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第十六章 古城の決闘 4


 自分の少し前を駆けていく裸足の足と白い衣装の袖を、ティアレはただ追いかけた。不思議なほどに静まり返った石畳の廊下には、倒れる人影すら見えない。つい先ほどまでは廊下の片隅に蹲る者も見られ、確かに遠くから喧騒が響いていたというのに。
 足音だけが確かに響く。こっちだよ、と導くように、裸足と白い裾は曲がり角においてのみ、ちらりと姿を見せ、再び消える。
 いつか、これと同じことを経験した。
 あの時は古い森だった。鬱屈とした林、羊歯が足元を傷つけるのもかまわず、今のような息苦しさに胸元を押さえて走った。
 帳はためく窓から、落ちて消えていった亡霊を思い返しながら、ティアレは思う。
 今、自分を導く幻は、あの亡霊と同じものなのだろうか、違うものなのだろうか。
 自分を生かすために導いているのか、殺すために導いているのか。
 そもそも、ティアレを導くこの幻は、ティアレ自身が見せている幻なのだろうか。
 ティアレは頭を振った。深く考えていても仕方がない。立ち止まってもどちらに行くべきなのかティアレには見当がつかない。あの幻と逆のほうへつま先を向けようと思っても、身体が知れずのうちに導かれる方向へ向かっている。
 幻はティアレを上へ上へと導き始めた。終わりのない階段を登り、とうとう幻の足音が消える。今まで忘れていた呼吸音が耳につき、ティアレは大きく肩を喘がせながらその場に手をついた。
 道の先に、開かれた扉がある。広い空間から漏れる光が、廊下の石畳の上にくっきりと存在を刻んでいる。ティアレは夢遊病者のようだと思いながら、おぼつかぬ足取りでその光のほうへ歩み寄った。
 金属音が、響いている。
 金属と金属が、擦れあう音。
 壁を伝って部屋の入り口にどうにかたどり着いたティアレは、その音の正体を認めて思わず息を呑んだ。
 二人の男が、剣を手に、互いの命の奪い合いをしている。
 武芸に縁遠いティアレの目から見ても、そのどちらの腕も達人の域を超越しているように感じられた。金属が音を置き去りにして一瞬だけ触れ合う。火花が散る。音が遅れて弾け、そして再び金属が触れ合う。一方の男は頬に裂傷を負っている。相対するもう一人の男も、切り傷らしきものが暗い赤の衣装から覗いていた。
 どちらもティアレの見知った人間だ。赤い衣装を纏っている男はラヴィ・アリアス。ティアレを捕らえて、このハルマ・トルマの古城に押し込んだ男だ。
 そしてもう一人は。
「ラルトっ……!!!!」
 かすれた声が喉から漏れ、広い空間に反響する。
 その呼びかけに応じた男が、目を見開いてティアレを認識し、動きを止めた。


「ティアレ?」
 先ほど自分が通過した広間の入り口に、壁に寄りかかるような形で立っていたのは、捜し求めていた女だった。
 彼女は瞳に涙を溜めてこちらに踏み出そうとしている。ラヴィの視線がそちらに向き、彼の口元に深い笑みが刻まれたことを悟って、ラルトはティアレのほうに身を捻り叫んだ。
「馬鹿! 隠れてろ!!」
 ティアレもまた、その意味を理解したらしい。ラルトの叱咤に彼女は身を引きかけたが、すでに遅かった。ラヴィが何かをティアレに向かって投擲する。雅な装飾の施された短剣だとラルトが認識したのは、それがティアレの足元に突き立ってからだ。青みを帯びた鋼のそれは、一瞬薄緑に発光し、雷光で以ってティアレの周囲を取り囲む。ぞっとしながら彼女のほうへ一歩踏み込んだラルトは、右からやってきた刃に対する反応が一瞬遅れた。
 鈍い肉を切り裂く音。血潮を腕に感じる。走る激痛に傷口を押さえながら、ラルトは数歩よろめく。ラヴィはそれ以上ラルトに斬りかかることもなく、剣にこびりつくラルトの血を軽く払い落としながら、ゆっくりとティアレの方に歩を進めていた。
「ヤヨイはどうした?」
 ラヴィがティアレに尋ねる。ラルトにとって、聞きなれぬ名前だった。
「置いてきました。その後、どうしたのかわかりません」
 ティアレが挑むようにラヴィを睨み据えて相対する。胸を張り、佇む姿は堂々たるものだったが、彼女の細い肩口はかすかに震えているようにも思えた。
「なるほど、彼女を振り切ったのか」
 ラヴィが足を止めて、感心するように大きく頷く。ラルトは崩しかけた体勢を整えながら、ラヴィに向かって叫んだ。
「彼女にそれ以上近づくな!!」
 ラルトの声に反応して、ラヴィがゆっくりと振り返る。
「いいとも。これ以上近づかないでいよう? だけど俺は、別に近づかずとも殺せるよ」
 ラヴィの声音はまるで子供に語りかけているかのように優しい。
 その微笑も穏やかだ。吐かれる言葉とあまりにちぐはぐな仕草が、彼の酷薄さを引き立てる。
「例えば」
 彼は言った。
「こんなこともできる」
 手品か何かを披露するときのような得意げな表情。ラヴィは空いた手で軽く宙を切る。刹那、ティアレを取り囲む雷光が消失し、代わって青白い光の帯のようなものがティアレの首に巻きついた。
「何を……!」
 それはティアレが漏らした呟きか、それともラルト自身の口から知れず漏れた言葉か。
 ラヴィが宙を切った指を軽く鳴らした。音が広間に反響すると同時、ティアレの首に絡み付いていた光の帯が、その白い肌に食い込み始める。
「あぐっ……!!」
 息を詰まらせ、ティアレが血の気を失っていく。ラルトはそちらのほうに駆け寄ろうと、足を踏み出した。が、何かに足を縫いとめられる。驚愕の眼差しで足元を確認すると、そこにもティアレの足元同様に、青白い光の帯が伸びていた。
絡み合い束になりながら艶かしく、うねる帯。
 まるで、死者の手のようにも思える。
 夢の残像を頭を振って払拭し、ラルトはラヴィを再度睨め付けた。
「やめろ貴様っっ!!! 彼女を放せ!!! 俺と対話したいんじゃなかったのか!?!?」
 ラルトの叫びに、ラヴィは微笑む。それに比例するように、ティアレの表情が苦悶に歪んでいった。
「彼女を放せと君はいうが、何故、放してほしいんだ?」
 彼は問うた。
「何……?」
「彼女を、愛しているから?」
「他にどんな理由があるっていうんだ!?」
 ラルトの叫びが空間に木霊する。ラヴィは一つ大きく頷き、ティアレの首元を魔力の光から解放した。どさりという彼女が膝を付く音。空気を求めて喘ぐ声が、大きく響いた。
 それを確認し、彼は言葉を続ける。
「いいだろう。じゃぁ君に選択を与えよう。国か、彼女か、どちらか一つを選ぶといい」
「……選択、だと?」
「そう」
 ラヴィが頷く。
「君はこの国が大事だろう? 何せ様々なものを犠牲にして、ここまで復興させたのだから。だから、この国か彼女か、どちらかを選ぶといい。国を選べば彼女を、彼女を選べば国を殺す」
 ラヴィの声は冗談を口にするかのように軽やかだった。しかしラルトにそれを告げる目は静謐で、一片の曇りもない。
 彼一人で、国を滅ぼす。本当に、冗談のような台詞だ。けれど彼にはそれができるのだろう。
「それで、今回の暇つぶしは終わりにするよ。悪くないだろ?」
 それがひどく名案だとでもいうように、ラヴィの声は弾んでいた。
 場が、沈黙する。
 焦点彷徨うティアレの目が、それでもこちらを見つめてくる。
 時が止まったように凍りつく場。沈黙の帳を破ったのは、ラルトのほうだった。
「……くくく」
 ラルトの喉元から漏れたのは笑い。それを押し殺しているこちらに、ラヴィは怪訝そうな顔を見せた。
「あはははははははははははっ!!!!」
 ついに堪えきれず、ラルトは声を立てて笑った。それに驚いたのか、ラヴィが目を瞬かせる。
「お、おいなぁ……だ、大丈夫か?」
 だがラルトは、わざわざ大丈夫だと答えてやる親切さを抱かなかった。
 代わりに口にしたのは、彼の前の問いに対する返答だった。
「……その二択は意味を成さない。どちらかを選べ、だと? 俺は迷わず、ティアレを選ぶさ」
 ラヴィが小さく眉をひそめる。
「俺は別に冗談で、国を滅ぼすっていってるわけじゃないんだけど」
「知ってるさ」
 この男の言葉一つ一つを冗談だと思うほど、自分は楽天家ではないつもりだ。
「なら何故、彼女を選ぶ?」
 不思議そうに、ラヴィが問うてきた。
「係累に手をかけ、仲間の血肉を贄にして、一つずつ組み上げてきた国よりも、己の立場をわきまえず、自らのわがままを優先し、周囲を危険に晒し続ける。安易に命を投げようとする、自らの価値もわからぬこの女を」
 ラヴィの言葉に、ティアレがそっと息を呑むのがラルトには見えた。彼女は下唇をかみ締め、じっと、ラヴィを見据えている。
 それはラヴィに罵られ、憤ったからではない。ティアレの瞳が揺れているのは、己が失敗を白日の下にさらけ出された羞恥心と悔恨からだろう。ラルトは、ティアレがそのような女ではないと弁護するつもりはなかった。その通りだったからだ。
 ただ、彼女がそこまで追い詰められたのは、自分のせいだったとは思っている。
 ラヴィは続けた。
「確かにティアレ・フォシアナは美しい。だからといって、それが君の大事な国にとって何になる? 美しいだけの女ならば他にもいるだろう。皇帝としての君の足を引いてしまうだけでしかない女に、君は何の価値を見出しているというんだ?」
「国だよ」
 ラルトは答えた。
「言ったろう? 国か彼女か、選べなどと、俺にとっては意味無きことだと。なぜなら彼女は国を象徴するもの――俺にとって、守りたい国そのものだからだ」
 ほう、とラヴィが関心するような吐息を漏らし目を細める。話を続けろ、と彼は言っていた。
 ラルトはティアレに一度微笑みかけてから、己の手を見下ろした。
「思い出したんだ」
 両の手。
 剣を握るために、政治家としては少し無骨だろう。男としては平均的な手の大きさだとは思う。
 ただ、その手で守れるものは、あまりにも少ない。
 大事なものは、すり抜けていく。
 いつも。
「何故、俺が皇帝になろうと、思ったのか」
 シノの問いを、ずっと反芻し続けていた。思い出せなかったのだ。何故、皇帝になろうと思ったのか。
 ようやっと、思い出した。
「最初は、幼馴染が何の憂いもなく笑える国が欲しいと思った。けれど待っていても、誰もそんな国など創ってはくれない。だから、俺は玉座を欲した。俺が、創ってやろうと思ったんだ」
 ジンとレイヤーナ。
 母親が死んだとき、あぁ、彼らだけは守らなければと思った。
 自分にとって彼らだけが世界を構成するものだった。彼らの笑顔だけは守らなければと思った。
 しかしこのような、血塗られてばかりの国では、彼らの笑顔が曇ってしまう――だから、皇帝になることを決めたのだ。
 ジンが宰相になったのは、おそらく自分と同じ思いからだろうと思う。自分が皇帝になると、目標を定めたとき、彼は、では自分は宰相になろうといったのだ。
 そうして、自分たちは為政者になった。
 そうして、自分は兵を引き、父から玉座を簒奪したのだ。
 今、手元に、最初に笑っていてほしいと望んだ二人はいない。
 二人とも、この両の手のひらから零れ落ちていってしまった。
 けれど。
 ひとつ、残ったものがある。
「ティアレは――俺にとっての国そのもの。俺にとって、俺が、皇帝であるための最後」
 皇帝であるための、意味だ。
 だから。
「彼女がいなければ、俺が皇帝をやっている意味がないんだよ!!!」
 叫びが反響する。
 ラヴィが半眼でラルトを見返してきた。
「呆れたな。女一人のために国の全てを投げ討つか」
「人の話を聞いていなかったのか? ティアレが国そのものだといっただろう。ティアレの笑いはティアレが一人でいても生まれない。ティアレの周囲の人々が幸せであること。その人々の周囲が幸せであること。どこかできっと、ティアレと繋がっている、この国の人間全てを、俺は選ぶと言ったんだ」
「屁理屈だぞ。国民と女、どちらも選ぶだなんて、欲張りだなぁ」
「そうだな。俺は一際強欲なのかもしれない。百と一を天秤にかけろといわれたら、どちらも救う方法を俺は探す」
「じゃぁ、今回、両方を選択するための方法はもう見つかったのか?」
「あぁ。お前を殺せばいいということに気が付いた」
 ラルトの答えに、ラヴィは満面の笑みを浮かべた。
「いいね。その考え、俺は嫌いじゃないな」
 ラルトは微笑む。そして腰に挿していた短剣を、ラヴィに目掛けて投擲した。


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