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第四章 休息する逗留者 2


 色褪せ裾のほつれし天鶩絨の幕が開き、足軽やかに現れしは奇々怪々な吟遊詩人。
 この世の全ての色を継ぎ合わせ、頭の頂には四方にのびる虹色の羽。目を刺すか如きのけばけばしさよ。手の琵琶なければ道化と見紛うその仕草。男ははやしたて、女は眉をひそめ、子供は笑いを上げ、赤子は怯えて泣き喚いた。
「さぁ、さぁ、お御立合い」
 吟遊詩人は琵琶を爪弾いて、紅刷く唇を三日月にする。その声ばかりは聖者の如く、人の琴線を震わせた。
「今宵、わたくしめが謳いますのは神代の伝説」
 ひとりの聖女と彼女に従うひとりの騎士のものがたり。


 詩人の歌声が響くあいだに支度を終えなければならない。
 ダイは化粧に集中した。
 聖女シンシアの役を務める少女はクラン・ハイヴの各地を回って長いという。その肌はよく日に焼けて乾燥がひどい。色粉をうまく肌にのせるために、濾過した水で肌を整えたのちに月桂樹の実の油を一滴だけ塗り伸ばす。
 素の肌色に近い色粉を均一に塗り伸ばしたあと、舞台映えがするように目元を濃い緑色で彩った。光が入るとやや黄味を帯びて発色する。目の周りを墨で縁取ってから眉を整える。くちびるには濃い紅を、頬には煉瓦色を、それぞれ注す。立体感を出すために鼻筋に明るい白粉をひと刷け。
 楽屋にルゥナが顔を出す。
「ダイちゃん、準備できたぁ?」
「もう少しです」
 化粧の出来栄えを引きで確認しながらダイは応じた。年初め、帰省した娼館で似たようなやりとりをアスマとしたなと、思い返しながら。
 両耳の上の髪をそれぞれ三つ編みにし、頭部に冠状に巻き付けて針金で留める。最後に透かし編みで縁取られた生成りの布を聖女らしく被せれば、完成だ。
「いいですよ。行ってください」
「ありがとう、ダイ」
 少女は謝辞を述べながらダイの頬に音を立てて口づけた。先んじて化粧や着替えを終えていた役者ふたりと連れだって、軽やかな足取りで部屋を出ていく。ダイはくちびるを曲げながら頬を手のひらで擦った。
「あぁ……せっかく紅を塗ったのに取れるじゃないですか」
「え、問題そこなの?」
「え? ほかになにかあるんですか?」
 脱ぎ散らかされたままの服を拾い上げる手を、驚いた顔で止めるルゥナにダイは訊き返した。が、ルゥナはダイに返答することなく、天井に半眼を投げかける。
 そうね、慣れっこなのね、すけこましなの……? と、ぶつぶつ呟き始めた彼女を放置し、ダイは手に付着した紅を手巾で拭いて、化粧道具を片づけにかかった。
 ダイと共に河に落下した化粧鞄は、アルヴィナが回収したのだという。彼女に施されていた《保持》の魔術によってか、目立った傷みもなく手元に戻った。密閉性の高さのおかげで収めていた道具類も無事だった。とはいえ、いくつかの小瓶には亀裂や欠けが見られたし、色板に嵌められている数色の色粉は粉々である。
 それでも仕事道具があれば心の持ちようもずいぶんと違う。ダイは濃い飴色の鞄の表面を撫でた。
 ――別れてしまった視察団の皆と連絡を取るべく町へ向かおうにも、路銀がない。
 マリアージュがあまりにも悲壮な顔だったものだから、ダイはつい笑ってしまった。そしてすぐさま遠慮なく叩かれた。
 河に転落したダイたちは金銭の類を携帯していなかった。マリアージュだけは金銭に代わる装飾品を身に着けていたが、それもダイたちの着替えや民家といった諸々を借用する費用に消えた。現在、ダイたちは見事な無一文である。
 河岸に三人が打ち上げられて十日。どうにか日々を過ごせる理由は大道芸の一座の助けがあるからだ。
 彼らはこの村にひと月ばかり滞在して日替わりに様々な演目を公演する。その手伝いをすれば村を離れるときにダイたちを馬車に乗せて町まで送ると、一座の長は確約した。だからこうしてダイは楽屋に籠って、役者たちの支度の助けに勤しんでいるわけである。
 簡単に片づけた楽屋をルゥナと出る。遅い昼食を取りに食堂へと歩く道すがら、ルゥナが感じ入った様子で言った。
「改めて思うけど、ダイちゃんの化粧って面白いねぇ」
「面白い、ですか?」
 ダイは傍らのルゥナを不思議に思って見上げた。賞賛や軽視のどちらでもない。彼女のような感想は初めてだった。
「うん。なんだろ。魔術でばーって色を塗ってるみたい。すごく立体的なの。色いっぱい使うし。なのに全部、どんな色が出るかわかってるみたいだし。……どこで化粧、勉強したの? デルリゲイリアのお化粧ってみんなそんな感じなの?」
「化粧は、えぇっと……基本は同業の先達の方に教えてもらいました。これがデルリゲイリア流かっていうと……どうなんでしょう。わからないです。色をたくさん使うのは、画家だった父の影響だと思いますが」
「画家!? 画家ってあの、絵でごはん食べてるひと!?」
「そうですね」
「へー、すごいね。絵でご飯食べられるっていうことは、ダイちゃんもやっぱりいいとこの生まれなんだね」
「あ、いえ」
「でもそれはそーか。まだ若いのにマリアちゃんの御付きのひと、任されてるんだもんねぇ。いいとこ出で当たり前か」
 うんうん、と、ルゥナはひとり納得している。彼女の誤解をダイはあえて放置した。下手に訂正を入れて素性を探られては困る。
 真実は裏町の花街生まれなわけだが。
(ほかの国じゃあ画家が職業だと、それなりの家柄になるのかな?)
 よくよく考えればそうかもしれない。絵を描くには画材を揃える必要がある。しかしそれはまったく元手のない人間には不可能だろう。
 父の素性など気にしたことはないが――……。
「ダイちゃんのお父様は、どんな絵を描いてたの?」
「んー……私もそんなに見たことがないんですが」
「あ、そうなの?」
「えぇ。数が残っていないんです」
 母が燃やしてしまったから。
 彼女のことを思うと胸が痛む。そのことをひさしく忘れていた事実に、ひそかに驚きながらダイは答えた。
「聞いたところだと、聖女さまの絵とかを描いていたみたいです」
 ダイが所有する絵は二枚。一枚は母と赤子であったダイの肖像。もう片方は城に寄贈されていた聖女と騎士の宗教画だ。後者はダイが《国章持ち》となったときに与えられた。褒賞の前払い代わりに。ただ自室に置くことは躊躇われたので、いまも廊下の一角に飾られたままとなっている。
「聖女さまの絵かぁ……。ダイちゃんは聖女さまの伝承に、詳しい?」
「有名なところは集会所で聞いたことがありますけど。詳しいってほどじゃ……。何かあるんですか?」
「ううん。……ほら、今日も聖女さまの劇をしてるでしょ。台本読んだ?」
「いいえ」
 化粧を決めるために話の筋は耳にしている。けれども台本を読み込むことまではしていない。
 ルゥナはにっこりと笑った。
「ご飯食べたら、ちょっと覗いてくるといいよ。とっても面白い劇だから」


 癒しの祝福を主神より賜りし娘、シンシア。のちに魔の公国スカーレットに聖女として迎えられ、かの国が大陸の覇者となる礎となった。
 神代にほど近い混迷の時代。彼女は大陸の戦地を転々とし、敵味方を分け隔てなく、傷病者を治療し続けたという。
 聖女の奇跡と人柄に惹かれた人々はやがて一個の大隊を成す。
 聖女と、彼女の護衛であり恋人でもあった剣士アーノルド・トアンは、その大隊を率いて大陸の平定に奔走する日々を長きにわたって送ったのだ――……。


「アーノルド、私のしてきたことは間違っていたのかしら!? これほどまでに憎まれるだなんて……!」
 ダイが昼食を終えて観客席に回ると、舞台は佳境に差し掛かろうしていた。集会所を急ごしらえで改修した劇場には村人の多くが集い、皆、熱心に劇を見ている。
「ヘイムダル王……。あんなによくしてくださったのに、私たちを殲滅せんと地の果てまで追いかけてくる」
 記憶が確かなら、旅の終盤、シンシアは死の淵から救ったひとりの王にひどく憎まれ、追いつめられることとなった。彼にとって敵であった王をもシンシアが癒したことが理由という。
《ログ湖戦線の敗走》、と、呼ばれる有名な一説だ。ダイも幼いころに礼拝堂で耳にしたことがある。
 見て、と、聖女役の少女は叫んだ。
「湖面が真っ赤だわ。まるで夕日が墜ちたかのよう。……私を護るために大勢が武器を手に取り、こんなにも無辜の血が流れてしまった。私が癒した人々。彼らを連れてくるべきではなかったのだわ……」
 大陸の中部に位置したというログ湖。今はもう存在しないというその湖で、大勢がシンシアの盾となって死んだ。台本では槍と剣の剣劇として描かれるが、実際は魔術による虐殺だったらしい。当時はだれもが呼吸するように大なり小なりの魔術を扱えたという時代だ。想像を絶するような術が用いられたのでは、と、アルヴィナを知る今だから思う。
 その魔術師の姿をダイは客席の一角に見出した。
 アルヴィナはダイと同じく一座の雑用を引き受けている。今朝は小道具類の修繕に取り掛かっていたはずだ。
「アルヴィ……」
 ダイはアルヴィナに駆け寄りかけ、立ち止まった。
 立ったまま壁に寄りかかって、腕を組んで劇を見る魔術師の横顔は、いっそ怖いほどに真剣だった。声を掛けることを躊躇ってしまうほど。
 結局、アルヴィナの方がダイに気が付き、手招きと共に微笑みを寄越した。
「あらぁ、ダイ。お疲れ様。こっちきても大丈夫なの?」
「休憩中です。面白いから見て来たらって、ルゥナさんに言われて……。アルヴィーも?」
 そうね、と、アルヴィナが舞台を見たまま首肯する。彼女の目は役者たちの動きをつぶさに追っていた。
 ダイはアルヴィナを仰いで尋ねた。
「面白いです? 劇」
「みぃんなおじょーずよ」
 真横に並んだダイにアルヴィナが舞台を指し示す。ダイは再び劇を見た。泣き崩れる聖女の演技は迫真だ。観客たちからはすすり泣きが漏れ出ている。
 聖女は大隊の旗を拳で叩いていた。彼女の隊であることを示す野薔薇の紋章が赤い布地に白い糸で縫い取られたものだ。
 ふと既視感を覚えて、ダイは眉をひそめた。
「シンシア、やめなさい」
 アーノルドがシンシアを優しくたしなめる。
「その紋章を詰るべきじゃない。君のために散った命の誇りをも貶める行為だ」
「わかってる。わかっているわ、アーノルド。けれども重いのよ。この紋章が、とても重いの……」
 その御徴は聖女を慕った人々の人生そのものとなってしまったのだから。
「ならば僕が君に代わってこの紋章を背負おう」
 アーノルドが旗を背に被った。紋章の野薔薇が大きくうねる。
 ダイは己の腕を握りながら思わず呟いていた。
「もしかして、《国章持ち》の由来って……」
「多分、このログ湖の件でしょうねぇ……。私もいま気付いたんだけど」
 アルヴィナがダイの憶測に同意を示す。
「ねぇ、ダイ」
 と、彼女は言葉を続けた。
「あの旗ねぇ……。確かに野薔薇は最初、白い糸で刺繍されていたんだけどね。何せ、ほとんど洗ったりしないものだから、血と泥に汚れてね、布も糸もいっつも赤黒かったのよ」
「……え?」
「……そう思うでしょ。ダイも。あんな風にきれいじゃなかったって」
 ねぇ、と、笑うアルヴィナに、ダイはぎこちなく首肯して見せた。
「そうですね……」
(なんだか……)
 ダイは胸元を握りしめ、胸中で独りごちる。
(……見てきたみたいな、言い方だったな……)
「そういえば、ダイ。劇もいいけど、マリアんとこにはいったの?」
「え? いえ……」
 芝居がはねれば化粧落としや着替えを手伝わなければならない。楽屋にすぐに戻るつもりだったから、マリアージュの下に立ち寄らなかった。
 アルヴィナが悪戯っぽく笑って言う。
「余裕があるならちょこっとでも顔見せておいたほうがいいんじゃなぁい? 慣れないことして爆発すんぜーんって感じだもの」
「うーん……」
 アルヴィナが指摘する通り、主君の様子は見た方がよいだろう。だが――……。
 ダイはアルヴィナを見上げた。
 魔術師はいつものように微笑み返してくる。変わった様子は見られない。
「ま、そうですね」
 ダイは肩をすくめてアルヴィナに同意した。
「癇癪を起こされる前になだめに行きましょうか」
「そうそう。いってらっしゃい、ダイ」
 アルヴィナがひらひらと手を振る。ダイも手を振り返して踵を返した。
 集会所を出る前にもう一度だけ魔術師を振り返る。
 腕を組んだまま観劇に戻っていた彼女は遠くを見るように目を細めていた。
 窓の光を避けた薄暗がりにひとり佇む女から平生のひと懐こさが消える。
 日頃は意識しない端整さが浮き彫りになる。
 いつかも感じた――神聖さ。
「そうね。弱気になってごめんなさい」
 舞台で聖女が騎士の手を握りしめながら立ち上がる。
「私は最後まで戦うわ……。そうしてこの、暗い大地に安寧を」
(あぁ……そうか)
 ダイはふいに理解した。
(聖女さまに似ているんだ)
 祖国の城下のいたるところに見られる、年月を経て摩耗した石像の面影を、この不世出の魔術師は有していたのだ。


「……あの子も言っていたけれど」
 独白を聞き留めるものはいない。終盤に入った芝居を観客たちは食い入るに観覧している。こういったことは物のない田舎にとってまたとない娯楽なのだ。
「笑えるぐらい違うのねぇ……」
 北に居を構える同胞が酒の席でたまさか嘆く。
 真実は捻じ曲げられて語られる。
 当時の勝者が――あるいは大衆が。
 もしくはその両方が。
 様々な者たちの希望が、混ざり合って歴史は生まれ、伝承される。
 驚嘆すべきはいまだに当時のことが人の口の端にのぼる点だろう。たとえ多くに偽りがあったとしても。
 ――自分ですら、あの頃の記憶は薄れつつある。
 それでも。
 文字通りの血色に染め上げられた湖や、その湖面を切り裂くあかつきの斜光は、いまも鮮やかに脳裏に焼き付いている。
 鉄と肉の焼ける臭いに満ちた闇夜が光に熔かされる。
 立ちのぼる幾本もの煙は粉塵の雲母を煌めかせている。
 しらじらとした夜明けの光が、炭化して折り重なった肉塊の輪郭を暴いていく。
『だから……やめておきなさいって、いったの』
 かつて人だったものの前に膝を突いてうな垂れる少女に自分は言った。
『いくらあなたに力があっても、それを安易に振りかざすとどうなるか……。だから、やめておけって』
 少女ははらはらと涙を零している。宝石の粒のような雫が炭と血で赤黒く汚れた頬を次から次へ滑り落ちていく。
『でもあなたは止まらなかった』
 少女が地に突いた手で拳を作った。
 爪痕を、灰の上に残しながら。
『……もうやめなさい。今度こそ。終わりにするの。野ばらの森に帰りましょう』
 ほとぼりが冷めるまで自分が代役を務めよう。
 少女だけでも、故郷で穏やかに暮らすのだ。
 だが、彼女はゆるゆると頭を振った。
『……できない……できないよ……』
 痴呆のように少女は繰り返した。
 出来ない。
 止まれない。
 このように多大な犠牲を払ったあとでは。
『……もう、昔みたいには暮らせない。皆の望みを叶えるまで、私は止まったらだめなんだよ……』
 さめざめと泣きながら、少女が旗を抱きしめる。
 彼女の前の物言わぬ骸がその死の間際に、命を振り絞って防護の術を折り込んだ旗。
 それが少女の身を守り通した。
『わかった』
 と、自分は頷いた。
 端々の焦げた旗を少女の腕からずるりと引き抜く。少女が訝しげな目をこちらへと向ける。
『……勘違いしちゃぁ駄目よ、シンシア』
 目元を腫らした少女に努めてやさしく語りかける。
『あなたはひとりじゃないの。……私がいるわ』
 これまでも。
 これからも。
『あなたは癒し続けるだけでいい。私があなたに代わってこの重みを背負ってあげる』
 風が吹き、旗が大きくはためいた。
 見方によってはあたかも旗を身にまとったようにも映っただろう。
 少女が息を呑み――呻いた。
『姉さん……』
 遠き日。
 その誓いが、彼女を悲劇に追い込んだのではと、今になって思うのだ。


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