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99 里帰り 前編

灼熱の太陽が昇り、砂が視界を染めては消える。
夜間の凍えた空気なぞまったく知らぬというふうに、温度は上がるばかりで、門の輪郭は陽炎に揺らめいていた。
あくびをかみ殺していた門番は、目の前を通過しようとした小柄の人影に眉をひそめた。
「おい、貴様何をしている!?」
「え? えぇーっと」
人影は二つ。そのうち一方が、返事をする。女の声だ。
「通りたいんだけど……」
「ここから先はこの時間は立ち入り禁止だ! また昼に出直して来い!」
「え? そうなの? 規則変わった?」
「殴って気絶させちゃう?」
「ちょっと、そんな物騒なこと言わない!」
「物騒じゃないわよ。レンが来てたら尋ねないわよ気絶させてるわよ」
「……身重で連れて来れなくてよかった……」
「おまえら、こそこそ何を……」
「どうした?」
背後から慣れた声が掛かる。彼は思わず直立した。声は紛れもなく、兵を取りまとめる団長のものだったからだ。
「は、そ、それが」
「あ、セタ!」
「……あ?」
名前を呼び捨てにした不審人物に、団長が呻く。
「わたしわたし」
そういって頭に被っていた砂避けの布を取り払った女に、団長は驚愕の眼差しを向けて叫んだ。
「お、おま!」



「ううう、眠い」
エイネイ・メレンディーナ・ロプノーリアは、朝に弱い。
揺り起こされてもいっかな起きず、散々寝返りを打ち、隣で寝ている夫のハルシフォンを蹴り飛ばし寝台から叩き出し、寝台を奪って大の字で二度寝を決め込んで、ようやっと瞼が上がる。王妃のその朝の弱さに対し、夫はもちろん城内の誰もが諦めの境地にある。
今日も予め遅めに設定している朝食の時間がとうとう来てしまったということで、起きなければという自覚はもちろんエイネイにあるのだが、寝台からやはり離れがたかった。
「エイネイ、エイネイ」
「お願いハル、もうちょっとだけ寝かせて……」
「エイネイ。何、母親になったっていうのに、まだ寝坊癖直らないの?」
「癖はなかなか直りませんわよお姉さま……」
枕に顔を押し付けて揺り起こしてくる人物にむにゃむにゃと返事していたエイネイは、はっと自分の発言の奇妙さに気がついた。
おねえ、さま?
いや、そんなはずはない。最愛の姉は、もう何年も前に出奔していて、時折生きていることが辛うじてわかる手紙が届く程度なのだ。それもここ二年ほど途絶えてしまっている。
「でもエイネイ、みんなが困ってるよ、起きなきゃ……」
その柔らかい、夫のものとも侍女のものとも違う女の声に、エイネイは覚醒した。
がばっと身を起こして、声の主を探る。そしてそこに、信じられない人物の姿を認めた。
「……お、おねえさま……」
長い間、行方知れずだった双子の姉は、幾分か線の柔らかくなった顔に笑みを浮かべて、両腕を広げる。
「うん。久しぶり、エイネイ」



姉、シファカ・メレンディーナは、旅の男を追いかけて国を出て行ってしまった。
それから幾度か手紙があり、ようやっと男と再会したのだという知らせを最後に、連絡が途絶えていた。
「長い間連絡だせなくて御免。すっごくばたばたしてて」
「もういいですいいですいいですご無事だったんですからあぁぁぁおねえさまぁぁぁ!!!」
うぐうぐと、エイネイは姉の膝に顔を埋めて泣いた。幼い頃、よくそうしたように。姉は昔と同じように髪をゆっくりと梳いて、頭をなでてくれた。
違っていたのは、その身体の柔らかさと、匂い。
かつて少年のように固く鋭かった姉の身体は、しなやかな筋肉の上に薄く脂肪をまとって柔らかく、清冽な、水のような匂いがした。
「しばらく、厄介になるね」
姉は、そう言った。
帰ってきたのだと、彼女はとうとう言わなかった。



姉は女を連れていた。黒髪黒目の女性はリカといって、姉の護衛なのだという。
「護衛って別にいらないんだけど」
「それは判ってるけど、手勢は多いほうがいいでしょ。だいたい、シファカ様、あなたに傷がついたら、そりゃもう大問題なんだから大人しくしてるんだよ」
護衛、というよりもお目付け役のようである。名前こそ様付けではあるが、口調は非常に砕けて、友人のようだった。
そもそも、護衛が付くなどと。姉は今どういう立場にいるのだろう。
「あーそれは多分、ジンのほうから説明が」
「……あの男、まだ生きてるんですの?」
「エイネイ、勝手に殺さないでよ」
シファカが低く呻く一方で、リカは盛大に笑い転げた。



姉曰く、ジン――この男が、シファカが国を出奔することになってしまった元凶である――は、仕事で多少到着が遅れるとのことだった。
おそらく、五日ほどずれがあるだろうと。
その間、エイネイは姉を独占した。それはもう、夫のハルシフォンが嘆くぐらいのべったり具合だった。
そしてその間に、エイネイは様々な姉の変化を、認めざるを得なくなったのである。



以前、身づくろいといったものにとんと興味を示さなかった、剣術の徒であった姉。
どうやら剣術の腕は落ちているどころか上がっているらしく、シファカが帰省してきてから軽く打ち合っているセタが、すぐにねをあげる。
姉はこまめに汗を拭い、動きやすいものに限定されてはいるものの、美しい色の衣服に躊躇いなく袖を通す。以前ならば、考えれなかった。
背筋を伸ばし、眩しそうに目を細めて、城から街並みを見下ろす姉は、よく知っている顔で――しかしまるで、別人のように美しかった。
「髪、洗うかい?」
「あーうんあとでね。香油だけ出してもらっておいていい?」
「はいな」
「お姉さま、香油使われるんですの?」
リカとシファカのやり取り。夜、驚きに声を上げると、エイネイも使う? と姉は小瓶を差し出してきた。
「あっちのものだから、多分珍しいよ。お土産用、実はジンが持ってるんだよね……」
「あぁ、そう、なんですの?」
小瓶を眺めて躊躇っていると、姉がそれを取り上げて、手のひらに軽く中身をたらした。
確かに、嗅いだことのない――柔らかな香。
とろみを帯びた液体を、姉はエイネイの手に伸ばして馴染ませる。指先一本一本に至るまで、ゆっくりと揉み解していく。
「……なれて、らっしゃいますわね」
「うん。時々やりあうんだ」
「どなたと?」
「うーん。あっちで今一緒に住んでる、友達と」
ジンの親友の、奥さんでね、と姉は説明をはじめる。そのまま彼女はあちらでの生活を楽しそうに語るのだが、それらは全て、上手くエイネイの中に留まらなかった。
エイネイの指先を労わるように触れてくる姉の爪は、綺麗に磨かれて、異国の花の花弁のようだった。



美しくなった姉。変わらず優しいのに、どこか、遠い人となってしまった。
エイネイは夫を蹴りだし、姉と枕を並べた。幼い頃、そうやって手を繋いで眠ったように。
寝息を立てる姉の身体に縋りながら、エイネイは祈った。
どうか、来ないで。
私から、姉を奪っていかないで。
しかしとうとう日はやってきた。
昔、エイネイからこの姉を奪ってしまった男が、再び国の土を踏んだのである。