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32 神様の声はここに

 「かーみさーまのこーえがーきーこえーる」

 歌が聞こえる。

「いとしーいあなたのこえににていーるー」

 天使の歌が。



「――杏!」
 ママに呼ばれて、杏はぴゃっと縮こまった。こわごわ顔を上げると、お部屋の入り口でママがにっこり仁王立ちしていた。
「ねぇ杏、片付けにあがったはずなのに、どうしてこんなに部屋を散らかしてしまったのか、理由を教えてくれる?」
 ママはとびきりの美人だ。わかるかな。美人は怒鳴らないんだよ。怒ると笑うの。それから猫撫で声になるの。怖い。
 笑って誤魔化しながら、うつぶせから起き上がる。
 杏の周りには古いアルバムやミュージックCDのケースが散らばっている。ママが若い頃のものだ。アナログなそれらが物珍しくて(わざわざ物理で残すなんてゼイタクだなって思うのだ)眺めていたら、時間が経ってしまっていたのである。
「仕方ないわね。とりあえず降りてきなさい。お昼できてるわよ。片付けないと今日は家に帰らないからね」
「うっ、がんばる……」
 明日は友だちのママに仲良し組と一緒にトランポリンパークへ連れて行ってもらう約束をしているのだ。引っ越しまで日がないし、何が何でも片付けなければ。
 そう、杏とママはしばらくお祖父ちゃんの家に居を移すことになったのだ。入院しているお祖父ちゃんのお世話のために。ここは杏が来月から使うことになる、元々はママの部屋だった。片付け中に纏められた古いアルバムを見つけて、パパの姿がないか、つい探してしまっていた。
 杏のママはパパと結婚していない。フリンじゃないよ。時々会えるパパは、ママと結婚したいなーって杏に零す。でも色々と面倒だから、結婚しないほうがいいんだって。オトナって難しいね。杏はパパといまの距離でいいかな。毎日だときっとウザいもん。パパ、杏が大好きだから。
 杏もパパは好きだよ。アルバムの中にパパいないかなって探すぐらいには。



「ママはパパと一緒に暮らさなくて、寂しくないの?」
 冷やし中華をお箸でこねながら、杏が尋ねてくる。わたしたちの仲が良好で、互いに仕事が忙しいから、杏がそんな風に尋ねてくるのは、本当に幼いころ以来だった。
(……寂しいねぇ)
 棗はぽりぽりキュウリを咀嚼しながら考えた。寂しく――。
「ないわね。まったく」
「やっぱり? ママはお仕事が旦那さまだもんね?」
「どこで覚えたのそんな言い回し。……そうね。わたしが寂しいっていったらだめでしょ。わたしには杏がいるんだから」
 ぱちぱちと瞬く娘に棗は箸を持つ手を休めて微笑む。
「ねぇ杏。他人と接するには適切な距離が必要なの。近づきすぎると、大事にできなくなる場合があるのよ。わたしと智紀はそうだったの」
「パパは他人じゃなくない?」
「血が繋がろうがなんだろうが、大切の基準が自分とは違う誰かって意味」
「よくわかんない」
「自分の好きを通すのに、どれぐらいお話し合いと気遣いと周りのお片付けが必要かって話よ」
「うーん。まぁ、ママが寂しくないなら、いっか」
 娘のからっとした気性には助けられている。難しい話にさじを投げただけかもしれないが。
 子供らしい旺盛な食欲で中華麺を平らげ始める杏を、棗は苦笑しながら見守った。
 夏の和室には、食事の音と、エアコンの室外機の駆動音、軒下に吊るされた風鈴の音色が響いている。蝉の声は遠く、昔、賑やかだった部屋はとても静かだ。
 だから、杏の父親が、ここにいればと願ったことは、ある。
 けれど妹尾の血縁、特に紫藤家と杏の父親の職は相性が悪かったし、結婚するかどうかの話が出ていたとき、彼の所属する音楽グループは人気の絶頂にあった。彼の事務所が結婚を嫌ったこともあって、いまの形に落ち着いたのだ。
 そもそも棗は自身の容貌から、一般的な結婚は望めないと子どものころから諦めていた。
 それなのに。
「そういえば、なんで杏は神声なんて昔の曲しってるの?」
「カミコエ? かーみさまの〜ってやつ?」
「そうそれ」
 杏は呆れた顔をした。
「えー、知らないの? いますごく人気なのに?」
「うそっ、流行ってるの!?」
「たまには流行アップデートしたほうがいーよ、ママ」
 ほら、と、杏がスマホをタップして、動画を見せてくれる。慌てる棗に娘は軽やかな笑い声をあげる。
 大丈夫。本当に寂しくないの。だってほら。
 わたしの神様の声はここにもある。