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第七章 衝突する探究者 3


 ダイは呼吸を整えて、現れた男と対峙した。
「アバスカル卿。ここがどこだかおわかりで?」
「お二方を返していただこう」
 ダイの問いに答えるつもりは、ヘラルド・アバスカルにはないらしい。
 ダイを睥睨して彼は吐き捨てるように呻いた。
「あのときに解放なぞするのではなかった……。女官くずれに国章を与えるなど、狂気の沙汰とは思っていたが、最初から姪の子飼いだったか」
「私はカレスティア宰相と、先日会ったばかりですよ」
「アーダムが一枚噛んでいるようだな」
「……アルヴィー、会話が通じないんですが」
 職を見下された点は無論、意思疎通できずに苛立つ。
 ダイがげっそりとして呻けば、アルヴィナが、困ったねぇ、と、ちっとも困っていなさそうな声を寄越した。
「面倒だねぇ。もうさくっとやっちゃう?」
「さくっと何をするんですか、何を。もう少しだけ、待ってください」
 ダイの情報はサイアリーズからのものに限られていた。ヘラルドの言い分を聞いてみたかったのだ。
 ダイは頭痛を堪えつつ、質問の言葉を選んだ。
「えぇっと……。アクセリナ様たちを返せとはどういう意味でしょう。わたくしたちはあなたのお国の宰相より依頼を受けて、このおふたりをお預かりしているにすぎません」
「我が姪は我が国に弓引くものだ。こともあろうか陛下を拉致し、娘御たるアクセリナ様までかどわかした」
「……アバスカル卿はアタラクシア様こそゼムナムの女王でいらっしゃると?」
「その通りだ」
(サイアの話と食い違いますね……)
 対立しているというのだから、話に差異はあると踏んでいた。まさか女王が誰かという点すら異なるとは。
 ダイは眉間にしわを寄せた。
「カレスティア宰相からは、今年の初めに譲位があったと伺っていますし、アクセリナ様ご自身も国主としての自覚がおありのようですが」
「姪の妄言である。アクセリナ様はまだ幼く、状況を理解おいででない」
「朕は王だ!」
 ヘラルドとダイの会話に、アクセリナが割り入った。
 肩を怒らせた彼女がくちびるを戦慄かせて叫ぶ。
「女王は朕だ! 勝手なことを言うな、ヘラルド!」
「アクセリナ様。我々の前ではそうおっしゃっても構いません。この少年は他国の官です。他の国の者を惑わすような発言は、お控え頂きますよう」
「ヘラルド……!」
「アクセリナ様。館に戻りますぞ。彼らに迷惑を掛けたいとお思いですか?」
「勝手にひとを脅しの材料に使わないでくださいますか、アバスカル卿」
 ヘラルドに従いかけるアクセリナの肩を押し留めて、ダイは苦情を述べた。
「あなたにお二人をお渡しするわけには参りません。カレスティア宰相がそれを望めば従いますが」
「自国の事を思うならば、速やかにお二方を引き渡せ。それとも自国を捨て、サイアリーズにおもねるか」
「たいへん勘違いされておいでなので訂正しますが、私の王はマリアージュ・ミズウィーリ・デルリゲイリア、ただおひとりです。カレスティア宰相におもねるつもりは全くありません。私が宰相の指示を優先するのは、彼女がドンファンといった国々や、数多くの団体から、しかと認められるゼムナムの宰相で、あなたはその下に従うべき官にすぎないからです」
 顔をしかめるヘラルドの背後に、見覚えのある男が姿を見せる。隻眼の兵。ナシオ、と言ったか。
 彼はヘラルドに報告した。
「兵を逃がしました」
「無能が」
「申し訳ありません。追うには限界があります」
「……どやつも期待に応えん。お前もだぞ、オクト」
「ヘラルド様……」
 床に崩れたままの女が青い顔を起こした。彼女がアルヴィナを指して叫ぶ。
「この女、魔術師です、ヘラルド様! 拘束すべきよ、ナシオ! 危険です! この女っ、私の上塗りを剥がして……!」
「上塗りを剥がせるような魔術師なぞ、この世にはおらぬ。失態を演じたのみならず、私を愚弄するのかね?」
 ヘラルドが嫌悪を滲ませて女に言葉を吐き捨てた。
 なるほど。上塗りの解除は稀有どころかありえない術らしい。
「とにかく……カレスティア宰相を交えて話し合いませんか。国交問題に発展しかねませんよ」
「その必要はない」
「必要はあるさ」
 断じたヘラルドを否定した声は、サイアリーズのものだった。
 ヘラルドとナシオが驚きの表情を浮かべ、揃って背後を顧みる。
 イスウィルを先導役にして、女の侍従の補助を受けて階段を登る、サイアリーズの姿が見えた。
 階段を登りきったサイアリーズが、ヘラルドの肩越しにダイと目を合わす。
「無事でほっとしたよ、ダイ」
「この状況でまだ安心しないでください」
 ナシオは剣を鞘から抜き放っているし、イスウィルも臨戦態勢を崩していない。ダイの隣のアルヴィナは自然体だが、抜け目なく周囲に気を配っているようだ。
「ユマたちは無事ですか?」
「危急を本館に知らせたのは彼女だよ。君の護衛も無事。下で陛下にことの次第を報告している最中だ」
「陛下……って、マリアージュ様も来てらっしゃるんですか!?」
 ダイは頭を抱えたくなった。マリアージュには是非とも館で報告を大人しく待っていてほしかった。
「君の女王はじっとしていられない性質であらせられる」
 面白がるような響きでサイアリーズはダイに述べ、一拍のちにはヘラルドたちを冷淡な目で射ていた。
「さて、とんでもないことをしでかしてくださいましたね、伯父上」
「私からしてみれば、お前のほうがよほどとんでもないことをしでかしている」
 サイアリーズを睨み返してヘラルドは呻いた。
「他国に陛下を預けるとは……反逆者め」
「どちらが! 兵を率いてこちらに踏み込んでくる愚か者とは思いませんでしたよ」
「陛下をお救いするためだ」
「妄言もいい加減にしてもらいましょうか、ヘラルド・アバスカル」
「お前こそ立場をわきまえろ。お前の地位は神より宣下が下されたからこそだ。なのにお前は聖女を軽んじ、神に背くことばかりをする。お前の行いは国を滅ぼす。……アッシュバーン王のように!」
 アッシュバーンの名はダイも知っている。魔の公国最後の国主だ。
 国主は女で在るべきという神の意志に背き、女王の座に就いたメイゼンブル公家の長子。彼は《滅びの魔女》を国に招いてその歴史に終止符を打った。
「国には正統な血筋が必要である。遺憾ながらアクセリナ王女にはそれが足らんのだ」
「聖女の血の濃さよりも必要なものを、アクセリナ女王陛下はお持ちです」
 サイアリーズがヘラルドに決然と主張する。
「いまの我が国に必要なものは確固たる自立です。他国の滅亡に引き摺られないだけの国力。それを象徴する我が国だけの王家。アクセリナ女王陛下はその血をしかと継ぐ、玉座に足るお方だ」
 アクセリナの肩の震えをてのひら越しに感じ、ダイは彼女を見下ろした。
 アクセリナは拳を強く握りしめ、宰相とその伯父を凝視していた。
「わたくしとて、教会の一教徒です。主神と聖女を、軽んじているわけではない」
 サイアリーズが低い声音で告げる。
「ただ、いまの国に聖女の血の濃さは必要ない。そればかりを求め、ここでメイゼンブルからの姫を玉座に就ければ……小スカナジアに生きる亡霊たちを国に招き入れることになる」
 小スカナジアにはメイゼンブル貴族の生き残りが住まう。
 過去の栄光に思いを馳せ、現状への不満を燻らせる、生ける屍とも呼ぶべき老貴族たち。
 サイアリーズが激昂する。
「ゼムナムを彼らの巣窟にするつもりか! 血の惨劇を、また呼び起こしたいのか!」
「そのようなことはさせん」
 ヘラルドが低く反駁して、アクセリナに向き直った。
「年端もゆかぬ国主を戴くほうがよほど国に災禍を招こう。……それに国を負えば母の傍にいることも叶わなくなろう。母親思いであらせられる王女には辛いことではあるますまいか」
「朕は……」
 アクセリナが思案に押し黙る。
 ヘラルドが彼女に掛ける声はやさしかった。
「王女、よくお考え召されよ。必要のない重石を、宰相はあなたに背負わせようとしているのだ。王座はあなたと国を不幸にいたします」
「陛下、ヘラルドの言葉に耳を傾けてはなりません」
 ふたりの臣下の板挟みとなったアクセリナは、下唇を噛みしめて震えている。
 難しい問題だ。
 アクセリナ自身、宰相に促されて玉座に就いた面も大きいだろう。責務すべてをアクセリナが理解していたとは思えない。
 事態を傍観していたダイは、彼女の傍らに片膝を突いた。
「深く考えるのはやめましょう、陛下」
 女王の肩を軽く叩いて、ダイは彼女にささやく。
「女王で在りたいか、在りたくないか、だけを決めてください」
 ――ダイの主君たるマリアージュ・ミズウィーリは、当初、女王になどなりたくはないと述べていた。
 それでも彼女はいまも女王だ。そうあるべく力を尽くしている。周囲がそれを支えている。
 女王の座に在り続けると彼女が決めたからだ。
「サイアとアバスカル卿の言うことは無視してください。あのふたりは自分の論理を振りかざしているだけ。あなたが決めればよいのです。あとのことを考える必要はありません」
 後始末はアクセリナの選択を支持した人間がするだろう。
 ダイは再びアクセリナに促した。
「決めてください。できないなら、どちらにしろ、女王の荷は重いものになりますから」
「朕は女王だ」
 アクセリナがヘラルドに宣言する。
 震えたままだったが、芯のある声音だった。
「母上のようなおひとが、いない国をつくるのだって、サイアが言って。朕はサイアに、そうしてくれと言ったから、だから。朕は女王だ。これからも……朕は女王だ。ヘラルド」
「――ダイ!」
 アルヴィナが警告を発して、ダイを横抱きにして跳んだ。
 流れる視界のなかでヘラルドが一歩踏み出し、短剣を振りかぶる。
 その切っ先は取り残されたアクセリナに向いている。
 彼女は硬直したままだ。サイアリーズも動かない――彼女は、動けない。
「へいか!」
 ダイの叫びと重なって、だん、と、踏鞴を踏む音が響いた。
 イスウィルがナシオの脇を抜け、得物でヘラルドの背を裂いた。ぱっと鮮血が尾を曳いて宙に散る。
 ヘラルドが短剣を取り落として、咆哮を上げながらその場に崩れた。
「あがあああああっ!!!」
 ナシオが主人を一瞥して舌打ちする。
 しかし助ける様子を見せることはなかった。主人に背を向けた彼はサイアリーズに短剣を突きだす。
 刃を左の二の腕から下で受けて、ゼムナムの宰相は嘲弄に笑んだ。
 ナシオの剣はサイアリーズの腕に食い込んで、抜ける気配を見せない。
 血も、零れない。
「伯父上もお前も、昔から詰めが甘い」
 杖から抜き放った細身の剣をサイアリーズが上に振り抜く。
 銀の一条がナシオの顔に斜めに奔る。
 室内にふたり分の悲鳴が上がった。
『がああああああああっ!!』
 アルヴィナに抱えられたままダイは背後を振り返った。
 王母の寝台の傍らに光の柱が立っている。そのなかには人影があった。踊るように身をくねらせた影は、光の柱の収束と共に姿を消した。
 笑んだまま虚空を見つめる王母を除いて。
 ヘラルド子飼いの魔術師の女も、だれも。
 いなくなった。
 塵ひとつすら残らぬ消失。背筋に冷たいものを感じてダイは友人の魔術師を見た。彼女はダイに微笑んで、立ち上がった。その視線の先ではヘラルドが床に伏して荒い息を吐いていた。
 ダイは腰を上げてアクセリナに歩み寄った。
「大丈夫ですか、陛下……」
 アクセリナは答えない。
 ダイは彼女の手を取った。ちいさな手は氷のようだった。
「……派手にやらかしたわね」
 苦々しさの混じる主君の声にダイは面を上げた。
 騎士たちを連れたマリアージュが、サイアリーズの背後に立っていた。
「……申し訳ありません。ご迷惑をおかけします」
「……大丈夫なの、あなた」
「えぇ、わたくしは。義手ですから」
 サイアリーズがナシオの剣を抜き、マリアージュに手を振って見せる。
「あなたの化粧師もご無事です。巻き込んでしまい、本当に申し訳ない」
「あの子の危険を呼び込む体質は元からよ」
「えぇ……。そういう言い方ってないですよ……」
 あまりの言いぐさだ。ダイはどっと疲労を覚えた。
「う……ぐ……」
 失いかけた緊張感をヘラルドの呻きが引き戻す。彼は血に濡れた手を、アクセリナに伸ばしていた。
「しにたく……ない……」
「この後におよんで陛下に助けを求めるか」
 サイアリーズがヘラルドを睥睨する。唾棄せん勢いだ。
「どうします? 助けたほうがいいのかしら」
 ヘラルドの頭上に立ったアルヴィナが小首をかしげる。
 サイアリーズが驚愕の響きで問いを口にした。
「助けられるのか? これで?」
「うーん、いまならね」
 アルヴィナが指揮者のように指を振る。義手の穴が見る間に塞がっていく。
 サイアリーズの顔色が変わった。
 アルヴィナはやわらかな微笑を浮かべたままだ。
「ダイとマリア……ジュ、女王陛下の、利益になるならいたしますけど? アクセリナ女王はどうしたいかしら?」
「朕、は?」
 唐突に話の矛先を向けられたアクセリナが怯えの顔で慄いた。
 アルヴィナが首肯する。
「そうよ。……これは、あなたの臣下でしょう? 助ける? 助けない?」
「アルヴィナ……だったな。陛下にそのような」
「甘やかさないのよ、宰相」
 アルヴィナがサイアリーズを冷やかに叱咤した。
「お国の民すべての命を背負うのでしょう。命ひとつの行く末も決められないでどうするの? ……助けたいならマリアージュ女王に依頼するの。私の仕える女王が王命を下すなら、助けましょう」
 アクセリナがアルヴィナとヘラルドの顔を見比べる。そこには逡巡が見られた。
 ヘラルドがごぼりと血の泡を吐いた。
 瞳孔が開いていく――……。
「あぁ、だめだわ」
 アルヴィナが言った。
「もう、助けられないわね……」
 ヘラルド・アバスカルは、まぼろばの地へと旅立った。
 重苦しい沈黙が室内に広がっていく。
 床の上に満ちる血のように。



 ――ヘラルド・アバスカルの死から数えて三日。
 ロディマスが小スカナジアに到着した。
 その、翌朝である。
「何をどう突っ込めばいいのかわからない……」
「わるかったわね」
 マリアージュは己の宰相を見つめて息を吐いた。
 留守中の仔細を聞き知った彼は、椅子の上で頭を抱えている。
「気を回してひと足先に送り出してくれたのに。全然休暇にはならなかったわ」
「君たちの気性だからゆっくりしているとは思わなかったけどね! でもゼムナムの御家騒動に巻き込まれているとは、さすがに予想の斜め上だよ!!」
「私もこんなことになるとは思ってなかったわよ」
「本番はこれからなのに先行きが不安すぎる」
「胃薬調合してもらいなさいよ」
「胃薬でどうにかなる事態に収めていただけませんか」
 ロディマスに同情する気はない。逆に労ってほしいほどだ。
 相談役の宰相が不在のまま、事態に対処せねばならなかった、こちらの身にもなってほしい。
「それで、ダイをひとりで動かしてもいいのかい?」
「動かさないわけにはいかないでしょう」
 《国章持ち》を社交に出し惜しみしても益はない。ダイがマリアージュと常に一緒では非効率だが、これまで単独行動には人員不足で不安があった。
 ロディマスたち後発が到着して、騎士や文官の数にも余裕が出た。
 今日のダイは小スカナジア宮に赴いている。
「だいたい、動かさないようにしていてこれなんだから。……監視役は最大限つけたわよ」
 アッセにユベールにランディのアルヴィナ付き。文官はモーリスを筆頭に五名。女官はユマとリノ以下三名。これで何かあったらもう笑うしかない。
 ロディマスが深いため息交じりに呻く。
「何はともあれ……国交問題に発展せず、本当によかった」
「問題どころか、貸しを大量に作ったわよ」
 マリアージュは天井を仰いで呟いた。
 厄介ごとに巻き込まれたおかげで、大陸会議の下準備はかなり進んだ。方々に顔を売ったし、各国の情報も多く得た。流民問題を提議する際の支持も願えた。
 あの化粧師が引き連れてくるものは難問なのだろうか。
 それとも。



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