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78 誓いの玉

恋人となったばかりのころ、招力石の原石を握らされた。純度の高い、しかし何にも染まらぬ石。小指の先ほどもない小さな小さな、砂粒と間違いそうな石だった。
 石を収めたわたしの手のひらを握り、男は自らの唇に押し当てる。月明かり差し込む寝台の上で、彼はしばらくそうしていた。
 敬虔な祈りに満ちた一夜。
 招力石の小粒がその後どうなったのか、わたしは知らない。





「休暇が取れそうなので旅行しましょう」
 久方ぶりに共にする夕餉の席で、一緒に暮らしている後見人、兼、恋人の男はさらりと言った。
 ヒノトは食事の手をとめ、まじまじと相手を見返す。
 エイはにこにこと機嫌よさそうにしている。ここ一月、『帰省』をして留守にしていた右僕射の代わりに奔走し、気怠そうにしていたことが嘘のように。
「……あたまはだいじょうぶか?」
 疲れが高じて、精神が振り切れたのだろうか。
 その後、休暇が取れるという発言をヒノトが冗談としかとらえなかったことに、エイはしばらく拗ねていた。


 イルバの留守は、上層部がひとり抜けたところで、大きな問題は起こらないということを証明してみせた。そこで皇帝が、他のものたちも積極的に休暇をとるようにと、触れを出したらしい。彼も宰相と交代で休むことにしたようだ。皇帝はかわいい盛りの姫君と遊ぶ暇もないことを常々嘆いていたので、少しずつでも自由な時間を持てるということはよいことこの上ない。
 エイも例外ではなく、直属の部下たちと交代で席を長期外すことにしたという。経験浅い層に、今よりも責務ある仕事を任せるいい機会でもある。
 まずは単身者とウルに(彼は妻と予定を合わせたいとは考えもしないらしい)。そしてスクネを始めとする既婚者に。
 エイも既婚者組がしたのと同じように、恋人の都合と合わせるために、休みを後回しにしてもらった。エイが休めそうな日取りにヒノトが勤務先へ休暇申請を出し、ふたりで旅行をしよう。エイの提案は、そんなところだった。


 出かける際は大抵ヒノトの提案に従うエイが、めずらしく単独で行先を決めていた。マジェーエンナ。東大陸の西部にある貿易国である。
 そこで工房をひとつ任されている男が、エイの古馴染みであるらしい。久しく会うことのなかった旧友への顔見世も兼ねているのだろう。
 しかしながら旅行とはいえ、完璧な休暇とならないのがエイだ。ジンから貿易関連の交渉を一つ頼まれ、エイも上機嫌で安請け合いするものだから、まったくこの仕事馬鹿どもはと呆れたものである。ヒノトの密告のかいあって、宰相は後々休暇中の人間に仕事を回すなと、夫人たるシファカにこってりとしぼられたようだった。
 なにはともあれそのような経緯で、ヒノトはエイが仕事をしている間、初めて訪れる国の城下をひとりでうろつくことにした。護衛を付けろとうるさいエイは、お前が仕事をジンから受けたりするからだ、と釘を刺しておく。日頃ならともかく、エイの責務は外交分野から外れているし、別の官に依頼することもできたのだ。それをエイに頼むあたり、宰相にむかっ腹が立つし、安易に引き受けるエイにも呆れかえる。
 担当から外れていても、有能で都合がよいなら使ってしまえ、という柔軟性は、水の帝国の良くも悪くもある点だった。


 人の護衛は拒んだが、何も完璧にひとりというわけでもない。ウルから譲渡されている『網』は常に肩にのせている。彼――ないし彼女、は、鳥のかたちをしていて、ヒノトの危険には常に敏感であるし、つがいとなっている『網』を通じてエイに連絡もしてくれる。
 ヒノトは銀の髪を纏め、南の婦人がよくそうするように頭をぐるりと布で覆った。南大陸からの旅行者を装いながら、初めて訪れる国の都を歩き回る。マジェーエンナの王都はヒノトが暮らす水の帝国の皇都と同じように海に面した都市で、造りこそ似ているものの、雰囲気はまったく異なっていた。西と南、二つの大陸に面し、内海の水流の影響を受けない港には、年間通して貿易商たちが多く出入りするからだろう。
 路面は七宝焼きの敷石で覆われ、店舗ごとに吊るされる極彩色の旗が風に翻っている。行き交う人々も黒髪黒目ではない人間が大部分を占め、変わった身なりの者も数多く、ヒノトの様相もまったくもって目立たなかった。
 だが、妙に落ち着かない。
 皮膚の下で、血がざわつく、という表現はおかしいだろうか。水の帝国を出てからというもの、常に誰かの視線にさらされているような、逆にヒノトの意識がどこかへと引っ張られるような、そんな奇妙な感覚を覚える。
 もうひとつ付け加えるならば、ひとの気配を感じる。
 それはすぐ間近にではない。世界のどこかに相手がいる、という、認識のようなものだった。
 一度だけヒノトは、そういった落ち着かなさ、を体感したことがある。
(リファルナで)
 学院生だった頃に立ち寄った生まれ故郷で覚えた、血の贖いを求める内なる衝動。
 水の帝国では覚えることのなかった、呪われている、という実感だった。


 ヒノトは喉の渇きを覚え、露店で果実水を買い求めた。南大陸でもよく見かけるそれを買う間、眩暈を覚える。
「おっと、大丈夫かな?」
 ヒノトの肩を軽く支え、男は首を傾げた。
「具合が悪いのかい?」
「あぁ、すみま……」
 男は、南大陸の民の面差しを宿している。
 吐き気が一層強くなり、『網』が気忙しくばたばた羽ばたく。
 膝から崩れ落ちるヒノトの腕を、彼は力強く支えた。





 筆で刷いたような雲が、窓に四角く切り取られた空に流れている。
 ヒノトは驚きに瞬き、肘をついて上半身を起こそうと努めた。その拍子に、濡れた布が額から滑り落ちる。
「気が付いたかね?」
 聞きなれぬ男の声。視線を動かすと、旅装の彼は寝台の横の椅子に腰かけていた。
「ここは君が倒れた場所から一区画離れた宿の部屋だ。申し訳ないが手持ちがなくてね、君の財布を拝借させてもらったよ。宿代以外には手をつけていない」
 男がヒノトへと放った財布が、布団の上に、ぽす、と軽い音を立てて落ちる。
「休憩という名目でしか部屋を抑えていないので、まぁそんなに減ってはいないはずだがね。このまま泊まるのだったら君がまた払えばいい。だがそれが」
 男は寝台の背に大人しく泊まっている『網』を指差した。
「魔を飛ばしていたから、まもなく迎えが来るだろう。珍しいね。網か。網遣いが君の知り合いにいるのかね?」
「……わかるのか?」
 些かの警戒心を込めて呟いたヒノトに、男は微笑んだ。
「警戒させてしまったかね? すまないね。珍しいものを見たのでつい興奮してしまった」
 そう言って悪戯っぽく笑う男は、どうやら、悪い人間ではないようである。しゃべりすぎのきらいがあるが。
「申し訳ない。迷惑をかけました」
「なぁにこんなこともあろうさ」
「急に気分が悪くなって」
「呪いに酔ったのだろう。呪いもちならではの症状だ」
 次々と言い当てていく男に目を剥いて、ヒノトは彼を見返した。端正な面差しの男はヒノトの反応に小首をかしげる。
「ふむ。些かしゃべりすぎたかね? そのように睨まなくてよろしい」
「呪いもちって?」
「呪いもちは呪いもちだ」
 ヒノトの問いに、男は身もふたもない返答をする。
 顎に手を当てて思案するそぶりを見せた彼は、渋面になるヒノトに微笑んだ。
「この際だ。忠告しよう。日頃は英雄の末お膝元にいるのなら、出ないほうがいい。このように酔い、下手をすると呪いに食い殺される。君の血族も例外ではない。君と同じ特徴を持つものに限るがね」
 呆れればよいのか、感心すればよいのか、警戒すればよいのか。
 身体を起こしていることに疲れ、ヒノトは枕に頭を埋めた。
「……何者なの? 貴方」
「観光客だよ。使い走り、ともいうが」
 男は膝の上に置いていた箱を取り上げると、軽く振って見せた。ざらざらと音がする。
「ここは真珠の小粒が安いだろう? 買ってきてくれとせがまれた。人遣いが荒い友人だ」
 彼は箱を膝の上に戻した。
「うむ。君は、どうしてあの場所でふらふらしていたのかね?」
「……わたしも観光中だっただけです」
 躊躇したものの、ヒノトは正直に答えた。ヒノトをどうにかするつもりであれば、気絶している間に事に及んでいるだろう。薄い扉から漏れ聞こえる廊下の喧騒が、ここは宿の部屋であることを証明している。胡散臭くはあるが、男が恩人であることには変わりなかった。
「連れが仕事中だったので。……その仕事が終われば自由で、観光するだけですけれどね。長逗留するつもりだったのですが」
 ヒノトがこの様子だと、エイは体調が戻り次第に帰ると言い出しかねない。
「恋人かね?」
「えぇ。まぁ」
 せっかくの貴重な休みを、つぶしたくはない。ふたりでの旅行も、長い付き合いながら、ほんの二回目なのだ。
「この国に来たのは君の考え?」
「え? いいえ。彼の方です。……何故、こっちに来たがっていたのか理由はさっぱりなんですが」
「ふむ……なるほど」
 男はおもむろに立ち上がるとヒノトの髪をぶちっとむしった。
「いっつ、何を……!!」
 男は無言のままヒノトの髪を手のひらの大きさの布で包み、軽く床に放った。染みの浮いた床板に落ちた瞬間それはひとがたを成し、とことこと歩き始める。
 ふっ、と、身体が軽くなったような気がした。
「気分はどうかね?」
 訳知り顔で男が問う。ヒノトは動揺を悟られぬように、沈黙することしかできなかった。
先ほどまでの吐き気が、消えている。
 何もない。驚くほどに、元の通りだ。
 ひとがたの布は扉に向かって歩を進め、突如、すっと周囲の景色に溶けて消えた。
「呪いをあちらに移した」
 布が消えた場所に目線を向けながら、男が述べる。
「そんなに長くは持たないが……そうだね。君が恋人と旅行を楽しむぐらいは平気だろう。この国で吐き気が戻れば、この術が破られた合図だ」
 男は椅子から立ち上がり、布の後を追わんとするかのように、踵を返した。
「どこへ?」
「用は済んだからね。君はゆっくり休んでいてくれたまえ」
 ヒノトは慌てて上半身を跳ね起こし、ひらりと手を振る男を呼び止める。
「まって」
 うん? と首を捻る男に、ヒノトは言った。
「ありがとう」
 男は嬉しそうに破顔する。
「君の恋人が来たがっていた理由だが。興味があるなら真珠の文献に目を通して見るといい。なかなか情緒あふれた話が読めると思うからね」
 彼はそう言い置いて、扉の向こうに姿を消したきり、二度とヒノトの前には現れなかった。





 寄越された迎えと共に宿に戻ったヒノトは、エイに説教を受け、その後、丸一日を休養にあてた。エイの仕事も難航していたらしく、翌日までヒノトに構えないという話であったので、ちょうどよかった。潮風が心地よく吹き込む部屋で、籐で編まれた長椅子に腰掛け、だらだらと読書に興じる。真珠の文献、と言われていたので、養殖についての歴史を読みふけっていたのだが、どうにも面白くない。何が情緒あふれた話なのか。それとも、担がれただけなのか。険しい顔で唸るヒノトを、世話役の娘が笑った。
「おひいさま、けわし顔をせんで。何読まれてですか?」
 地方訛りの強い言葉で、娘はヒノトの手元を覗き込んだ。
「真珠について面白い話をしらんか? そういうものがあると聞いたのじゃが」
「面白い話? ……どうだが……」
「ふむ、やっぱり担がれたかの」
 書籍を閉じて、軽く伸びをする。くあ、とあくびがついて出た。
「旦那様はいつお戻りでですか?」
「エイか? ふーむ。夕方には戻ってくるはずじゃがのう。これ以上仕事が長引くようなら土下座の刑じゃ」
 左僕射に仕事を押し付けた宰相共々に、と、周りが耳にすれば青くなりそうな発言に対しても、娘はにこにこと頷くだけだった。
「ぞうですか。でんも素敵な旦那様ですだ。いつが式ですが?」
「は? 式?」
 何の式だ、と訊き返すヒノトに、娘は初めて当惑を見せる。
「うん? もしか、しらねですか?」
 だから、何をだ。
 疑問符を浮かべるヒノトに、娘はとつとつと、この国に観光客が集中する理由を語り始めた。





 赤青緑、黄色に黒。
 淡い光を放つ不思議な色彩。母貝の種類によって、真珠は色が変わるのだという。生物から生み出される摩訶不思議な石は、守り石として重宝される。
 マジェーエンナを訪れて三日目の朝、仕事をようやく終えたエイと二人で、彼の友人がいるという工房に赴いた。
 エイの友人とは共に昼食をとった。古い話を肴に談笑を終えたあと、彼の仕事場に案内される。金銀銅鋼鼈甲黒漆。様々な素材を土台に用いて、職人たちが彫刻を施し、神秘の宝玉を埋め込んでいく。
「楽しいですか?」
「うん」
 エイの問いに、ヒノトは正直に頷いた。
 水の帝国は農業国家だ。特産とされる細工ものもあるが、工房の数は少なく地方に集中しているため、都住まいのヒノトは滅多に見学できない。職人たちが針に似た道具を使い、髪の毛一本分の細さですらすらと絵柄を掘り込んでいく様には心躍った。
「皆、器用じゃのう」
 張り付くようにして職人たちの技を観察していたヒノトを、一歩先を進んでいたエイが呼び寄せる。
「ヒノト、こちらへ」
 そうして案内された別室には、小さな桐の箱が用意されていた。
 恋人の手が恭しく蓋を空ける。中には朱の天鵞絨が張られ、襞も美しいその中心に、燻した銀の簪が据えられていた。
 胡蝶蘭を模した簪だ。蕊柱(ゆうずい)の部分に、真珠が埋め込まれている。
 ヒノトの瞳と同じ、深い緑をした玉(ぎょく)だった。
 エイがそれを取り上げて、結い上げられたヒノトの髪に差し入れる。傍に置かれた姿見で確認すれば、銀色の髪に、独特の艶を持つ鈍色と、ヒノトの目と同じ緑がよく映えていた。
「髪色が銀ですからね、燻したもののほうが綺麗かと思いまして。あまり細かく指定はしなかったのですが、いい仕事をしてくれました」
 古馴染みの腕を褒めるエイに、ヒノトは尋ねた。
「……いつから発注していた?」
「こちらに来ることが決まった時点で」
「そうではないじゃろう」
 ヒノトは簪に触れながら笑った。
「学院を卒業して間もない頃じゃ。招力石の小粒を妾に握らせたことがあったな。あれが核なのじゃろう?」
 エイがぎょっとした様子で動きを止める。やがて彼は観念した様子で知っていましたか、と苦笑した。
「成婚の誓いに、式を挙げる前の夫が妻となる女へと贈る、真珠細工」
 東大陸で広くみられる風習。そういえばティアレも真珠玉を使った細工を持っていたし、シファカも同様に宰相から何かしがを贈られていたと記憶している。そしてそういった真珠細工が数多く並ぶこの国は、婚約した男女が数多く訪れる名所でもあった。
 様々な種類がある玉の中でもとりわけ、その女の魔力を込めた招力石――とはいえ、原石に魔を込める方法は、北のディスラ地方の民しか知らぬ秘法であるので、その真似事をしただけの石となるが――を核として使った石を贈れば、邪を払い、所有者の永劫の幸福を約束するという。
 それを用意するためには少なくとも一、二年の歳月はかかる。真珠の母貝は核を呑ませて石を作り出すに、人が子を宿し生むのと同じだけの時間を要すると聞いた。
 真珠は、まるで生命の現身のようだ。
 今朝、見学した貝が珠を吐く様も、ひどく神秘的な光景だった。
「きちんとした式も何もできなくて申し訳ないですが。せめてこれぐらいは、と」
「馬鹿言うでない。籍を入れぬのはひとえに妾の我儘のためじゃ。おんしが謝る必要がどこにある」
 自分たち二人は、夫婦ではない。その予定も今しばらくはない。祝言を上げればヒノトが城の外で医師を続けることが難しくなるからだ。それ以外にも自由が利きにくくなる。
 エイの就く左僕射とは、そういう地位だ。エイはヒノトの不自由さを厭ったのだ。それだけの話である。
「ありがとう」
 ヒノトの謝辞に、エイは微笑んだ。
 改めて鏡で観察した簪は、日頃使いやすいようにだろう。装飾は極力抑えられていた。柔らかい鈍色。
 そこに指を滑らせていたヒノトの脳裏に、疑問が過ぎった。
「なぁ、何故、銀なんじゃ? わざわざこのように加工して」
 土台となっている金属に不満があるわけではない。しかし日頃のエイならば、黒漆を塗り重ねた樫や丈夫な白銀、ないし高価な金を選ぶだろう。燻したのは髪色に映えるように、とエイ自身も口にしていたが、色が気になるのであれば簪でなくともよいはずだった。
 痛いところを指摘された、と言わんばかりにエイは苦笑した。
「水の帝国だけの習わしなのですが……銀は放置しておくと、くすむでしょう」
「あぁ……うむ」
 通常の銀は手入れを怠ればすぐに黒ずんでしまうし、燻したものであっても他の金属よりも早く悪くなる。
「銀は私たちの試金石なのですよ。それが曇るときは――……妻から愛情が失われたときです」
 愛する夫から贈られた守りの銀細工を常に身に着けるためには、日々、磨いていておく必要がある。
 それが輝きを失ったまま宝石箱の中に放置されぬよう、夫は妻のことを気にかけておかなければならないとの、戒めなのだ。
 ふふ、とヒノトは笑った。
「いらぬ心配じゃなぁ」
「そうであるように精進しますよ」
 胸の奥までを満たす幸福に、染みを落とすように、先日の男の言葉がふと過ぎる。
『呪いに、食い殺される』
 ヒノトは頭を振り、エイの手を取って笑った。
「そばにいるよ、ずっと」
 永遠の愛と共に。