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第一章 安寧に楔が打たれ 1


 イルバの一日は、海辺の散歩で始まる。
 一刻もかければぐるりと一周できてしまう小さな島の浜辺を、朝一回、夕刻一回、日の出と日の入りを見るために散歩に出かける。家にいても太陽の出入りを見ることは可能だ。が、身体を動かして潮風を感じつつ水面に反射した橙の光を眺めることをイルバは好んだ。
 誰も住まわぬこの島に腰を落ち着けて七年を過ぎたか。海辺の散歩は、初めてこの島にやってきたその日から、欠かさず行っている日課だった。
「ひでぇ嵐だったな」
 海辺に打ち上げられた木の板を拾い上げながらイルバは独りごちた。昨夜の嵐は酷いものだった。椰子の木が折れそうなほどにしなり、風は獣の咆哮のようだった。雷も落ちた。光が幾度も瞬いて、灯りを落とした部屋を照らしていた。雨漏りも酷かった。散歩から帰って、行わなければならないだろう家の屋根の修復を思うとうんざりする。
 船が難破するのも無理はない。どこかで一隻沈没したのだろう。その破片らしき板が浜辺のいたるところに打ち上げられている。イルバが拾い上げた板もそのうちの一つだった。割れたランタン、羅針盤。空っぽの木箱に破れた布地。この島の周辺は遠浅が続いているため、近場で船が難破したとは考えにくい。おそらく海流に乗せられ、軽いものだけが運ばれてきたのだろう。
「お、これなんかいい感じだな」
 砂の狭間で朝日を受けて鈍く光った金の鎖を指先で拾い上げた。その先には、丸い円盤が取り付けられている。美しい細工の施された懐中時計。五百年前に機械の王国[クラフト・クラ・フレスコ]が滅びてからは、製造する技術が失われ、市場に出回ることも滅多にない骨董品だ。いいものを拾ったと懐に懐中時計を収めたイルバは、遠くにもうひとつ光るものを見つけた。
「なんだ結構大量じゃねぇか」
 町に行って売りさばけば、相当な収入になる。いい酒が手に入るなと、鼻歌交じりにのんびりと光源へと歩み寄ったイルバは、波に洗われながら次第に輪郭をあらわにする光の正体に、思わず立ち止まらざるを得なかった。
「……うげ」
 呻いて、舌打ちする。光の下に駆け寄って、その傍らに片膝をついたイルバは、顔をしかめ視線を廻らせた。
 朝日を照り返すのは、見るからに重量のある、黒い鉄枷。
 その枷につながれているのは、蒼ざめた顔色でありながらも、胸元を上下させる女。
(生きてやがる)
 いっそ、[むくろ]であったなら、埋めるだけでよかったものを。
 再度舌打ちしながら頬に張り付いた髪を払ってやると、整ったうりざね顔が現れた。柳眉の下にはきつく閉じられた瞼。唇は紫に変色して、薄く開かれている。時折それは震えて、掠れた声を紡ぎだした。
「……フィ……る」
 漣にかき消されそうなかすかな声を聞きながら、イルバは潮でぱさついた髪に覆われる頭を掻いた。空を仰ぎ見て、嘆息する。
「こいつぁ……なんか厄介なものを拾ったぞぉオイ」
 見上げた空は嵐の名残を微塵も見せず、一面美しい青に塗りつぶされていた。


『――』
 名前を呼ばれて振り返る。木陰の向こうから悠然と歩いてくる男は、よく見知った男だった。
 フィリオル・シオ・トアーフォ。男の名を口の中で転がして、男の姿をはっきりと視界に納めるべく、手を翳して庇を作った。
『フィル』
 黒髪黒目に中肉中背。海老茶色の簡素な官服に身を包んで男は小脇に書物を抱えている。その穏やかな物腰と表情に相応しい柔らかな声音で、彼は再びこちらの名前を呼んだ。
『――』
 呼び声に微笑で答え、男に向き直る。久しく姿を見ていなかった愛しい人。彼は長身というわけでもないが、横に並べば頭一つ分背が高い。見上げながら、その穏やかな眼差しを見つめ返した。
『お帰りなさいませ』
『ただいま』
 男は照れたように笑いを浮かべて頷き、だがすぐに表情を引き締めた。優秀な文官の顔。地方視察を行う皇帝についてしばらく宮城を留守にしていた男は、押し殺した声で問うてくる。
『何か変わりは?』
 男の案じる安否とは、自分のことではなく、この城全体について……引いていえば、自分が長年付き添っている娘のことだった。微笑んで、首を振る。
『いいえ』
 脳裏に、月光りの下で影を重ねる男女の姿がよぎったけれども。それを振り払うように、首を振る。
『いいえ。なにも』
 こちらの微笑みに、男は嘆息を零す。目を遠くへとやって、彼は呻いた。
『ならば、いいが』
 男は深く追求しない。こちらの微笑のその奥に押し込められた葛藤を、追求しない。
 疲れた男の横顔を黙って見つめているとふと、影が差した。男の口付けを黙って受け入れて、温かな腕の中に閉じ込められる。
『本当に、何もないのか?』
『なにも』
 背中に手を回しながら、頭を振った。なにもない。なにもなかった。なにもしらない。わたしは。
『何もありません』
 沈黙が落ち、訝って見上げた男の顔は、哀しみに彩られていた。何をそんなに悲しむ必要がある。問いは喉下まで込み上げるものの、それ以上、上ることはない。問いかける代わりに男の服を握り締めて、頬を肩口に押し付ける。
『――』
 男がこちらの名前を呼ぶ。愛おしさと悲しさが、入り混じった声音で。
『本当に何もないのなら、私はかまわない。けれども何かあるのなら、包み隠さず陛下に諫言申し上げるべきだ』
 幼子を諭すように、男は言う。
『沈黙は、時に嘘よりも重い罪となって私たちを裁く。私は私の愛しい人に、決して罪を犯してほしくはない』
『なにもありませんでした!』
 自らの声は悲鳴のように耳朶を打ち、声を発した喉は酒を飲み干したときのような熱さに焼かれていた。涙をこぼさないように目を閉じて、男の衣服を握り締め続ける。
 罪でもいい。そうして、国が再び混沌に沈まないというのなら。罪でもいい。自分ひとりが口を閉ざして、安寧が訪れるのなら。
 男のいうように、罪であってもかまわない。
 かまわないのだ――。
 ふと、腕の中の身体が霧のように掻き消えた。驚愕に目を見開き、周囲を見回す。いつの間にか場所は裏庭から、自分の主の部屋へと移っていた。くつろぐための空間として調度の整えられた、居心地よいはずの空間には、悲鳴と怒号が渦巻いている。砕け散った茶碗の傍で、瞳孔を開き横たわったまま微動だにしない男。膝をつき、男の頬に触れ、そうして彼の身体から命がぬけていることを知った。徐々に体温を失っていく、身体。
 その身体を抱きしめた自分は、部屋に渦巻く全ての声を押しのけて、高らかに響き渡った女の哄笑を耳にした。視線を動かせば部屋の中心で、狂ったように笑う女の姿。彼女は笑い声を上げながら、頬を涙で濡らしていた。白目が青白く塗れて輝いている。紅の掃かれた艶やかな唇は、哄笑を嗚咽に摩り替えていく。女はやがて身体を伏せて泣き崩れた。
 男の身体を抱きしめながら、その様子を見つめていた自分は、今更のように自らがどうしようもない罪を犯してしまったことを知った。
『フィル』
 名を呼んでも、腕の中の男は答えない。毒の苦しみにもがいていた彼の同僚が、一人、また一人と沈黙していく。
『フィル』
 頬を涙が伝う。それは血潮のような熱さを宿して瞳の奥から零れ落ちたが、身体に巣食う罪までは洗い流しはしない。
『フィル』
 男の身体はやがて輪郭を失って崩れ去り、女の姿に取って代わった。卸したばかりの銅の色の髪に、女神と見間違[みまご]う美しい美貌の女。ただ頬に血の気はなく、抱きしめる身体は真冬のような冷たさを宿している。
 だれかたすけて。
 声にならない声で、救いを求める。冷たいつめたい、女の身体を抱きしめて。
 だれか、だれかたすけて。
 だれかこの人を助けて。
『フィル……!』


 からららら……
 何かが触れ合う、音楽的な音。
 最初に視界に映ったものは、貝殻と玻璃の管を組み合わせて作られた風鈴だった。からからからからと絶え間なく、風に揺られて軽やかな音を立てている。視力を取り戻すにつれて明らかになる、その風鈴の向こうに広がる鮮烈な蒼。その蒼穹に筆で掃いたかのようにくっきりと描かれた白い雲。そして、視線を動かさずとも目に入る、入道雲の根に広がる翡翠色の大地。
「……う、み」
 海だ。
 水晶のような透明度と宝石のような美しい碧を誇る輝一面の海が、太陽の光を乱反射しながら規則正しく潮騒を響かせている。心地よい海の音によって、再び眠りに引き込まれかけていた意識は、突如視界を埋めた童女の青い瞳によって浮上を余儀なくされた。
「……え?」
「せんせぇ――!」
 目を瞬かせていると、自分の顔を覗き込んでいた童女が面を起こし、声を張り上げた。甲高い声が聴覚を刺激する。
「せーぇんせぇー!! おねーちゃん目が覚めたぁー!」
「ど、あ、ほ、う! 病人の前で叫ぶなつっただろうがこるぅあー!」
 童女の声に顔をしかめていた自分の耳に、どすの効いた男の声が飛び込んできた。痛む首を動かして面を声の響いたほうへと向けると、木材を肩に担いだ体躯のよい男が乱暴な足取りでこちらへと駆け寄ってくる。童女はきゃぁと悲鳴を上げながら自分の下を離れ、砂浜へと駆けていった。今まで気付かなかったが、波打ち際では年端の行かぬ子供たちが無邪気なはしゃぎ声を上げている。
「おい」
 ぼんやりと童女が他の子供たちに混じる様子を眺めていると、頭上から声がかかった。
「大丈夫か。悪かったな。五月蝿かっただろう」
 男は足元に木材を砂浜に投げ捨て、腰に手を当てながらそういった。
 健康そうによく焼けた、褐色の肌をもつ男である。髪は赤茶で、長年鋏を入れていないのか肩甲骨の辺りまで伸び放題になったものを、適当に首下で束ねたといった風であった。作務衣に似た薄汚れた白の衣装に身を包み、黒緑の帯で腰を縛っている。無精髭が粗暴な雰囲気をかもし出しているが、彫りの深い顔に納まる、自分を見下ろす藍の瞳は澄んでいた。
 男の問いに答えようにも、喉を上手く震わせることが出来ない。唇だけを震わせる自分に、男は手を振った。
「あぁ、しんどいなら無理するな。話なら後できくからよ」
 男は傍から組み立て式の椅子を引き寄せて、腰を落とした。小さな布張りの椅子が、その拍子に軋みをあげる。男の大柄な体躯にあまりにも似つかわしくない椅子だ。もう少し大きな椅子はないのだろうかと勘繰ったところで、自分がおそらく彼用と思われる椅子を占領していることに気がついた。ゆったりとした幅広の揺り椅子に綿のたっぷりと詰まった敷物が敷かれ、その上に、自分は座らされている。膝の上には模様様々な布を繋ぎ合わせて作られたひざ掛け。
「悪いな。実は寝室雨漏りしててよ。昨日の嵐で水びだしで、寝かせられるような状態じゃなかったんだ。ちょいと窮屈かもしれねぇが、我慢してくれや」
「……いえ……」
 かまわない、と身体を起こそうとして、ふと腕と足に掛かる重みに気がついた。じゃらり、と金属の擦れる音。両手をゆっくりと持ち上げれば、その手首にはめられた鈍色に光る枷があらわになった。これは、一体なんなのだろう。答えを求めて視線を男に投げかけると、彼は困った表情を浮かべて頭を掻いた。
「あーわりぃ。寝てる間に外そうと思ったんだがな。実は斧が壊れちまってよ。明日町へ行くついでに、鍵屋につれってやるからソレまで我慢してくれ。ちょっち寝にくいかもしれねぇけど」
 男の口調から、どうやらこの枷は男の手によってはめられたものではないらしい。
 そもそもどうして自分は手足を拘束されているのか、過去を思い返そうにも頭に靄が掛かっている。首を捻る自分に、男が誰何の質問を投げかけてきた。
「とりあえず、名前だけ教えてくれ。呼び方がわからねぇとめんどくさいからな色々」
「……判りません」
「……あん?」
 どうにか搾り出すことのできた声は、擦れていた。ひどく、喉が渇いている。水が欲しいと思いながら、言葉を繰り返した。
「わかりません」
「……わかりませんって、名前だぞ。あんたの」
 男は露骨に顔をしかめ糾弾したが、そんな彼に対して返せる言葉はこれだけだ。
「思い出せないんです」
 自らの名前が思い出せないというのに、酷く落ち着いていると、自分で自分を嗤いたくなる。
 男は大仰に嘆息して顔を両手で覆うと、この世の終わりとでもいうような嘆きをその大きな手の狭間から漏らした。
「あーこりゃとんでもねぇ拾いもんだよったく……」


 帰ってきて早々、エイの報告に、ラルトは気が遠のくのを感じた。
「……シノが、いない?」
「はい」
 頷いたのは、エイ・カンウ。年は今年二十四になるはずだ。人柄としてはどこかぬけている不器用な男だが、仕事自体は真面目で卒がない。飛びぬけて優秀な男だった。宰相補佐という役職から、一つ位を上げた。<左僕射>と呼ばれる冢宰として、東奔西走する男だ。
 ラルトがこの国を不在にする前の宰相と共に人事に係わり選出した、最後の男。
 外交のために城を空けている――少なくとも公式ではそのようになっている――宰相の留守を、その身でもって埋めている若い文官の表情もまた、困惑で彩られていた。
「先日から、女官長の姿が見えないのです。こんなことはかつてありません。生家のほうにもお帰りになられていないようです。内々に衛兵と女官で手分けをして探させていますが……」
 彼の説明にはよどみがない。おそらく彼自身、部下から全く同じことを聞かされたのだろう。自分にとって家族同然といっていいほどの長い付き合いである、女官長が忽然と宮廷から姿を消した。その事実に対する動揺があまりに大きなものであることにラルトは狼狽していた。
 何故、という文字が脳裏を駆け巡る。何故、何故、何故。シノ・テウインは、自分が玉座に登る前から付き合いのある信頼の置ける女官だ。何の前触れもなく、姿を消すなどと考えられない。
 何かに、巻き込まれたと考えるのが妥当だ。
「……か……陛下」
「あ? あぁすまない……エイ?」
 エイの表情は神妙だ。シノは彼にとっても、数少ない出自を問わず接する存在であったから、心配なのであろう。
 だが彼の口から出た言葉は、ラルトの予想を裏切っていた。
「今すぐ妃殿下の下へお出でになられてください」
「……ティー?」
 思考が上手く働かず、勤務中であることも忘れて后の愛称を呼んだ。后が、といい直しかけた自分を制して、エイが奏上してくる。
「女官長が姿を消して、妃殿下はそのまま伏せられてしまわれたそうです。リョシュン殿が傍についておられますが、体調はあまり思わしくないようで」
「馬鹿。それを早く言え」
 叱責して踵を返しかけ、手元の書類に気がついて足を止めた。今自分は勤務中で、この書類の束を処理しなければ執務室を離れるわけにはいかないのだ。酷く慌てていると、自覚せざるを得ない。こちらの逡巡を見て取ったのだろう、エイが苦笑を浮かべながらラルトの手元の書類を引き取った。
「こちらの処理は私が。ひとまず様子を見に行って差し上げるのが先決かと思われます陛下」
「だが」
「躊躇う必要はございません。陛下が一時席を外す間に天変地異でも起こらぬ限り、私共でも処理は付けられます。むしろ妃殿下――ティアレ様を失うことのほうが、陛下にとってとても痛いことなのではないですか?」
 確かに、と沈黙で肯定を示し、ラルトは嘆息した。一時席を外した程度で、政務に大きく支障がでるわけでもない。集った部下は優秀であり、この四年で経験も積んでいる。たとえ宰相が欠けていたとしても、多少の事態を切り抜けるだけの技量はあるし、何かが起これば、奥の離宮まで遣いをやれば済む話だ。本殿と奥の離宮との間には多少開きがあるものの、休憩の合間に往復できてしまう距離なのだから。
 “毒の茶会”で全てを失ってしまった頃とは違うというのに。まだ全てを自分ひとりで背負い込んでいるのかと、今どこぞの空の下にいる幼馴染は笑うだろうか。
「痛いなんてもんじゃないな」
 笑ってラルトはエイの肩を叩いた。そう、痛いなんてものではない。ティアレを失えば、自分はもう生きることはできないだろう。
 下民の出と陰口を叩かれながらも、惑うことなく自分についてきてくれている優秀な部下は、静かに一礼して自分を奥の離宮へと送り出してくれた。


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