第一章 安寧に楔が打たれ 3
「あ、無理だ」
鍵屋のアイザックは、こちらの両手両足を拘束する鎖を一瞥するなり匙を投げた。
「見て速攻それかよオイ」
「無理なもんは無理だ。純粋な鍵なら俺っちの恋人だから意地でもその股を開いてみせるけど」
「下品な表現はつかうんじゃねぇ女の前で」
イルバは嘆息しながら男をたしなめた。アイザックという青年は、鍵さえあればすべて満たされるという非常に変わった嗜好の持ち主だ。その嗜好だけならまだしも、口を開けば下品な単語しか飛び出さない。せめて口調だけでも一般的なそれであれば、この店はもう少し繁盛しているだろうに。
腕はいいというのに、相変わらず閑古鳥が鳴く店内だ。
だが店主はあまり気にした様子もなく、からからと笑った。
「イルバってばお上品」
「お上品てか、客商売する上での最低限度のツツシミだ。こんだけ客入らねぇのに、てめぇの店よく潰れねぇよな」
「んっふっふ。上客がいるからねぇ」
「あそ」
「あのぅ」
口を挟んだのはフィルだった。鎖から解放されないと、店を訪れて早々宣告された女は、手足の枷に視線を落としつつ言葉を続けた。
「純粋な鍵ではないというのは、どういうことですか?」
そうだった、とイルバは胸中で呻いた。アイザックは、純粋な鍵でないから開けられないといったのだ。
その意味を、まだ自分達は聞いていない。
「まじないが施されてる」
アイザックは、フィルの枷の小さな鍵穴を指差して言った。
「まじないの鍵は厄介なんだ。その鍵でしか開けらんねぇ。こればっかは俺っちには無理だ。俺、魔術の才能皆無だもん。子種ならいっぱいあるけど」
たしなめたにも係わらず下品さを忘れないアイザックの言葉を、ひとまず無視してイルバは呻いた。
「しかたねぇなぁ、やっぱ斧で壊すか」
もともとさほど期待はしていなかった。斧で壊す方法は当初の想定内だ。
が、血相を変えてアイザックがイルバを押し留めた。
「やめといたほうがいいってイルバ。まじないの鍵は呪いとかくっついてることがあるんだ。無理に壊したりすると、そいつが死んだりとかさ」
「何?」
「では私は、このままだということなのですね?」
名前を失ってさえさほど動じることのなかったフィルが初めて困惑顔を見せる。イルバは後頭部を軽く掻きながら彼女に応じた。
「そうさな」
枷をはめられたままで困るのはフィルだけではない。イルバ自身もそうだった。女に宿を提供することぐらいはかまわないが、手足の使えぬ彼女の世話となると、話がまた異なってくる。
どうしたものか、と腕を組んで思案するイルバに、アイザックが明るく声を上げた。
「何俺っち差し置いて困った顔してんのイルバ」
「てめぇに鍵あける才能がねぇから困ってるんだろうがこのボケアイザック」
「ちょちょちょ、俺っちに才能がないのは、ま、じゅ、つ! 単なる鍵はいつでも俺っちの手に掛かればちょちょいのちょいなの!」
「どうだか」
「あーあーあーそんなこと言ってると、鍵開けてくれそうな心当たり、紹介してやんないよん?」
何、と肩眉を歪めたイルバの傍らを、女が通り過ぎた。フィルはじゃらりと重たげに鎖を鳴らしながらも、文字通り飛びつくようにしてアイザックの両手を握っていた。
「ヒョホぉ! 長い人生でこんな風に女の子に手ぇ握られんの、俺っちハジメテカモ」
照れているのか、林檎のように頬を染めて呻くアイザックに、イルバは思わず鳥肌を立てた。男が頬を染める姿なんぞみても、ちっとも面白くない。
一方、アイザックの手を握るフィルは真剣そのもので、彼の目を真っ直ぐに見据えている。イルバは女の白い手に力が篭る様をみた。
「紹介してください。この枷を外してくださるという方を」
「了解」
「二つ返事かよ!」
ぐ、と女の手を握り返すアイザックを彼女から引き剥がして、イルバは突っ込んだ。
「あぁぁぁぁ女の子の手ぇぇぇぇぇ!」
「オイコラ鍵でもにぎっとけ。フィルもそういった真似をコイツにしてやるな調子に乗るから」
ぎゃぁぎゃぁ騒ぎ立てるアイザックの顔をぐぐぐ、と押さえつけながら、イルバは呻いた。が、一方のフィルはといえば、けろりとした表情だ。
「真摯にお願いをしていただけですが」
何が問題なのかといわんばかりに、さらりと女は述べる。
「そうだよそうだよ俺っちの貴重な女の子とのふれあいがぁぁぁ」
「花町にでもいけ!」
イルバは掴んでいた鍵屋の男の頭をそのまま床のほうに投げ捨てた。襟元を正して、嘆息する。
「イルバさん、せっかくこの枷を外してくださることのできるお方を紹介してくださろうとしているのです。そうもぞんざいに扱われるものではないのでは」
「いや、こいつはぞんざいにあつかっていい。思う存分にだ」
「では、枷が取れない間すべてイルバさんが私の面倒を見てくださるということで?」
「……オイ」
「あぁ、嬉しいですね。枷をはめられた私は、満足に働くこともできませんが、せっかく枷が取れそうな機会を潰してくださったのはイルバさんですから、面倒を全て見てくださるのですわよね? 三食昼寝つきという大層な身分が、今手に入るのですね。がんばってくださいイルバさん。他でもない私の為に」
女の表情は、どこまでも真顔だった。
この女は、本当に記憶喪失なのだろうか。イルバは頭を抱えて自問した。普通、記憶を失うと、情緒不安定になったりするものではないのか。この女ときたら、嫌なことや迷いを綺麗さっぱり忘れてきましたといわんばかりに、清清しい顔をして、この状況を楽しんでいるようなのだ。
「いやあのな、フィル」
そもそも、難波していた女を助けた自分が、どうして脅されているのか。
だが女はどこまでも強かった。
「面倒、みてくださるのですわよね?」
イルバは、白旗を揚げた。
女の言われるままにアイザックに謝罪し、人を紹介してもらえるよう、頭を下げるはめになったのだった。
「レンと申します」
奥の離宮に初めて顔を見せる女官は、自己紹介をして頭を下げた。
シノが姿を消し、女官達誰もが奔走していた。ティアレの世話の手が回らなくなったということで、一人、女官がティアレの傍に侍ることを許された。それが、レンという女官だった。
長い髪を結い上げる女官が多い中で、レンは少年のように短い髪だった。この国で一般的に見られる黒髪黒目。ただ色は透けるように白かった。年は十八。まだ少女だ。
この国の女官達は教育がよく行き届いて仕事は滞りなく行うが、どこか賑やかな女が多い。一方レンはこの国の女官において非常に珍しく寡黙だった。無愛想な面もあるが、冷たいわけではないと、ティアレは思っている。かつて一度だけ顔を合わせたことのある女官が、奥の離宮の新参として推薦されてきたときに、そのまま採用の判を押したのはティアレ自身だった。
「ごめんなさいね。こんな時期にいきなり部署変えだなんて、貴方も大変だと思いますけれど」
ティアレは椅子に腰掛け、肩に掛けた上掛けのみごろを左手で支えながら、女官を労った。
部署変えは年に二回行われ、そのうち一回は春だ。が、今は部署変えの時期には少し早い時期だった。引継ぎすらできぬような慌しい職場の変更に、レンも戸惑っているのだろう。そう思ったのだ。
が、女官はいいえ、と眉一つ動かすことなく言った。
「気に病まれることはございません。妃殿下」
「レン。もしよければ、ですが」
ティアレは手元の書類に視線を落とした。ティアレが数ある女官の推薦書の中から唯一承諾の判を押したレンの書類がそこにある。正妃としての位について三年が経過している。その間に、机仕事も増えたとティアレは思う。
「私のことは、奥の離宮の中だけでかまいませんから、名前で呼んでいただけませんか? ……他の皆と、同じように」
「お名前で?」
「えぇ」
ティアレが初めてこの宮につれてこられたときからの習いで、奥の離宮に仕える女たちは皆ティアレのことを妃殿下ではなく様付けの名前で呼ぶ。本殿ではさすがに、正式な尊称を使うが。
正妃という位。自分は望んでその場所に立ったのだ。玉座をたった一人で温める、ラルトを抱きしめるために。
だがそれと同時に、自分が失われていく恐怖もある。肩書きに押しつぶされて自分が消失していく感覚だ。
せめて奥の離宮だけでは、自分が何者なのか思い出せる場所であってほしいと――それはラルトだけではなく、ティアレ自身にとっても――ティアレは思っていた。
レンはその時初めて逡巡を見せた。わずかばかり柳眉を歪め、どうすべきか考えあぐねているようだった。
「では、ティアレ様、と」
「ありがとうございます」
ティアレは微笑んで立ち上がった。
「離宮の中を案内いたしましょう」
「妃殿下自らがですか?」
「レン」
「……ティアレ様、が」
ティアレは苦笑した。身体に染み込んだ敬称の使い方を突然切り替えることは難しい。ティアレ自身、以前ラルトにも散々訂正を受けた身だ。よくわかる。
「えぇ。奥の離宮は最低限の人数しか置いておりません。今、皆は出払っていますから、一番暇な私が案内しましょう。皆気安くてよい方々ばかりですし、すぐ慣れるでしょう」
実際、ティアレもまたこの場所に来てすぐに馴染んだ。すぐに、馴染みすぎて――あの頃は、この優しい人々をどうしたら己の呪いから遠ざけることができるのか、そればかり思案していた。
あれからもう、数年の年月が経ったのだ。早いものだと思う。
「この離宮は、くつろぐための場所です。仕える貴方も気を楽にしてくださいね。本殿での仕事との兼ね合いは、ヒウに相談してください」
奥の離宮に仕えながら、本殿で人事の職務に就く女官の名前をティアレは出した。
「初めですから、こちらの仕事にまず従事していただくことになると思います」
後に続くレンは、ティアレの言葉に一つ一つ小さく頷いていた。ティアレはレンの手を取りながら、最後に言った。
「それでは、宜しくお願いいたしますね? レン」
レンは困惑したように己の手を見下ろして、首を縦に振った。
「宜しくお願いいたします。……ティアレ様」
小さな雷にも似た蒼い光がほとばしる。
枷はぱちぱちと放電し、間を置いて、かちりという音を立てた。
「と」
「とれた」
開いた枷を地に落とす。じゃらららら、という鎖の音が派手に響いた。
「すげぇな」
イルバは地に落ちた枷の一つを拾い上げ、その鍵穴を見つめながら感嘆した。
枷の一部に、小指の爪の先ほどもない、小さな宝玉が埋まっている。一回限りしか使えない招力石の屑を固めたものだが、これに魔力を込めると鍵となるそうだ。
「たいしたものじゃなかったですよ」
フィルの枷を外した青年が、道具を片付けながらそういった。
「僕でも外せるぐらいですし」
アイザックが紹介した青年は、イルバが故郷を失う少し以前に、先だって滅んだ西の大国メイゼンブル出身の学生だった。諸島連国に亡命して、今はこの国で魔術関連の相談役をしながら食べ繋いでいるという。
「本当に、助かりました」
枷のはずれた手首を擦りながら、フィルが微笑んだ。青年は照れたのか、頬を染めながら両手と首を勢いよく左右に振った。
「いやいやいや。そんなんじゃないですよ。僕もお仕事させてもらって、お陰で当分飯にはこまりそうにないですし! あ、そうだ! その傷も治りやすいようにまじないしておきましょう!」
彼女の両手首足首は、長い間金属に挟まれていたせいで擦過傷になってしまっている。遠目からでは、赤紫の布を巻いているかのようにも見えた。
「手の甲を上にして両手を出してください」
青年は鞄から小さな壷と小筆を取り出すと、フィルに指示した。
「お前、医療の真似事もできるのか?」
フィルの両手の甲に、赤茶けた墨でさらさらと文様を描いていく青年に、イルバは尋ねた。
「僕にできるのは、あくまで真似事です。学校で習った、応急処置程度のものなんです。これは怪我を治すとかそういうものではなくて、人が普通に持っている、自分で怪我を治そうとする力に働きかけて、治りをよくするまじないです。……よし。こんなものかな」
フィルの手の甲に描かれた文様は、まるで花や太陽の象形をあしらった刺青のようだった。文字で何か書かれているが、イルバにはそれを判別することができない。おそらく魔術で使われる、特殊な文字だろう。
文様を描いたその甲を、布で覆いながら青年は言葉を続ける。
「あとできちんと医者にみせて、手当てをしてもらってください。そうしたら、文様は落としてくださって大丈夫です。水で普通に落ちますから」
「ありがとうございます。本当に助かりました」
手足の拘束が解かれて、フィルは本当に嬉しそうだった。それはそうだろうと、イルバは手元の枷を見つめて思った。イルバの手にあってさえ、鎖に繋がれた枷は重量がある。女の身で、こんなものに繋がれていては、さぞや重く辛かっただろう。
「それじゃぁ、僕は失礼いたします。また何かあったら、贔屓にしてください」
筆を布で拭った青年は、てきぱきと道具を全て鞄の中に放り込んでそれを抱え上げた。日よけの帽子のつばを軽く押し上げて一礼し、青年は戸を押し開いて表通りに出て行く。
彼を見送り、さて、とイルバは女を振り返った。