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第五章 舞踏する漂寓者 4


 ――いったい、ルゥナはどうしたというのか。
 一座の馬車へと走りながらダイは自問した。
(上塗りのせい?)
 アルヴィナの言葉から推測するかぎり、
 それがルゥナの不調の理由に違いない。とはいえ、セイスの魔術は衣装と装飾品を誂えただけだ。それでもあのように調子を崩してしまうものなのだろうか。
 ルゥナの顔には死相が見えた。
 ダイは肌が粟立つさまを感じて先を急いだ。
 青年は借家の方へ一座の者たちを呼びにいったらしい。幌馬車にその姿はなく、子どもたちが荷の整理に勤しんでいた。彼らを負傷している少女がひとりで監督している。
 彼女に事情を話して玻璃玉を掻き集め、集会場へ引き返す。
 楽屋に辿り着くとルゥナの悲鳴が響いていた。
「あぁああああぁあいたいいたいいたいっ!!」
「ルゥナ!」
 血走った目をこれでもかと見開き、長椅子の上で背を逸らすルゥナを、セイスが必死に押し留めている。
「ダイ、玻璃は借りられた?」
 戸口で呆然と立ちすくんだダイをアルヴィナが振り返る。ダイは震えながら頷き、裏返った声で尋ねた。
「これです。……マリアージュ様は?」
「マリアには招力石を集めに行ってもらったわ」
「招力石を」
「屑石をね……。セイスくん、どいて」
 ダイから引き取った玻璃玉の連なりをじゃらりと提げて、アルヴィナがセイスを押し退ける。そのくちびるが詠うように何かを口ずさんだ。
『絢爛にして素朴、賢者にして愚者、対極なる四つの色を生み出し母。いまここに聖女の形代が希う』
(魔術の、呪)
 ダイは瞠目してアルヴィナを見た。
 一般的な魔術師は術を行使する際、力ある言葉と呼ばれる呪を唱える。けれどもアルヴィナはどれほど高位な術を用いようと常に無言だったのだ。
 アルヴィナの髪から気泡のような魔の燐光がふつふつと湧き浮かぶ。部屋の内部に淡い緑の光が揺らぐ。
 玻璃玉を握るアルヴィナの手をちいさな魔術の陣が取り囲んだ。それらはルゥナの身体から藻色の霧めいたものを吸い出していく。
 徐々にルゥナの顔の苦痛の色がやわらぎ始めた。
 セイスの表情が安堵らしきものに緩んだ――瞬間だった。
「ダイ、離れて!」
 アルヴィナがダイに鋭く警告する。そして息吐く間もなく、彼女の手の中で玻璃がはじけ飛ぶ。
 生易しいものではない。
 それは、暴発だった。
「アルヴィー!」
 ダイは苦悶の表情で膝を突くアルヴィナに跳び付いた。彼女の右手は二の腕まで真っ赤に染まっている。千切れ飛んだ袖の狭間には薄桃色の肉が覗く。それはほどなくしてごぽりと湧いた鮮血に覆われていった。
「ダイ、離れて……大丈夫だから」
「そんなわけありますか!」
 ダイはアルヴィナに震える声で反論した。早急に止血と消毒を行う必要がある。
 いや、それでは間に合わない。わずかだが骨まで見えた。
「そうだ加療球……!」
「あれは駄目なんだ。この間で魔を使いきった」
 ダイの閃きにセイスが苦い声音で呻く。
「魔を溜めるには時間がかかる」
「本当に大丈夫」
 アルヴィナが額に汗を滲ませたまま微笑んだ。
「だから……悪いけどセイス君、ちょっと布を取ってきてくれない?」
「私もお湯を」
「ダイはここにいて」
 腰を浮かしたダイをアルヴィナがすかさず引き止める。彼女の手に手首を掴まれる感触に、ダイは冷たいものが背を伝うさまを感じた。
 アルヴィナの肌から血の気があまりに失われていたから、ではない。
 骨があらわになるほどの深手だった手のひら。
 それが何事もなかったかのように無傷でダイに触れたのだ。
(……たしかに……)
 一瞬前までは指の数本が吹き飛んでいた。ダイの足許を染めるおびただしい赤色が、アルヴィナの傷の深さを物語っている。
 それなのに――アルヴィナの腕は見る間に元の姿を取り戻した。
 バン、と、背後で扉の閉じる音が響いて、ダイは弾かれたように顧みた。セイスはもう退室しているようだった。
 アルヴィナはダイの手首を解放して立ち上がると、三つ編みに編んだ髪を肩から払い落として言った。
「あぁ……ひさびさに痛い目に遭ったわ。やっぱり玻璃じゃ駄目だったねぇ」
 彼女の細い指が弦楽を指揮するように宙で振られる。その優美な動きと連動して、魔術の陣が燐光を撒き散らしながら現出した。
 虚空が波打ちながら鶏卵ほどもある水晶を生み出す。それらは鈍い音を立てながら、立て続けに床の上に落下していく。
 呆然と立ちすくむダイを振り返ってアルヴィナが笑った。
 いつだったか、ミズウィーリの屋敷で目にした、陰のある微笑。
 アルヴィナは指を鳴らした。水晶がゆるりと浮かんで、ルゥナの周りを取り囲む。
 計五つ。透明度の高い、痂疲のない石ばかりだ。それらは砕け散る寸前の玻璃玉と同様、ルゥナから濃い緑の霧を吸い出していく。
「……腕、は……?」
「大丈夫って言ったでしょお。……すぐに治るの」
 ダイの独り言めいた問いにアルヴィナが応じる。
 ダイは少しばかり冷静さを取り戻し、ルゥナの治療を続ける魔術師に尋ねた。
「魔術で治したんですか?」
「違うわ。言ったでしょ。治るの」
「治る……」
「どんな病も傷も私には無意味。……仮に首を刎ねられたとしても、再生は一瞬でしょうねぇ」
 その壊れた玩具はすぐに直るの、とでも言わんばかりの軽薄さでアルヴィナが告白する。
 ダイは混乱しながら、ただ、呻いた。
「えぇ……?」
「怖い思いをさせてごめんなさいね。……気分悪くない? 大丈夫? 魔封じが解けたから、この部屋の魔の濃度、上がっているはずだもの。……それでなくとも、血なまぐさいから」
 アルヴィナが鼻をちいさく慣らし、床に広がった血だまりを一瞥する。
 やや置いて、それらはわずかな量を残して掻き消えた。
「これでよし。……血は少し残しておかないと、セイス君が戻ってきたとき、おかしいわよねぇ、やっぱり」
「アルヴィーは」
 自分でも驚くほどに大きく、そのくせ裏返った声だった。
 アルヴィナがダイを見据える。彼女の背後では水晶が燐光を散らしながらルゥナを癒している。
 明かりとりがひとつきりの部屋は薄暗い。その中でアルヴィナの白い面がぼうと浮かぶ。
 儚い微笑みを口元に載せたその貌に見覚えがある。
 先日も思った。
 聖女に、似ている……。
 街に点在する礼拝堂で、王城の大聖堂の中で。
 人々の信仰を受け止める聖女シンシア。
「アルヴィーは……だれ、ですか?」
 ダイは声を絞り出して尋ねた。
 アルヴィナが微苦笑を浮かべる。
「あなたが誰を連想したのかわかったわ。……でも外れ」
 わたしは、かのじょじゃない、と、アルヴィナは言った。
「……私は――……世界の傍観者」
 あるいは、と、瞼を閉じて彼女は囁く。
「《眠らぬ死者》と、呼ばれているわ……」
「……ねむらぬ、ししゃ」
 反芻したダイにアルヴィナは首肯した。
「死がないということ。老いもない。完璧な不老不死者」
「おもかみさまということ?」
 死や老化という概念を持たぬものは、まぼろばの地におわす神のみのはず。
 ダイの口から出た問いは赤子のようにつたなかった。
 アルヴィナがきょとんと目を丸めて腹を抱えて噴き出す。
「ぷっははははっ! そんなこと初めて言われたわっ! カミサマ! あはははははっ!!」
 そのあまりにも盛大な笑いに、ダイは思わず口先を尖らせる。
「そんなに笑わなくたっていいじゃないですか……。違うんですか?」
「違うわ。……いまはデルリゲイリアとなっている地で、ひとりの女の胎から生み出された、ただの人間。私は……呪いを受けただけなのよ」
 不老不死となる、呪いを。
 アルヴィナ以外が告げたなら冗談かと一笑するところだ。
 けれどもほかならぬ彼女の告白だからこそ、ダイは素直に受け止められた。
 沈黙しているダイにアルヴィナが苦笑して肩をすくめる。
「信じられなくてもしかたないわねぇ。突拍子もないことだもの」
「いいえ信じますよ。ただ、どうしてそれを私に教えたのかなって、思っただけです」
 誤魔すことはできたはずだ。そもそもアルヴィナの秘密主義は今に始まったことではない。
「ダイにはお願いしたいことがあったの。……ちょうどいいからね」
 片目を閉じて笑ったアルヴィナは片手を胸の前に掲げた。即座にちいさな壺が宙に現れその手に落下する。
 手のひらに収まる程度の素焼きの壺だ。口を塞ぐ皮布には魔術的な幾何学文様が刺繍され、淡い光を放っていた。
 ダイが差し出された壺を引き取って観察するうちに、アルヴィナは細い筆も揃え終わっていた。それらをどこから取りだしたのかは、もう尋ねる気にもならない。
「ダイはひとの身体に色を載せたり描いたりすることに慣れてるよね? ……それで私の身体に描いてほしいものがあるの」
「いいですけど……。絵を身体に描くのは私の専門外ですよ?」
 肌に花や聖女などを描く技術は化粧とはまた別のものだ。
「描いて欲しいものは絵じゃないの。呪なのよ」
 アルヴィナの指がダイの眉間を軽く突いた。即座、直に刻みこまれたかのように、紋様がダイの脳裏に浮かび上がる。
「術の行使は私がするけど、これを身体に描くにはどうしても誰かの手が必要なの」
「わかりました……。でもこれは……何の呪なんですか?」
「《魔封じ》、と呼ばれる術よ。魔力を制限する……拘束具みたいなもの、といったらわかりやすいかしら」
「……わざわざ魔を制限するんですか?」
 高度な魔術を扱うには魔力が必須だ。高ければ高いほどよいだろうに。
 ダイの反応にアルヴィナは自嘲と思しき笑みをくちびるにうっすらと刷いた。
「私の場合、制限しないとあなたたちと一緒に生活できないの。私の魔に充てられて、色々なものに影響が出るわ」
 たとえば天候や気温。季節外れの雷雨や風雪を招くこともあれば、人には生存できない温度まで急上昇することもあるし、その逆もありうるらしい。
「もちろんそれだけじゃなくて、術式を刻んだ道具類や、招力石だって使い物にならなくなる可能性が高いの」
「招力石まで? それは困りますね」
「でしょう? ……その魔封じがさっきの影響で解けてしまったの。いつもお願いしているところに行くにしてもすぐは駄目でしょ? ダイたちを放り出してはいけないものね」
「それはそうですけど……でも、私に魔術の才能はまったくないですよ。その魔封じ、は、すっごく重要な魔術に聞こえますが、私が手助けできるものなんでしょうか?」
「どうにかなるわ。不完全であっても急いでかけ直さなければならないことにはかわりないもの。……ダイなら大丈夫よ。いっつもあれだけ人の姿を塗り替えているんだからね」
「私がしてるのは単なる化粧で魔術じゃありませんよ」
 ダイはため息を吐いた。これ以上は反論しても仕方がない。アルヴィナがダイでよいというのだから。
 ダイに背を向けて胡坐を掻いたアルヴィナが上の服を脱ぐ。
 ダイは思わず息を呑んだ。驚くほどに滑らかで白い肌のアルヴィナの上で、消えかかった赤黒い紋様が蛇のようにのたうっていた。
(これが……《魔封じ》)
 見るからに禍々しい。正直に言えば直視したくない。何ともいえぬ圧迫感をダイに抱かせる。
 壺と筆を抱えたまま固まっていたダイをアルヴィナが振り返る。
「……できそう?」
 アルヴィナの問いにダイは深呼吸をして断言する。
「します」
 ダイは壺を慎重に床に置いた。その口を覆う布を取り去って中を覗く。壺の中にはゆらめく墨。色は判別しにくいが、波打つ面はわずかな光を取り込んで細かく煌めいて見えた。
 ダイは邪魔な袖口を折り返して筆を手に取った。
 その先を壺の中に差し入れかけて、ふと過ぎった考えに手を止める。
 不思議そうに見つめ返すアルヴィナにダイは矢継ぎ早に詰問する。
「アルヴィーはどこにも行きませんよね? 不老不死だってことを、私に教えたからって、急にいなくなったりしませんよね? 私たちのところにいますよね?」
「いきなり消えるつもりは今のところないわよぉ。……どうして?」
「いえ……。ただの、確認です」
 隠していた正体を晒したとき、《あの男》はダイと決別した。
 アルヴィナはどうするのかと、思っただけだ。
「私はいないほうがいいかしら?」
「そんなことないですよ! いてくれなければ困ります!」
 ダイはアルヴィナの問いを全力で否定した。
「いつもいっぱい相談に乗ってもらってばかりで、すごく申し訳ないですけど、でも、アルヴィーはミズウィーリのときから私を知っているお城で唯一の人で、マリアージュ様だってアルヴィーのことをすごく頼りにしていて。アルヴィーがいなくなったら」
 ミズウィーリの使用人棟の上階。がらんとした一室を思い出す。
「……とても、寂しいですよ……」
 あのときの寂寥感はできることならもう抱きたくない。
 沈黙したダイにアルヴィナが大丈夫よと笑いかけた。
「当分は離れる予定はないわ。安心して――とりあえず、呪を描いてくれる? 部屋の出入りを制限しておくにも、限界があるでしょうしね」
 戻ってきたセイスたちが入室しないよう、アルヴィナは部屋に結界を張ったらしい。
「ダイ」
 慌てて筆を墨壺から引き揚げ、癖で色の様子を手の甲で確かめていたダイは、アルヴィナの呼びかけに面を上げた。
「……ありがとう」
 しみじみとしたアルヴィナの謝辞は、彼女の術への協力に対してだけではなく、何か別のことへの礼のように響いた。


「《魔狂い》?」
「そうよ。魔を身体に溜めこみ過ぎた影響でなるの。なるべく、手間暇かけてでも、魔術に頼るのは避けることをお勧めするわ」
 滞在していた村から隣町に移動したダイたちは念願の商工協会で馬車等の手配を待っていた。
 アルヴィナの登録票を見た係の者に通された場所は二階の詰所だ。長卓を囲むかたちで椅子が六脚並ぶだけの簡素な部屋で、埃と黄砂が宙を舞っているものの、人が頻繁に出入りする階下の待合いよりは落ち着ける。
 大道芸の一座とは既に別れ、ルゥナたちとも、という段になり、アルヴィナがやや厳しい声音でルゥナたちに忠告を始めたのだ。
「私がああなったのは、これまでの上塗りが原因だってことなの?」
「そゆこと。だから定期的に上塗りしなきゃいけないなら、かならずセイス君に魔を抜いてもらうのね」
 と、アルヴィナはルゥナに念押しし、優雅に取り上げた茶器に口を付けた。
 ルゥナはアルヴィナとマリアージュ、そしてダイの顔をちらちらと見比べている。その横ではセイスが難しい顔で沈黙していた。
 ダイはため息を吐いた。
(……せめてお礼の一言ぐらい、あってもいい気がするんですけどね)
 ダイを怪我から救った加療球の礼にルゥナを助けたのだとアルヴィナは言った。だが今日の助言は彼女がわざわざマリアージュに許可を取って行っていることだ――内容を信じるかどうかは別として。
 ダイもアルヴィナに説明されるまで知らなかったが、上塗りや治療などを魔術で行った場合、そのときに用いた魔の総量に比例するかたちで、身体に魔が蓄積されていくらしい。澱のようなものだ、と、アルヴィナは述べた。溜めこみすぎれば身体に変調が訪れる。毒に蝕まれたときのように。
 魔術自体が衰退しているのだ。魔狂いは気を付けていればそうそうなるものではない。しかしルゥナは現実に魔狂いに侵されていて、セイスの魔術を常用しているなら今後も倒れる可能性がある。
 それを指摘してやることにはダイもアルヴィナに賛成した。ルグロワ河に転落して死にかけていたダイを助けてくれたことに恩義を感じているからだ。が、訝しげな顔でルゥナとセイスに沈黙されると面白くはない。
 出逢ったばかりのころのように軽い口調で礼を一言述べてくれればよいというのに。
 マリアージュのルゥナを眺める目がますます冷やかになっていく。
 ダイは主君の機嫌が傾く気配をひしひし感じながら、一座と同時にルゥナたちとも別れるべきだったと後悔した。
(ううん……早く馬車来ませんかね……)
 アルヴィナが協会から引き出した路銀で押さえた馬車だ。それを用いて一度エスメル市に向かい、そこでルグロワ市からの迎えと合流する手はずになっている。
 協会を通じてルグロワ市とは連絡が付いた。デルリゲイリアの面々は無事らしい。文官からは女王の生存を喜ぶ声が届き、ダイたちは心から安堵した。
「あの、アルヴィナさん?」
 ルゥナがようやっと声を上げた。
「……ありがとうね、色々と」
「それは私に言うことじゃないわぁ。マリアお嬢さまに言うべきことでしょ?」
 マリアージュもダイと同じ感想だったようだ。雇い主さまがあなたを助けるように許可をくださったのよ、と、突き放した言い方で述べる。一方のマリアージュは名を挙げられるとは思っていなかったようで、軽く肩をすくめた。
「身体を壊す原因がわかっているのに教えないのは目覚めが悪いからよ」
 ルゥナはようやっと決意したようだ。表情を改めてマリアージュに向き直る。
 そして、まずは謝罪を、と、ルゥナが口を開きかけたときだった。
 こここん、と、軽い叩扉の音がした。


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