女の名を零していた。
「ルグロワ市長」
「やだもうマリアージュ様ったらどうぞレイナって呼んでくださいな! レイナって呼ばれたいのっ! ダイ! ダイもひさしぶりですっ。相変わらず素敵っ。お元気っ?」
「はい。レイナ様もごきげんうるわしく」
「様はいりませんのにっ。レイナとダイの仲ではありませんか」
 どんな仲だ、と、その場の全員が胸中で呟いたに違いない。
 恥じらうように頬を染めて、身をくねらせるレイナに、ダイは乾いた笑みを贈った。
 クラン・ハイヴが一都市ルグロワの市長、レイナ・ルグロワ。
 ダイの誘拐を試みたことなど、つゆ知らぬという顔で、彼女は一段と艶やかに微笑んでいた。
 足元までの襞が美しい黄檗(きはだ)色の衣裳。裾に散る花模様の水色が注し色となって、レイナ生来の華をいっそう強調している。目元と口元には淡い紅。みのりの豊かな小麦を思わせる黄金の髪は、華やか且つ纏まりよく結い上げられていた。
 レイナの背後には侍従のシーラ。彼女は黙したままダイに一礼のみを寄越した。
 マリアージュは口を利きたくないらしい。
 仕方なく彼女に代わって、ダイはレイナの前へ出た。
「レイナ様がおいでだったんですね。クランの市長は代表の方だけだって伺いましたけど」
「レイナとね、エスメル市のおじさまが会議のお世話役なの。何かあったらすぐにレイナにおっしゃってくださいな。ダイのためなら何でも聞いてしまいそう」
「……お気持ちだけ受け取っておきますね……」
 レイナが物事を都合した場合、要求される見返りが怖すぎる。
 大陸会議を提唱したということで、クラン・ハイヴの市長たちが、運営の中心を担うと聞いてはいた。レイナはその責任者で、エスメル市長グラハム・エスメルが補佐を務めるのだという。よく見ればレイナの胸元には会議の役員を示す金の徽章があった。
 ダイはレイナを労った。
「レイナ様も大変ですね。裏方までなさるだなんて」
「うふふ。ありがとうございます。でもレイナ、お世話役だけなの。会議自体には出席しないのです。難しいお話はできないもの」
「エスメル市長がひとりで出席するの?」
 興味を引かれたらしい。マリアージュが会話に口を挟んだ。
 レイナが首を横に振って答える。
「エスメルのおじさまと……お国の代表がふたり。あぁ、ちょうど参りましたわ。ご紹介いたしましょう」
 レイナが女と少年のふたりを手招く。見ない顔だ。女は二十代半ば。少年は十に届くかどうか。
 まず女が大股で歩み寄り、少年が急ぎ足に後を追う。彼女たちはレイナの隣で立ち止まった。
 ダイは思わず女の顔を凝視した。その白い面の右半分に、鮮やかな藍色の紋様が描かれていたからだ。
 女だけではない。少年の左頬と首筋に紋様が見える。女のものに対して、赤い色をしていた。
 ぞっとするほど禍々しく、同時にひどくうつくしい。魔術的な匂いのする紋様。
(魔封じ?)
「マリアージュ様、ダイ、このふたりがクラン・ハイヴの」
「イネカ・リア=エル」
 レイナの発言を遮って女が口を開いた。あまりに平坦な声音だ。友好的でも冷淡でもない。強いていえば、感情が欠落しているかのような。
 彫りの深い白い面も表情に欠けている。その目の醒めるかのごとき青の瞳もまたしかり。
 少年が無造作に手を突き出した。
「俺はジュノ。イネカの世話役だとでも思ってくれ。デルリゲイリアの女王さんに、あんたが噂の化粧するってひとかぁ。よろしくよろしく」
「……ダイです。よろしくお願いします」
 ダイは少年の手を握った。手のひらの皮膚は厚みがあって硬い。非力そうな痩せた体躯に反し、握力は驚くほど強かった。頭部に沿って渦を巻く癖の強い髪は黒曜石色。顔つきは挑戦的だ。
 彼は手を握り返して、観察の目を寄越した。
 大きな黒目にダイの顔の輪郭が映る。
「おーおー、イカした面だなぁ。いかにもなレイナ好みのべっぴん。レイナ、オイタはすんなよ」
「もう、ジュノ。マリアージュ様とダイが、ジュノの無礼千万ぶりにびっくりしていらっしゃるわ。少しお口を閉じてくださらない? レイナ、イネカを紹介しなければならないの」
「おっと、そうだな。イネカの紹介しなきゃいけねーよな」
 レイナは明らかに苦情を述べているが、その意はジュノに通じていないようだ。
 彼はダイから手を離して、べらべらしゃべり続ける。
「イネカって誰って感じだろ。わかるよ。あんまさぁ、俺ら、面に出てきたりはしねーの。だけどほら、おっさん全部を会議に突っ込むわけにもいかねんだよな。そもそもおっさんたちだけに任せてたらさ、自分の利益ばっかり追求しそうだからイネカが出てきたわけ。わかる?」
「えぇっと……。すみません。あまりよく……」
 ダイはジュノに応えながら、宰相に視線で助けを求めた。
 マリアージュの後方に立つロディマスは、胡乱な目をジュノとイネカに向けていた。
 クラン・ハイヴは対外的な国の方針を、市長を構成員とする議会で決めている。議長は市長たちの持ち回りのはずだ。
「つまり……リア、エル、様は、市長の方々を、取りまとめる立場でいらっしゃるのですか?」
 そのような存在を初めて聞く。
 ロディマスが困惑を滲ませて尋ねると、やはりイネカではなくジュノが答えた。
「取りまとめっつか、監督だよ。監督。見張りでもいいけど。おっさんたちが悪いことしてねーかどうかとか。ま、女王さまみたいなもんだって思っておいてくれていいよ。今回の会議じゃ、そういう役回りだからさ。イネカは」
「そういう、あなたは……?」
「私の口」
 ダイの質問には、イネカが応じた。
 彼女の白い指がジュノの衣裳を示す。それはレイナやイネカのものと同じく、クラン・ハイヴの大地の色をしている。
 そして、同色の糸で刺繍されるはクラン・ハイヴの国章――宝玉を戴く双頭の蛇に絡みつかれた剣。
「私が女王。なら、ジュノは、あなたと同じ」
「みたいなもんだとでも思っておいてくれりゃいいよ」
 ジュノが歯を見せて笑った。
「まー、会議中よろしくな。それからここの飯、どれも旨かったから、期待してていいぜ」
「ジュノ、次、行く」
「はいはい」
 イネカが丁寧に一礼して踵を返し、ジュノが彼女の後を小走りで追う。
 レイナが憤然と足を鳴らした。
「もおおおおおおおおっ、やだわ。レイナがあれと同じに見られちゃうじゃない!」
「いえ……そんなことはない、ですよ……」
 たぶん、と、ダイは呟いた。
「はぁん、ダイってばやっぱりやさしい……」
「クラン・ハイヴは……一筋縄ではない人材を、抱えていらっしゃるのね」
 しみじみと述べたマリアージュに、レイナが本当に、と、同意を示す。
「ジュノにはクランの代表という自覚を持って、礼節のある言動をしていただきたいものです。クラン・ハイヴが市長のひとりとして、代わってお詫び申し上げます」
 レイナが謝罪に優雅な礼をとる。
 マリアージュは無言だ。激しく呆れた目をしている。
 レイナはマリアージュの反応に気付いていないようだ。
 面を上げたレイナはにこりと笑った。
「本当はもう少しお話ししていたいのですけれど、レイナ、次の方へご挨拶に行かなければならないのです。これで失礼させていただきますね」
 それでは、と、辞去して、レイナが別の集団の輪に加わる。
 彼女を遠巻きに眺めながら、マリアージュが息を吐いた。
「……帰りたくなってきたわ……」
「まだ早いですよ、マリアージュ様……」
 気持ちはわかる、と、胸中で同意しつつ、ダイは天井を仰ぎかけ。
 レイナが元いた場所に、ペルフィリア宰相の姿を見出した。
 彼もまたこちらを見ている。
 彼はつま先をダイたちの方へ向けかけたが、他国の文官から挨拶を受けて立ち止まった。
 にこやかに応じる男から視線を外す。
 ダイは息を吐いた。
(怯んではいられない)
 すべては――始まったばかりだ。
 ダイは改めて会場を見渡した。
 《緋の広間》は、《白の広間》よりこじんまりした造りではあるものの、円柱やその持ち送りの細部にまで彫刻を施し、写実的な宗教画の彩る天井には数基の豪奢な宝飾照明、明かりとりの薔薇窓からは七色の光が降る、壮麗きわまりない空間だった。
 往年の栄光を忍ばせる広間に、この大陸の趨勢(すうせい)を決する、やんごとなき身分の者たちが、一同に会しているさまは圧巻だ。
 ダイは眩しさに目を眇めた。
(ここに私がいるって、いまさらですけど、信じられませんよね……)
 一昔前の自分なら眩暈を起こしていた。
 いまは多少の緊張を覚えているにしても、落ち着いている。
 ここ半年ほどこういった場に、うんざりするほど足を運んだ。ようするに、慣れたのだろう。
 デルリゲイリアの官たちが方々に散ると、マリアージュとダイの下には、他国の者たちが立ち替わり挨拶に訪れた。ファーリルは女王と国章持ちが。ゼクストは女王と宰相と国章持ち三人で。
 雑談に興じていると、聞き覚えある声が背後から掛かった。
「デルリゲイリアが女王、マリアージュ様であらせられますね?」
 ダイは主君と共に声の主を振り返った。
(……ルゥナさん)
 会うとはわかっていた。しかし、会いたくもなかった。
 クラン・ハイヴの田舎町で別れた、ドッペルガムの女王。
「お初にお目にかかります。ご挨拶が遅れました。フォルトゥーナ・トルシュ・ドッペルガムです」
 彼女とは公的な場においては初めてまみえる。
 フォルトゥーナに大道芸の一座に混じっていたころの無邪気な様子はない。凛とした表情には年数を経た女王としての貫禄がある。
「こちらこそ、お会いできて光栄と存じます。マリアージュ・ミズウィーリ・デルリゲイリアです」
 ゆったりと一礼したマリアージュに、フォルトゥーナは親しげに微笑んだ。
「その節はわたくしの官たちが、たいへんお世話になりました」
「いいえ、こちらこそ。外交に不慣れなころで心細く、居合わせてくださったバルニエ卿の存在は、たいへんな励ましとなりました」
「それはうれしいお言葉です。ね、ファビアン」
 フォルトゥーナが背後を振り返る。
 片手を胸に拝礼するドッペルガムの官たち。その中央に、ファビアンの姿はあった。
 彼は深く頭を垂れたまま、自身の女王に肯定を返す。
「はい。恐悦至極に存じます。……ごきげんうるわしく。マリアージュ女王陛下」
「ご健勝のご様子、何よりです」
 上半身を起こしたファビアンに、ダイも声を掛ける。
「ご無沙汰しています、バルニエ外務官」
「ファビアンで結構ですよ。以前のように。僕もダイと呼ばせていただけるかな?」
「えぇ、もちろんです」
「あなたがマリアージュ様より国章を賜った御方であらせられるのね」
 いま初めて出会ったと言う口調で、会話に割り込むフォルトゥーナへ、ダイは向き直った。互いの役者ぶりへの笑いを堪えて、ドッペルガムの女王に頭を垂れる。
「お初にお目通り賜ります、フォルトゥーナ女王陛下。どうぞダイとお呼びください」
「マリアージュ様が大事になさっていらっしゃる《国章持ち》の方を、そのように呼んでよろしいものかしら」
「ファーリルやゼクストの皆さまにも、そう呼んでいただいております。……国章を賜ったに過ぎない、一介の化粧師に過ぎぬわたくしに、敬称は不要でございますゆえ」
 同席した二国の女王たちには単なる謙遜として聞こえただろう。
 ただの化粧師に国章を与えるなとかつて口にした、フォルトゥーナの耳にどう響くかまでは知らない。
 笑みを深めてフォルトゥーナが言う。
「ではそういたしましょう。マリアージュ様もわたくしの官たちに格別な敬称は必要ございません。どうぞ、よくしてやってくださいませ」
 改めて紹介いたしましょう、と、彼女はファビアンに並ぶ官たちを順に示唆した。
 老年の男が宰相グザヴィエ。フォルトゥーナたちの護衛騎士をバディスタ。他の者たちは省略されたが、中にファビアンの副官クレアの姿もある。
 マリアージュもロディマスとアッセを紹介する。
 名乗り合って挨拶を終え、解散するかに思えたところで、ディトラウトが姿を見せた。
 立ち去りかけていたふたりの女王を彼は引きとめる。
「マリアージュ女王陛下、並びに、フォルトゥーナ女王陛下」
 優雅な所作で一礼する男がその場の空気を一変して塗り替える。
 彼の方を顧みたふたりの女王の反応は同じようで対極だった。
 フォルトゥーナは含みのないにこやかな笑顔を男に向けて、マリアージュは冷ややかさを秘めた笑みをくちびるに載せる。
 まずはマリアージュが親しみたっぷりに声を掛けた。
「ごきげんよう、イェルニ卿。セレネスティ様はおいでではないの?」
「まもなく参ります。一足先に、わたくしが皆さまにご挨拶すべく参上いたしました」
 ふたりの女王への美辞麗句や、昨年の表敬訪問への感謝を、彼は適度に織り交ぜて述べる。
 その口の滑らかさたるや。相変わらずなことだ。呆れを通り越して感心する。
 男はダイにもにこりと笑顔を向けた。
「ご無沙汰しております。その節はお世話に」
「こちらこそ」
 ダイも彼に倣ってにっこりと笑う。
「どうぞ、よろしくお願いいたします」
 一年ぶりの会話はふた言で終わった。
 かに見えた。
「えぇ……」
 ディトラウトが頷き返しながら、ゆっくり目を細めてダイを見る。
 観察の、眼差し。
(……なに?)
 困惑するダイをよそに、男の視線はマリアージュへと移る。今度は批難の目だ。
 マリアージュが半眼となってダイを見下ろす。
 その意は何となく読み取れた――あんたのせいよ。
(……何で私が)
 マリアージュから責めの目で見られなければならないのだ。
 何をマリアージュに訴えたのかと、ダイはディトラウトを睨め付けた。
 彼はすでにダイを見ていなかった。
 薄氷色の衣裳の裾を曳き、頭部の紗に連なる鈴をちりりと鳴らして、老騎士を伴い現れる、妹の方を向いていた。
 甘さを帯びた掠れた声が、遠方よりディトラウトを呼ぶ。
「兄上」
 セレネスティ・イェルニ・ペルフィリア。
 ディトラウトが妹に支えの手を差し伸べる。その手を取って彼女は皆との距離を詰めた。
「ご無沙汰しておりますわ、皆さま。またお会いできてうれしく存じます」
「こちらこそ……。少し、お痩せになられたのではなくて?」
 挨拶を言い止めて、フォルトゥーナが述べた。
 確かに、と、ダイも彼女に同意した。儚げな印象が濃くなったような気がする。
 勘違いかもしれない。最後に会ってから一年だ。その上、彼女は前回も紗で顔を覆っていた。
「ご心配には及びません」
 セレネスティが強く断じて、紗の向こうで眉尻を下げる。
「お気を遣ってくださり、感謝申し上げます」
 やわらかくも剣呑な光を蒼の双眸に浮かべて彼女は微笑んだ。
「本日はよろしくお願いいたします……。どうぞ、お手柔らかに」


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