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第七章 衝突する探究者 1


 小スカナジア宮に社交用として開放された広間は、会議まで日があるにもかかわらず、現地入りした国々の者たちで大いに賑わっていた。
「このようにお近づきとなる機を得られたこと、心より嬉しく存じます」
 女が優雅に礼をとる。こちらこそ、と、返礼しつつ、マリアージュは彼女を盗み見た。
 人の好さそうなおっとりとした雰囲気を纏う貴婦人だ。年は三十半ば。会議参加国代表のなかでは最年長。ゼムナムと懇意にする三カ国が一角、ドンファンの女王である。その外衣には十字架めいた剣と鈴蘭を配した国章。隣には老年の域に差し掛かった騎士の男。国章を負う彼は女王の夫でもあるという。
「わたくしに多くの助言を与えてくださる、師も同然の方なのですよ」
 ドンファンの女王を紹介するサイアリーズへマリアージュは鷹揚に頷いた。
 サイアリーズに好意を示された当人が、広げた扇で口元を覆って軽やかに笑う。
「ゼムナムの宰相どのは、相変わらずお口がお上手なこと」
「事実を申し上げたまでですよ」
 ドンファンとの間を仲立ちするサイアリーズは、舌の滑りもよく女王たちに賞賛を送りながら、マリアージュにかの国の現状を説明していった。
 ドンファンの女王は魔の公国が滅びた早い段階で代替わりした。即位は今年で十六年目。この辺りまではマリアージュも把握している。その一方で、先代からの重鎮がいまだに現役である点は初耳だった。マリアージュはそれを、国章持ちの騎士が紹介されるくだりで知った。彼は先代にも重用されていた騎士のひとりだったという。
 ドンファンの者たちを送り出せば、商工協会の者たちが挨拶に訪れた。続いて聖女教会、ほか、多くの団体の者たちがサイアリーズを訪ねて現れる。
 彼らの紹介をマリアージュはサイアリーズから順繰りに受けていった。
 壁際に設えられた休憩所でひと息入れたときには、この広間を訪れてからもう一刻以上を過ぎていた。
 紹介された人数の概算を頭の中で出して、マリアージュは正直に感心の意を示した。
「あなた、本当に顔が広いのね」
「陛下の助けとなりましたか?」
「えぇ、とても」
 玻璃製の高杯を給仕から受け取りながらマリアージュは首肯した。
 デルリゲイリアは先代女王エイレーネの御世以前から、メイゼンブルを宗主国としながらも高い独立性を保ち、大陸諸国との外交は最小限に留めていたと思われる。
 その閉鎖性がこの大陸会議において不利な要素となっていた。文官たちの顔が他国に利かないのだ。情報が制限されているため、相手の立場を正確に把握しきれない。そのような状態で話しかけることは躊躇われる。
 その上、女王や宰相、《国章持ち》といった立場でなければ、先方もマリアージュからの声が掛かるまで待つ立場だ。
 これほどまでに人脈が乏しくて、美術、工芸品といった特産をどのように他国へ売り込んでいたのか。先代の首を絞めて揺さぶり問い質したいぐらいだ――自己研鑽に余念のない職人たちと商気たくましい商人たちが、為政者に代わって力を尽くしていたのだろうが。
 顔を広めるきっかけを得られずに、マリアージュは頭を悩ませていた。
 その問題をサイアリーズが解決した。
「見返りに足りますでしょうか?」
「そうね。あとは会議内で我が国に賛同いただければ」
 マリアージュは微笑んでサイアリーズに応えを返した。
 大陸会議中、自国の利や方針と反しないかぎりはゼムナムと共闘すること。そして、王母アタラクシアの保護。この二点と引き換えとしてマリアージュもサイアリーズに要請した。デルリゲイリアが提起する流民対策への後押しと、大陸会議期間中に顔を合わせる諸国や団体との仲立ちだ。
 加えて、もうひとつ。
「深く感謝しているわ、カレスティア宰相。……ご親族にダイが触れることまで、許可してくださって」
「名高い《国章持ち》の化粧師に、肌を診ていただける機会を逃す手などありませんよ、陛下。……不思議なお申し出でしたけれども」
 デルリゲイリア側の離れで預かる王母には監視役としてダイが付いている。ロディマスたち後発組が未着という人員の少ない現状で、出歩いては問題を引きつれてくる傾向のあるダイには、館に引きこもっていてほしかったのだ。
 まどろんでばかりのアタラクシアの傍で、ダイは会議参加国の歴史を浚いなおしたり、文官たちからあがる報告書に目を通したりしている。文官も顔負けの働きぶりだとは、護衛に付けている騎士たちの弁だ。
 しかし生来のダイは書類に長時間向き合える性質ではない。
 気が逸れて王母を眺めるうちに彼女の病み衰えた肌が気になったらしい。手入れをすればもうすこし健常に見えるといった旨を、ダイがしきりに漏らすので、マリアージュはサイアリーズに打診したのだ。
 ダイに化粧をさせてやってもよいかと。
 マリアージュは杯の中身を揺らして言った。
「近頃は本業を疎かにしがちでしたもの」
「あなたの化粧師はよく働いているように見えますが?」
「《国章持ち》としてはそうでしょう」
 それ以前にダイは化粧師だ。
 マリアージュの発言の意をうまく汲み取れなかったのだろう。サイアリーズが首を傾げる。マリアージュは何でもないと頭を振って、杯の縁に口を付けた。


「これでよし、と……」
 たらいとたっぷりの湯。清潔な布巾を数枚。精油を初めとする化粧品類はゼムナム側が用意した。王母の肌に触れるものだ。安全性を考えれば当然のこと。ダイとしても手持ちを減らさずに済んで、願ったり叶ったりである。
 イスウィルがダイの呟きに反応し、王母を寝台から長椅子へと移す。サイアリーズの影のようであった彼はいま、王母の護衛を勤めている。もちろん腕は立つのだろうが、それ以上に特筆すべきは彼の気の配り方だ。並の侍女では対抗できないものだった。
 指示を出すまえに心得た様子で、過不足なく物事を手配するさまは、有能のひと言に尽きた。壁際に控えるランディとユマが唖然とするほどである。
 イスウィルが王母の背に枕を差し入れてダイに小首をかしげて見せる。王母の顔の高さのよしあしを尋ねているようだ。
「ちょうどいいと思います。ありがとうございます」
 ダイは答えて、イスウィルが引いた椅子に腰かけた。化粧品類を支度した台車もすぐ手の届く位置だ。
 よし、と、ダイは気合を入れた。まずは手を清めるところから。
 王母をデルリゲイリア側で預かり始めて四日目。ダイは王母の肌の手入れと化粧を行うこととなった。マリアージュの命令だ。
 ダイが病み衰えた王母の肌に対し感想を述べたからか、それとも外交の駆け引きの一端が理由かはわからない。
(化粧させてやるから、うろつくなってことっぽいですけど)
 ダイはここまできてようやっと、騒動を引き寄せる性質をしているやもと、自覚してきた――したくもなかったが。
 理由はどうあれ、マリアージュ以外の肌にはひさかたぶりに触れる。
 ダイは長椅子に横たわる王母を見下ろした。
 王母アタラクシアは品のあるうつくしい面差しの婦人だった。ただ、艶を失った髪や黄疸の走った肌、血管の浮いた痩せ衰えた腕が、病床に伏して長い女なのだと告げていた。
 まず湯を絞った布で王母の顔の肌を蒸す。数呼間を待ってから同じ布を用いて顔面と首筋を拭い清めた。
 次は精油を。手のひらで温めたのち、丹念に肌に塗り延ばす。
 手の腹と指先の力加減を調節しつつ、こわばった肌をゆっくり解していく。
 傍らのイスウィルが興味深そうにダイの手元を見下ろしている。ダイはちいさく笑って、彼に湯につけ置いている布を絞るように指示した。
 イスウィルの差し出した布で再び肌を蒸す。続けて、薔薇水。乳液。細かい箇所まで塗布する。涎の付着によって裂傷の見られる口の端は、特にきちんと馴染ませた。
 黄色くくすんでいた肌が、血色と明るさを取り戻す。
 ダイは手を洗った。土台は作り終えた。化粧に移る。
「イスウィルさん、道具を」
 ダイはイスウィルに要請した。彼は珍しく放心していたようだった。
 イスウィルが慌てて動き出す。
 彼は台車の上から盆ごとたらいと精油を取り上げ、代わりに化粧道具の載った盆を据え置いた。
 色板と筆を広げる。
 下地となるかための乳液を手にとり、ひと肌に温める。
 そして再度、ダイは王母の肌に触れた。
 自分の指の滑り具合、筆の毛先のしなり、板に並ぶ色の彩。窓から射す陽光の色合いを加味した発色具合。
 そういった化粧に必要な物事だけが意識に残る。
 手を動かし続けながら、ダイは胸中で独りごちた。
(本当にひさしぶりだな)
 このように時間をかけて化粧をすることは。
 マリアージュ以外の肌に触れること自体、長らくなかった。
 彼女に召し抱えられて以来、化粧の回数は減りがちだ。特にここ数か月。クラン・ハイヴから戻って以降は、商人たちや貴族たちとの人脈作りに腐心していて、化粧に至っては教育の側に回ることが多く、主君の肌にすら触れない日も少なくなかった。
 花街では日に数十もの女の貌をつくっていたというのに。
 ダイはそろりと息を吐いた。
(考えるな)
 決めたはずだ。
 マリアージュを真なる国主とする。そのために自分が出来る最大限の努力を。
 過去の有り方には拘泥しない。
 そう、決めたはずだ。
 化粧師たる自分が国章を負いながら、王の傍に侍るには、これまで通りを貫くことはできない。
 たとえば宰相。
 たとえば騎士。
 政務官。女官でも。
 何でもいい。女王の傍らに在って当然とされる者なら、その職務に注力するだけで、国章をまとうに足ると認められただろう。
(わたしはちがう)
 化粧師は不要な存在だ。女王に化粧するだけならば、女官で事足りると囁かれる。
 中性的な顔立ちに、性別に反した装い。ダイがマリアージュの目を楽しませる人形だとうそぶく者も多い。
 ダイの存在が女王を貶める。
 だから。
 ダイは硬く目を閉じた。手に取りかけていた容器を盆の上に置く。呼吸を整える。
 ダイは雑念を頭の隅に押しやった――いまは、目の前の仕事に集中すべきだ。
 螺鈿細工の容器を改めて取り上げる。蓋を開ける。中身は水色の練粉だ。長年の病床からくる肌のくすみは、血流を促すことで軽減はできても取り去れない。それもこの色の練粉を塗布すれば、ぐっとやわらぐ。
 上瞼。下瞼。目尻と目頭、頬骨を結ぶように、三角形に。そして、くちびるの下。口角部分。
 青みが残らぬようしっかりと馴染ませた上から、生来の肌色に合わせた色の練粉を薄く上掛けし、目の詰まった海綿を押し当てて馴染ませる。
 大振りの筆で白粉をさっと被せ、次は眉。骨格に沿って整えた。くちびるには蜜蝋と煉瓦色に近い紅を。頬は筆で扁桃の花に似た薄紅を広範囲に刷く――……。
 だだだだ、と、忙しない足音が、部屋に近づく。
 仕事に没頭していたダイは、はっと我に返った。作業の手を止めて扉を振り返る。
 この別宅の存在を知る者はデルリゲイリア側でもそう多くない。
 誰何の問いを投げる間もなく、ランディが開いた扉を抜けて、童女が室内に飛び込んできた。
「朕がきたぞ!」
 アクセリナだ。
 息を弾ませた幼きゼムナムの女王は、頬を上気させて両手を前に突きだす。
「ダイ! 朕は、ははうえに、花を持ってまいった! 飾れ!」
「あ、すみません。いま手が離せないんで、無理です」
「朕がめいじているのだぞ!」
「私に命令できる御方はあなたではありませんよ。……ユマ」
 アクセリナの肩越しに、花瓶を、と、依頼する。ユマは了承の徴ににっこり笑って退室した。イスウィルも動きたかっただろうが、彼はダイの見張りだ。この場を安易に離れられない。
 アクセリナが頬を膨らませて、ダイの隣の椅子に腰を落とす。
「おまえはサイアと同じだ。朕のいうことをきかん」
「あなたの宰相と私とでは立場が違うってだけです」
「ヘラルドは朕の言うことをきくぞ」
「アバスカル卿? すぐに命令に従ってくださる方が、陛下の味方とはかぎりませんよ」
「むぅ?」
 アクセリナが首を捻る。サイアリーズから現状を説明されているだろうに。
 ダイはアクセリナを一瞥した。
 黒々とした豊かな髪。強い光を湛えた金の瞳。肌色は稲穂を垂れた小麦のそれ。仕立てのよい衣服に包まれた手足は子どもらしく、ふっくらとしている。
 ダイは化粧の仕上げに取り掛かりながら自問した。
(私が六歳のときって、どんなだったかな……)
 そのころには化粧の師に付いて仕事を始めていた。物事の判断は彼か、アスマの指示によるものだった。
 性別の件や立ち振る舞い、集団生活における諸注意、他、様々な決まりごとについて、そうなる理由を説明されたものの、ダイ自身は理解しきって従っていたわけではなかった、と、思う。
(となれば、無理もない、か)
 アクセリナはダイの立場すら正確に把握できずにいる。宰相とその伯父の確執についても、理解しえないだろう。どちらの発言に従うべきかを識別するなど、この女王には不可能に違いない。
 ダイとてヘラルドと対話したわけではない。サイアリーズの言葉すべてを、鵜呑みにはできないのだが。
「ダイは母上になにをしておるのだ?」
「肌の手入れと、お化粧です」
 興味深そうに手元を覗くアクセリナにダイは答えた。おけしょう、と、アクセリナが反芻する。
「おけしょう、は、眠っておるものにもするのか?」
「アタラクシア様は起きていらっしゃいますよ」
「だが、朕にこたえん」
「陛下の呼びかけに気付かれていないだけでしょう。もしもお眠りだったとしても、きれいにしてもらえば、それはそれで気持ちよいものでは?」
「ふむぅ。そうか……」
「さ、できました」
 ダイは筆で余分な粉を王母から払落した。取り払った粉除けをイスウィルに手渡し、そのまま櫛を取り上げる。
 髪を梳いて編み直したアタラクシアは、いましがた長椅子に横になってやさしい夢に落ちてしまった、そのようにしか見えなくなった。
「……ははうえ、おきれいだ」
「本当ですね。……お美しい方です」
 余計な色味を抑え、肌の色つやの改善に注力した化粧は、アタラクシア本来の顔立ちの良さを際立たせる。
 王母の貌にはサイアリーズの面影があった。彼女たちの血縁がごく近いものであることを感じさせた。
「いつもより、笑っておられる気がする」
「陛下がお花を持ってきてくださったからですよ、きっと」
 台車に代わって据えられた円卓に、ユマがアクセリナによって持ち込まれた花を活けている。
 黄と白。色違いの花の束。
「この花はどちらから?」
「庭だ。いっぱい咲いておった。この黄色は朕の目の色と同じだ。きれいだろう」
「……そうですね」
「母上の目も同じ色なのだぞ」
 ダイは王母を見た。彼女の落ちた瞼の奥の色を、はきと知ることは困難だった。
 母との共通点を誇らしげに語る女王に、ダイはあたたかな心地になって言った。
「……陛下はお母上がお好きなのですね」
「うん」
 アクセリナが力強く頷く。
「母上は朕をうんでくださった。たいへんなことだったのだ、と、サイアが言っておった。それでも、母上は朕をうんでくださったのだ。それに、サイアにも、イスウィルにも、ロンやディンにも、母上がいない。母上がいる朕は、たいへん、たいへん、幸せ者なのだ。朕は母上を、たいせつにせねばならん」
 ロンやディンはアクセリナの近習だろう。彼らもまた過去の内乱時に血縁を失ったに違いない。
「ダイに母上はおるのか?」
「生みの親はもういませんね。私が陛下ぐらいの年になくなりました」
「そうか。かなしいな」
 アクセリナが母親の手を握って呟く。本当に悲しそうだ。
 ダイは女王の隣に立ってアクセリナに告げた。
「陛下は善き王におなりでしょうね」
「よきおうにおなり?」
「立派な……すばらしい女王になる、と申し上げました」
 ひとの心に添う君主に。
 この幼い女王が軽んじられて、弄ばれることがないよう、ダイは祈らずにはいられない。
 ダイの言葉にアクセリナが大きく頷く。
「朕が、りっぱな女王であったら、母上もよろこぶであろうな」
「そうですね」
 希望を込めてダイは同意した。けれどもアクセリナの表情は暗かった。
「母上は起きていると、ダイは言ったな。母上は眠っていると、サイアなら言うのに」
「アタラクシア様の御心は私たちと少し違うところにあるのです。まぁ、眠っているようなものです」
 アタラクシアの症状はダイの生母のものとよく似ている。生きることが辛くて現実を放棄したのだ。
 生母が死んだとき、ダイはよかった、と、思うことしかできなかった。
 地は魔を縛する獄の如し――そこより解放され、父の下に向かえて、本当によかったと。
「陛下はお母上に元気になって頂きたいのですか?」
「もちろんだ!」
 アクセリナがぱっと顔を上げる。必死さすら漂うその顔は、すぐに泣き歪んだ。
「けど……朕にはどうしていいかわからん。それに母上はどうして朕に応えんのだ? 起きておいでなら」
「こちらが辛い場所だと思われているからでしょう」
「……朕がおるのにか」
 アクセリナが肩を落とす。彼女に同情したのか。ダイの視界の端でユマが沈痛な面持ちを浮かべている。
 ひとつ、思いついたことがある。
 けれども勝手に動いてよいものか。
 壁際に台車ごと押しやられた化粧道具を眺め、ダイは、そうですね、と呟いた。
「サイアに訊いてみましょうか。呼びかけ方を、変えてもいいのか」


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