Simple Site

99 里帰り 後編

 ぼすっ
 エイネイが反射的に投げた枕を顔面ぎりぎりで鷲掴みにした男は、刺繍美しいそれの向こうから苦笑に彩られた顔を出した。
「エイネイちゃん、なんで突然投げんの?」
「勝手に名前を呼ばないでくださいます!? 穢れます!」
「……穢れるとまできたか」
 こつこつと靴音を響かせて歩み寄ってきた男は、エイネイの対面に腰掛ける姉を背後から抱きすくめ、笑顔で彼女の瞼に口付ける。
「ただいまー」
「うんお帰りなさい。遅かったんだねぇ」
 人前で口付けを受けたというのに、姉は平然と笑顔で――それもエイネイが見たことのない類の、花開いたかのような微笑である――男を迎えた。
 ジン。それが男の名前だ。エイネイから姉を奪ったにっくきにっくきにっくき男である。彼はシファカの座る長椅子に彼女と並んで腰掛けると、あぁ、とため息をついた。
「交渉が難航してさ。条件付けに手間取って。参ったよ」
「私、砂嵐か何かに遭ったのかと思った」
「道中、天候はよかったんだ。それは助かったかな。でもまずかった。日程ずれたらエイに怒られるしさぁ」
「あはは。ナドゥには会ってきた?」
「うん。会ってきた。息子さん帰ってきてるんだね」
「みたいだね。あ、ルカもお疲れ様」
 シファカはジンの背後に控える男を振り返って笑う。黒髪黒目の、日に焼けた男だ。ルカ、と呼ばれた彼は、姉に礼をとった。
「ご機嫌いかがですか? シファカ様」
「うん、元気元気。エイネイ」
「え? はい」
 姉はこちらに向き直り、男を紹介する。
「こっちはルカ。リカの弟さん。ルカ、こっちは私の」
「えぇ、妹君ですね。お話は伺っています。お初にお目通り賜ります、エイネイ様」
「……はぁ」
 にこやかに会釈してくる男は、いやぁそれにしても、と感心したように言った。
「姿を見つけられて早々、あの勢いで枕をお投げになる。恐れ入ります」
「受け取られてしまったので、修行がたりませんでしたわ」
「これ以上修行しなくていいよ! てかシファカも何普通に流してんの俺見るのもいやって目で見られて枕投げられたのに!」
「うん。平手打ちされなくてよかったね」
「……」
「……閣下、一体どんなことをシファカ様にされて旅に出られたんですか?」
「あー」
「私は忘れませんわよ! お姉さまをさんざん嘆き悲しませてこそこそ逃亡した日のことを!」
 本当ならば今すぐ首を締めてめったうちにしたい気分なのだが、姉がにこにこと機嫌よさそうに男の隣に座っているものだから、それも叶わない。
 エイネイは憎憎しく忌々しく恨めしくジンを睨みながら、呟いた。
「どうして貴方までおいでになるの? お姉さまだけでよろしくてよ! むしろ出て行け!」
「シファカ止めて!」
「がんばって」
「人事のように!?」
 くすくすと笑う姉の横で、ジンは天井を仰ぐ。本当に、何、人の城でそんなにくつろいだ様子でいるのか姉の隣にいるからか死ね。
 エイネイは夫が聞けば涙しそうなことを本気で思った。
「えーっとお邪魔します」
「ふつう最初に言うべき挨拶でしょう恥を知りなさい!」
「殿下には……おっと、もう陛下だったっけ。挨拶したんだけど」
「私への挨拶を先にすべきです」
「それは失礼いたしました。王妃殿下。てか挨拶しようとしたら枕投げられた枕投げられた。俺悪くない」
「いいえ貴方のせいです!」
 立ち上がり、優雅に一礼する男を睨みつける。なんでそんな風に堂に入った挨拶ができるのだろう。
「帰りなさい!」
「うん。シファカと一緒にね。エイネイちゃんには申し訳ないけど、ハルシフォン王陛下に、ちょっと頼みごとがあったもんで」
「頼みごと?」
「そう」
 男は微笑み、まぁ後で話を聞いてみて、と言った。


 ジンは、何の用事だったのか、と夫に尋ねてみた。
 夫の回答に、エイネイは泣きたくなった。


「おねえさま」
 夫とジンを蹴りだして、今日も枕を並べて姉と眠る。
「なに?」
「お姉さま、あの男と結婚するの?」
「うん」
「……あの男は」
「陛下から、聞いた? ジンのこと」
「……いいえ。ハルが何か言おうとしていましたけれど、聞きたくなかったので黙らせました」
「……あんまり、陛下いじめすぎたらだめだよエイネイ」
「愛情表現ですのに」
 そうなんだ、と呆れた声を上げた姉は、こちらに向けて寝返りを打った。
 相似の顔。同じ日に生まれた姉妹。ずっとずっと、一緒だと思っていた。
「ごめんね。この国はもう、私の国じゃないんだ」
「……お姉さま」
「私はね、決めてしまった。ジンと一緒に生きること。あの国で、あの国のために生きる彼を、支えること」
「……あの男は、一体なんなんですの?」
「今私が住んでいる国の、宰相」
「……さいしょう」
 それは。
 あれか。
 ロタと。
 同じ。
「皇帝陛下の唯一の親族でね。宰相家の当主なんだ。ラルトさん、話したよね。その人が、水の帝国の皇帝。ティアレさんは皇后。エイは左僕射、イルバさんは右僕射っていう冢宰。宰相の次に、偉い人たち。私、国の中枢にいるんだ」
「……おねえさま」
「いろんなことがあって、ジンは旅に出ていた。そして私と出会った」
シファカは、エイネイの手を握って言う。
「私、幸せだよ。そしてジンを幸せにしてあげたい。あの人のために生きて、あの人の家族を作って、あの国の、礎となる」
「もう、会えませんの?」
「うーん、陛下の返答次第なんだけど……」
「?」
「ちょっと、難しいかもね」
 苦笑する姉に、エイネイはすがりついた。
「いやです」
 笑って、送り出すべきだ。彼女がジンを追いかけたとき、自分はそうした。けれどそれは、ジンに出会えなかったら姉は戻ってくるだろうと、思っていたからだ。そう簡単に再会できるはずがない。そう、思っていた。
 けれど姉は男と再会した。そして男と共に生きるために、この国を捨てるのだ。
「行かないでください……お姉さま。行かないで」
 たった二人の、姉妹なのに。
 どうしてそんな、海を隔てた遠くに行かなければならないのか。
 あの男が、国を捨ててこちらに来るべきなのだ。
 理不尽だと判っていても、そう思わずにはいられない。
「お姉さま」
「エイネイ」
 エイネイの身体を抱き返して、姉は囁く。
「ごめんね。ありがとう。大好きだよ。大好き」
 姉の胸の中で頭を振る。顔を擦り付ける。そして再び確認する。
 姉はもうこの国の砂の匂いではなく、男の国の水の香りがするのだということ。
「大好きだよエイネイ。だから判って」
 判りたくない。
 判りたくないけれど、判らなければならない。
 姉には、本当に幸せになってほしかった。笑っていてほしかった。そしてその、エイネイがかつて見たいと思っていた笑顔を、今日、見たのだ。
 男の隣に腰を下ろす彼女は、本当の本当に、幸せそうだった。
 あの時、笑って姉を送り出さなければ良かった。
 一抹の後悔と、送り出すことができてよかった、姉が幸せになってよかったという安堵が、胸中で交錯する。
「大好きですお姉さま。大好きです。大好きです。幸せになってください」
「うん」
「あの男がまたお姉さまを泣かせるようでしたら、私、単身で国に乗り込んででも、あの男を殴り飛ばしてお姉さまを奪い返しに参ります」
「う、うーん。うん。ほどほどにね……」
 よしよしと姉に頭をなでられながら、では、あと数日の滞在を、どのようにして楽しいものにしようかと、考えをめぐらせる。
 この国を、愛していると、いつまでも、愛していると、言ってもらえるように。
 いつまでもこの国が、姉にとって、愛すべき故郷であるように。



 数日後、姉は男と二人の従者に伴われて笑顔で国を出た。
 彼女は二度とこの国の土を踏むことなく、けれど確かに幸せに、遠き水の大地で暮らしたのだ。