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33 からみ酒

 酒に弱い人間、というものは決して少なくない。だが弱いだけならば何の問題もない。
 世の中にはその酔い方に問題あるからこそ、飲ませてはならない人間が存在する。
 ダイも、そのうち一人だった。



「……これは、一体、どういうことなんですか?」
 報告を受けて訪れた別館の談話室。酒の臭気で満ちた部屋の空気はねっとりとして、一歩踏み込むことすら躊躇したくなるほどである。酔い潰れたのか、はたまた気疲れからか、死屍累々としたその空間の中央に、涙目のティティアンナと彼女に縋り付いている(というよりも羽交い絞めにしている)ダイの姿が見えた。
 とりあえず引き連れた男衆たちに、ぐったりと長椅子や床に伏した者たちを外へ運ぶように命じると、彼らを跨ぎ越えながらヒースはティティアンナたち二人に歩み寄った。
「ティティアンナ」
「り、リヴォートさま……!」
 主神の助け! とばかりにティティアンナが縋る眼差しをヒースに送る。
「一体これは何事ですか?」
 目元を朱に染めたダイが、ティティアンナの背にべったり張り付いてくすくす笑っていた。どうみても、酔っぱらっている。
「……彼女に酒を飲ませたんですか?」
 ダイは酒に弱い。ひとくちふたくちなら平気なようだが、それでも顔は赤くなる。さかずき一杯でろれつがまわらない。二杯になると、わけのわからない言動をとる。三杯目で気絶する。その間、当人には記憶がない。
 二度と酒を飲ませないように厳命していたはずだし、ダイ自身も酒に弱いことを自覚しているために呑みたがらない。
 ヒースの責めに、ティティアンナが慌てて抗弁した。
「私じゃないですよ! もちろん!」
 ダイに面白がって酒を飲ませたのは、ダイとも交流ある下男たちらしい。ダイは『男装』をして少年として振る舞うことが板につきすぎていて、今となってはミズウィーリ家の使用人、男女共にかわいがられている。それはいいのだが、ダイの酒の弱さの程度を知らず、悪戯半分にかなり度のきつい酒を飲ませたらしい。舌触り滑らかな酒はあっという間にダイの身体に回って――結果、悪酔いしたのだ。
 この悪酔いは、彼女にとって、ではない。
 周囲にとって、である。
 目の座ったダイは、その口当たりまろやかでなかなか値段の張る酒を男たちに絡みながら要求し、瓶が全て空になると駄々をこね、時に叱りつけ――それも日頃、男たちが秘密にしているような何事かをずばずば指摘して、彼らをぞっとさせたらしい――安酒の飲み比べで彼らを打ち負かし(ダイは既に酔っ払いなので、その表現があっているのかどうかは謎だが)、話を聞いて慌てて飛んできたティティアンナにずっとべったり纏わりついているということだった。
「ねーてぃてぃーするならするれ、ちゃんーしらいとーまりあさま、もー、おいわいすゆってましゅしー」
 ティティアンナに何事かを囁くダイは、完全に、悪人面である。
「ダイ! その話は! また後できくから! ね!?」
 ここで暴露しないで、と悲鳴を上げるティティアンナに、ヒースは眉をひそめた。
「何の話ですか?」
「訊かないでください! 今は! お願いです!」
「はぁ……」
「ほら! ダイ! リヴォートさまがいらっしゃったわよ!」
「りうぉーとさまぁ?」
 ダイはじいっとヒースを見上げると、ぷい、とそっぽを向いた。
「やー、このひろ、ひきょうれすし、きらいー」
「ダイ! なんてこというの……!」
「リヴォート、さま、なんで、ここにいゆんれすか? こなくれ、いいれす。あっちいって、らさい」
 きらいーきらいーと連呼するダイに、ティティアンナの顔がみるみるうちに蒼白になっていく。
「だ、ダイ!」
「ティティアンナ、かまいません。貴女は外に出なさい」
 ヒースは気疲れに肩を落として、空の酒瓶と食べさしの軽食で散らかった部屋を見渡した。
「この部屋の清掃はもう明日でいいでしょう。ダイに無理やり酒を飲ませた男たちにさせます。貴女も酔い止めをもらって眠る様に。明日に差し障ります」
「で、でもリヴォート様」
「てぃてぃ、いっちゃやだー」
 ぎゅう、とティティアンナの腰を抱く腕に力を込めて、ダイが呻く。
「まだーのむー」
「駄目です」
 ヒースが即座に切り捨てると、ダイはきっと目線で挑みかかった。
「らめじゃない! ひーすは、よんれない! あっちいって!」
「申し訳ないですが、この場を収拾するように言いつかったもので」
 ヒースはダイの身体をべりべりティティアンナから引きはがした。ダイから解放された侍女は、当惑の表情でヒースを見返す。
「あ、あの……」
「先ほど言った通りです。離れなさい。あと、ここには皆、近寄らぬように。貴女みたいにくっつかれたら厄介でしょう」
「リヴォート様は?」
「どうにかして彼女に睡眠薬を飲ませて、眠ったら上へ運びます。大丈夫ですよ」
 ここまで酒を飲んでいるのに眠らないということは、もう薬を与えて強制的に意識を遮断してやるしかないだろう。薬も持ってきた。数少ない私物の一つである――即効性のあるものを。ヒースがそれをこんなくだらないことに使うとは、作った同僚は考えもしていないだろうが。
 じたばたと暴れるダイを背後から抱き込んで、ヒースはティティアンナに命じた。
「早く、行ってください。ダイが落ち着かない」
「あ、えーっと、すみません」
「てぃてぃー」
「ご、ごめんね、ダイ。おやすみなさい。また明日ね? ……それではリヴォート様」
「えぇ、よく休んでください」
 ティティアンナと軽く片づけていた使用人たちがばたばたと部屋を出ていく。談話室の扉が閉め切られ、二人きりになったことを確認して、ヒースは手をがふがふ噛む少女の額を逆の手でぐぐぐと引き離した。
「ダイ、痛い」
 だがダイは酔っ払いならではのとんでもない力で離れようとしない。ダイ、と再び呼びかけても知らぬ顔をしたままだ。
「……ディアナ、やめなさい」
 真名を呼ばれ、少女はようやっと面を上げた。生理的な涙滲み、酒で目元が紅潮している。唇が、毒々しいほどに赤かった。
 呼気が、本当に、酒臭い。
 ヒースは談話室にきて何度目かわからぬ溜息を零した。彼女に酒を飲ました男たちには、この部屋の清掃だけではなく、当分は厨房の皿洗いを命じてやろう。厨房長のグレインが喜ぶだろう。
 ダイを抱きかかえたまま長椅子に腰を下ろす。だが彼女はヒースの胸に手を突いて、命一杯身体を反らした。
「ひーすきらい。いつも、くゆから、きやい」
 いつも来るから嫌い?
 どういう意味だろう、と首を傾げつつ、少女の唇から連続して吐かれる「嫌い」という単語に、暗澹とした想いが胸に広がる様を感じていた。勝手なものだ。嫌いになるよう仕向けたのは、他でもない自分なのに。存在を厭われて、喜ぶべきなのに。
 ヒースの腕の中でもがく少女を押さえつけ、どうすれば少女の口に丸薬を放り込めるだろうと考えた。水を支度させてから、皆を下げるべきだったと舌打ちする。
「あっちいっれ!」
「わかりました、言われた通りにしますから、これを食べてください」
 この場にはもしものことを考えて三粒だけ持参した。そのうち一粒を手のひらに載せて差し出すと、ダイの目が不審そうに眇められる。
「……なにー?」
「飴玉ですよ。甘いもの、好きでしょう?」
 月光と燭台に灯された火だけが光源の薄暗い部屋で、茶色の丸薬はダイが好んで食べる糖菓子に見えなくもない。
 じい、とその丸薬を睨み据えていたダイは、つん、と澄まして言った。
「ひーすが、らべたら、たべる」
「……ディアナ」
「ひーす、きょう、ごはんらべらんですか?」
「……まだですが」
「もー! らから! きらいらんれす!」
 ダイは突如身体を捻り、ヒースの腕から逃れようともがいた。ヒースの膝の上から――もとい、椅子から転がり落ちそうな身体を慌てて支える。
「危ない」
 叱咤を受けて、体勢を戻したダイの手には、鶏のささみと葉野菜を挟んだ麺麭が握られていた。
「はい」
 少女によって、食べろ、と口元に突き付けられ、ヒースは仕方なくそれを食む。野菜が萎びている上、麺麭も妙にぱさぱさしているが、食べられぬ味ではなかった。むしろ、仕事が一段落つくまで――と先延ばしにしたまま夕食をとり損ねていた身としては、普通に美味だった。空腹は最良の調味料、とはよく言ったものである。
 麺麭を平らげたヒースに、少女は続けて肉の香草包みを差し出す。それが終われば、次は肉の燻製に乾酪を溶かしかけたもの、杏の砂糖煮が入った麺麭、林檎の欠片。
「らいらいれすよ!」
 ヒースの口元に料理を突き付けながら、彼女はぷりぷりと言った。
「ぐれいんさんがー、ひーす、ごはんらべらいって! ろーしてそうゆーここ、するんれすか! あたしはーひーすの、そうゆーろろ、いちばん、きらいーらんれす!」
 もぐ、と口の中に放り込まれた蜂蜜で炒った胡桃を咀嚼しながら、ヒースは下唇を突きだす少女に見入った。
「きいれるんれすか!」
「……聞いてますよ」
「らっららーいいれす! ちゃんろーらべれくだらい! じぶんのーからら、いためつけるひろ、なんて、きらいれす! きらいれすから!」
 彼女と距離をとるようになってから、ヒースはまた、食事の量を落とした。
 自分がまともに食事をとれないのは今に始まったことではなく、もうここに来る前からのことだった。会食で無理やり口にする品々が、ヒースの身体を保っている。それでも度々、吐いた。酒も料理も、味を感じなくなって久しい。
 この少女といるときだけだった。きちんと、味がして、穏やかな気持ちで、祈りを捧げて、食事をすることができた。
 ――……遠い、昔のように。
 嫌いの、意味が、自分が望むものと異なっていることに、どうしてこんなにも、安堵するのだろう。
 どうして、こんなにも、嬉しいのだろう。
 少女の肩を抱きながら、浅く、早くなっていく呼吸を整えようと試みる。深く、息を吸って吐き、瞬くと、堪えきれなかった滴が一滴、知れず頬を滑った。
 少女の手が、ヒースの頬を撫ぜ、親指の先が唇に触れた。戯れに舐めてみると、先ほどの胡桃のせいなのか、どこか香ばしく、甘い味がした。
 くすぐったそうに身を捩った彼女は、ヒースに食事をとらせて満足したのか、目を閉じて唇を薄く開く。
 口づけをねだられているのかと、ヒースは反射的に顔を寄せかけた。
「あめだま?」
 ダイの言葉に我に返り、ヒースは沸いた自分の頭に毒づいた。慌てて、彼女の口元に丸薬を放り込む。もごもごとそれをしばらく舐ったダイは、不服そうに眉間に皺を寄せた。
「あまくないー」
「そうですか? ……あぁ、吐かないで」
 唇を手で覆うと、ダイはきゅっと顔を中心に寄せたまま、大人しく丸薬を呑み込む。
 その薬は、魔術的な方法を用いて作られている。故に、とにかく効きが早い。
 とろりと瞼の半分を落としたダイは、ぽすりと顔をヒースの肩口に預けた。彼女の酒気を帯びた熱い息が、ヒースの首筋を撫でていく。
「ひーすー」
「……はい」
 呼びかけに応じると、彼女は不安そうにヒースを見上げてきた。
「……ひーすは、わたしのこと、きらいに、なったの?」
 そうだ、と、答えるべきだった。
 しかし舌は反対のことを告げていた。
「いいえ」
 片手で少女の身体を支え、空いたもう一方の手で、彼女の華奢な手を包み込む。
 その、小さな手の、華奢な指が、ヒースの骨ばった指に絡んで、強く握りあわされた。
 彼女の手は、熱を持っていた。その熱が、溶けて、ヒースの皮膚に癒着していくようだった。
 ダイはヒースの返答に満足したのか、嬉しそうに微笑んで、まってますね、と言った。
 仲直りする、その日を。
 ヒースが事情を話すだろう、日を。
 永遠に、来るはずのない日を。
 ようやっと寝息を立てた少女の身体を、ヒースは抱きしめた。
 彼女を食べて、腹におさめたら、飢餓感に喘ぐこともなく、罪悪感にこんなに苦しむこともないのだろうかと、部屋を漂う臭気に当てられた脳の片隅で思った。



 数日後。
「ダイ、あんたヒースに礼を言っておきなさいよ」
「ヒースに?」
 きょとんと瞬くダイに、マリアージュは言った。
「酔いつぶれたあんたを部屋まで運んで、この間の件の後始末したのあいつらしいから」
 下男たちに悪戯で酒を飲まされて、ダイは例によって意識を飛ばした。その件については誰も語りたがらないので、気絶したのだろう……と、勝手に思っている。真相は闇の中だ。下男たちはあの後、こっぴどく叱られたらしい。
「……あぁ……」
「……いつになったら仲直りするんのよ、あんたたちは」
「だから、喧嘩はしてないんですって! ……女王選が終わったら、ですかね」
「……ま、なんでもいいけど」
 長椅子に横になり、ダイに肌の手入れを受けるマリアージュは、窓の外へおもむろに視線を投げる。
桟に切り取られた青空に、白い雲が流れている。
「早く終わらないかしらね、女王選」
 めんどうだわ、と呻く主人に、ダイは苦笑しながら、そうですね、と同意した。