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第十一章 宴の前 5


 人気のない、打ち捨てられた小さな村。
 つい一月ほど前まではそれなりに農民が生活をしていたという。しかし半年ほど前から少しずつ人口が減り始め、とうとうここで生活を営むものがいなくなった。たった一月で、村はここまで荒廃するものなのだろうか。茅葺の屋根は腐り落ち、使うもののいなくなった農具が雨ざらしにされている。戸に張られた紙は全て破られて、枠だけが残る。その奥に見えるのはまるで野党かなにかが一通り荒らし終わったあとのような、酷い状態の屋内だ。
 イルバは足元から半ば土に埋もれるようにして置き去りにされた小さな人形を拾い上げて、嘆息した。
「……ここ、本当に水の帝国なのか?」
「水の帝国領内でも、一番貧しい地区の一つです」
 傍らに立つスクネが、荒涼とした土地を見渡しながらイルバの問いに答える。
「ここはデルマ地方との境に位置する場所です。デルマ地方はもっと荒れているでしょうね。時間がないので、そこまで足を伸ばすことはできませんでしたが。何せデルマの先を見ようとすれば、どんな馬を使ったとしても三日から五日はかかります」
「二日で見てこいとか、無茶いうよな、おたくの陛下は」
「それに二つ返事で頷いて実行できる貴方も、相当な方とお見受けいたしますが」
「馬鹿いうな。年寄りにはホントきついんだぜ。ことが終わったらまた堕落した生活にもどりてぇもんだ」
 人形はイルバの手の中で崩れ落ちた。その形をとどめてやることもできず、仕方なく土の上に落とす。手を軽く払って、イルバは再び村の跡地を見回した。
 ラルトは何を思い立ったのか、早朝にイルバの元を訪ねてくると、突然村を見てこないかと言った。
 シルキス・ルスが立ち寄ったと、思しき村を。
 村はご覧の有様だ。そこにシルキスの痕跡が残されているわけではない。しかしシルキスがここに立ち寄ったのは確かで、その日から、村人は一人二人と姿を消すことになった。
 彼らは、デルマ地方の城塞都市ハルマ・トルマに向かったのだ。
 新しき国を、自分たちの手で作ることを夢見て。
 そんな村を見ようと思ったのは、自分の怠惰が、一体何をしたか目に刻もうと思ったからだった。貧しい人々をそそのかした男はたしかにシルキスかもしれない。だがその根本の原因は己にある。そう、イルバは思っている。
 あの、革命の熱に狂ったバヌアで、シルキスと決着をつけ、彼の狂気を終わらせることができていたら、こんな風にはならなかった。
「……復興したっていっても、こんな地区もあるんだな」
「以前は、国全体がこれよりも酷い様相でした」
 その暗い時期を思い出しているのか、スクネが僅かに目を細める。
「打ち捨てられているだけならまだいい。逃げるところもない親子が、お互いを殺しあう。隣人同士で殺しあう。ある日突然、一つの村が辺りを赤く染めて地図から消え去ることもままありました」
「……想像したくねぇ話だな」
 イルバの出身国であるバヌアもさほど裕福な国であったというわけではない。だがそのようなことは起こらなかった。貧しい子沢山の親が、子供を人買いに売るということはある。だが、村ごとで心中を図るようなことが、国全体に広がるようなことはなかったのだ。
 暗い暗い、呪の縁に、沈んでいた古い国。それを、指で数えられてしまうほどの年数で立て直したラルトは、どれほどのものをそこに犠牲にしてきたのだろう。
「……そのようなことはなくなりましたが、貧しい人たちは確かにいます。そういった人々がもっとも多いのが、デルマ地方です」
「四年ぐらい前に併合したんだっけか?」
「そうですね」
 スクネは頷き、馬を引いていないほうの手で地平の先を指差した。
「あの山から向こうがデルマ地方です。ダッシリナにはあの山ぞいに下っていきます。デルマ地方には城砦国家ハルマ・トルマ……今の城塞都市ですね、がありまして」
「きいた。傭兵たちの国だってんだろ?」
 ラルトとの会話でも幾度か話題に上った城塞都市ハルマ・トルマ。現在国で最も頭の痛い問題だそうだ。流れ者たちが集う場所であるデルマ地方はどうしても法整備が整いにくい。施行をして幾許かましになったとしても、その治安の悪さはやはり他の地域と比べて群を抜いていた。
「田畑を耕しても、山賊が横行しては」
「なんでそんな場所を併合したりしたんだ? ラルトは」
「併合しなければ、手が打てませんし、流れた荒くれ者たちが別の地方を荒らす事態がままあったからです。……問題の多い地区なのですよ。今も、昔も」
 確かに、ダッシリナと隣接している以上、放置しておけばやがてダッシリナとの折衝問題にもなりかねない。それを避けるためだったのだろう。
 今もデルマ地方は揺れている。それに目をつけたのが、イルバの弟子だったというわけだ。
「……帰るか」
「そうですね。この辺りまで影響が出ていることを、陛下に奏上しなければ」
「また徹夜だな」
 馬を徹夜で走らせるとなるとうんざりするのは誰も同じだが、長らく自堕落な生活を送っていた者にとっては厳しい。
「後からこられますか?」
「馬鹿かてめぇは」
 何気なく吐かれたスクネの労いの言葉に、イルバは眉をひそめた。
「俺の見張り役のお前が俺を置き去りにしてったらラルトにどやされるぞ」
「……あぁ、そうですね。私、貴方が逃げ出さないように見張っていたんでした」
「お前、本気で忘れてたのか?」
 いいえ、忘れてはいませんよと微笑む男に、どうだか、とイルバは肩をすくめた。
「それほど、貴方が馴染まれているということです。……あともう一踏ん張り、していただけますか? ルス様」
「当たり前だ。気になるしな」
「えぇ。こちらが動く前に暴動が起きなければよいのですが」
「違う。そのことじゃねぇよ」
 イルバはスクネの察しの悪い言葉に舌打ちし、怪訝そうに顔を歪める彼に問いかけた。
「気にならねぇか? 荒廃の状況をみるだけなら、もっと前に見に行っててもいい。俺は暇人なんだからな。報告だってお前の部下だか、別の武官だか文官だかしらねぇが、地区を哨戒している奴らがしてるはずだろうが。こんな感じで、現在黒い本の影響が進んでいると」
「……えぇ、まぁ」
 イルバに示唆され、スクネもまた皇帝の命令に疑問を抱いたようだった。それもそうですね、と彼は腕を組み、思案に低く唸る。
 本当にイルバにこの様子を見せたかっただけならば、もっと早くでもよかったはずだ。例えば、シルキスの報告が上がってきたときに前振りぐらいあってもよかっただろう。
 しかしラルトは、突然、本当に突然に、イルバにこの視察を示唆したのだ。示唆、否、命令だった。行ってみないかと、柔らかい言いまわしを使ってはいたが、静かな口調には圧力がこめられていた。もとよりイルバにはラルトの提案を断るつもりはなかったが、もし、イルバが断っていたならば、イルバが出向くようになんらかを仕掛けていただろう。
 まるで、イルバを遠ざけるために。
 思いついて即座、実行に移したかのような。
「おかしいと思わなかったか? ラルトの様子」
「おかしい」
 スクネの声音は硬質で、彼の顔からは色が失せている。その様子を見て、イルバは毒づいた。
「……ラルトに何かあったことを、お前は知ってるな?」
 スクネは瞼を閉じ、察しのよい方ですね、と感想を述べる。だがそれ以上彼は何も言わない。
イルバは舌打ちしながら馬の[あぶみ]に足をかけた。体重を移動させて素早くその背に乗る。大人しい黒毛の馬は、ラルトから貸し出された駿馬だった。
「お前はどう思ってんのかしらねぇが、あのままじゃラルトが駄目になるぞ」
 それは、一つの国が滅び、王が病む様を間近で見てきた経験からの勘だった。
 ラルトは数多くのものを犠牲にしてきた。犠牲なくして、このような荒廃が十年足らずで復興することなどないのだ。イルバの母国、バヌアも崩壊から六年を数える。しかしその復興は遅々として進まず、民人はいまだ貧困と荒廃に喘ぐ。諸島連国の力を借りていてさえ、いまだ復興の兆しすら。
 ラルトが何を犠牲にしてきたのかは知らない。だが、想像がつくものもある。すれ違ったままの后妃を見ていればそれは察しが付く。自分もかつて、おざなりにしていったものだ。
「俺が心配してんのは」
 玉座というものはただでさえ孤独が付きまとうのに、自らそれを招き入れるようなまねをして。
 もっと早くに、皇帝の意図に気付けばよかったのだ。
 彼の元を離れるべきではなかった。
 特に、今は。
 手綱を引きながら、イルバは歯噛みし、馬上のイルバを見上げる男に、吐き捨てるようにして言い放った。
「救いの手をはね除けて孤独の穴に落ちる、馬鹿な皇帝のことだ」


「なんですって?」
 春も半ばに差し掛かり始めたのか、強い風が吹くようになった。
 奥の離宮から見える庭の木々は、今にもその風になぎ倒されてしまいそうな有様である。女のすすり泣きにも似た風の吹き抜ける音が奥の離宮の回廊には響き渡り、ごうごうという呻きをたてて壁を叩く。
 しかし空はよく晴れ渡っている。そんな日だった。
「なんですって?」
 シノは繰り返した。シノに何気なくその話題を振ったのは、奥の離宮に仕える女官の一人、ラナだった。彼女はシノの剣幕に恐れをなしたのか顔に脅えを見せ、僅かに身を引きながら唇を引き結んでいる。シノは自らを落ち着かせる意味合いを持って大きく深呼吸し、表情を緩めてラナに問いかけを繰り返した。
「もう一度いってちょうだいラナ。陛下が、どうしたと?」
「で、ですから」
 ラナは我に返ったのか背筋を伸ばし、シノに向き直った。
「陛下、ずっと執務室に篭って仕事を続けていらして……あ、今は謁見の間で兵将の方々と謁見されてらっしゃるらしいのですけれど。なんか、身体壊されないのかしらって、先ほどもキキたちと話をしていたところなんです」
 シノは下唇を噛み締めて立ち上がった。その際に膝の上に乗せていた刺繍道具が床に転がり落ちる。療養中の暇つぶしにしていた刺繍だ。自慢ではないが、あまり上手くない。
 ラナが慌てて腰を屈め、それらを拾い上げた。
「し、シノ様」
 シノはラナの指を踏みつけないように注意深く脇を通り過ぎ、女官の為に与えられている待合の部屋を出た。
 奥の離宮は閑散としている。ティアレがいないだけでこの有様だ。物悲しさを掻き立てる風の音が耳について、シノは知れず顔を歪めていた。
 ティアレ行方不明の報せを受け取っているのはおそらく女官の中ではシノただ一人だった。だから平素と同じように仕事に没頭する皇帝に、誰も違和感を覚えない。しかし報せを受け取っているシノは違った。
 急いた足取りを音が追いかける。かつかつかつかつ。広い回廊に足音は反響し、道行く女官や文官たちを驚かせた。彼女らは一様に目を見開いて立ち止まり、沈黙を保ったままシノに問う。
 いったい何をそんなに、急いているのかと。
(急いているのではないわ)
 シノは思った。急いて、いるのではない。
 これは悲しみだ。あるいは落胆。そして絶望。それが、足を動かしている。
 駄目だ。このままではならない、と思った。
 そしてそのまま、この国で起こった悲劇を見つめてきた女官長は、皇帝の下へと急いだ。


 玉座に腰を下ろすことは好きではない。出来ればその場所から逃げ出したいとすら思っている。
 その感想が変わったことなどは一度もない。ラルトは冷えた玉座を温めながら、謁見の間に控えるものたちにとつとつと語りかけた。
「話は聞いているだろう。デルマ地方で蜂起を計画する動きがある。貧困に喘ぎ、追い詰められてしまったことには罪を覚えるが、かといって血が流れる案に賛同し、他の地方を不穏に陥れることに関しては理解しかねる。先だってはメルゼバ共和国と共闘を宣じ、国境およびデルマ地方境の兵を厚くしたが、それだけで事態が収まるとも思えなくなってきた」
 謁見の間に片膝をついて控えるものたちは、兵士の長とも言えるものたちだった。剣を鞘に入れて床に置き、深く頭を垂れている。その連なる頭を見つめながら、ラルトは嫌だなと思った。
 その顔が見えないのが、ひどく嫌だ。
 しかしそれを口に出していうことはない。ラルトは言葉を紡ぐことを再開した。
「事態が動くまえに、兵を向け、制圧することにした。城塞都市ハルマ・トルマが件の動きの中心地であるという報告がある。……クルス少将」
「はっ」
「尖兵をハルマ・トルマに派遣。ことの次第を把握しこれを報告せよ。以後はセイラン将軍の指示のもとで動くとする」
「かしこまりまして」
「セイラン将軍」
「はい」
 一層深く頭を下げる、老域に差し掛かり始めた男を見下ろし、ラルトは命令を続けた。
「早急に兵を纏め、機会があればただちに出立できるように準備を整えよ。兵の幾許かはクルス少将に随行させる。その比率は将軍に任せる。命令が下るまで、残りの兵を待機させておくよう」
「かしこまりまして」
「全員、ことに備えるように。下がっていい」
 控えていた全員が、一斉に頭を下げ、退出のために立ち上がり始める。彼らの後姿を見守ったあと、ラルトは護衛兵たちも下がらせることにした。軽く手を振り、そしてこの部屋に誰も入れるなと言及する。
 広い空間に、自分ひとりが取り残される――……そう思ったのもつかの間、滑り込んできた影があった。
「……お時間をいただけますでしょうか? 陛下」
「衛兵には、誰も入れるなといっておいたはずだが」
「そのような顔色の悪さで、一人取り残すことなど、兵たちもできなかったのでございましょう」
 ラルトの言葉に平然と応対した女官長は、玉座の階下に控え、まっすぐにラルトを見上げた。
 ラルトはその糾弾めいた眼差しに不快感を覚え、居住まいを正しながら、同じく沈黙でもって彼女に応じる。
 ややおいて、彼女は口を開いた。
「昔、ティアレ様がまだ皇后ではなく、奥の離宮の客人であらせられたときのことです」
 シノの声音は静謐で、がらんどうの空間によく響いた。昔話をするには適切ではない場所だ。特に、ティアレの身の上の話をするには。
 普段ならば、シノは場所を変えましょうと提案するだろう。普段ならば、ラルトは場を弁えて発言しろと叱咤するだろう。
 今は、そのどちらでもない。
 ただラルトは玉座の脇息に頬杖をつき黙ってシノを見下ろし、ラルトの傍で起こった悲劇全てを目撃してきた女は、悲しみに瞳を沈めて昔話に興じていた。
「……ティアレ様が、この離宮を離れてしまったことがありました。嵐がやってくるというのに、何も持たずに出られた。平然と仕事を続ける貴方様に私は問いました。平気では、ないのですかと」
「……あぁ」
 そんなことがあった。ジンの手引きを受け、己の呪を案じた魔女は、与えられていた装飾品も衣服も何も持たずにこの城を出奔した。嵐の予兆の風が吹く日のことだった。
 昨日のことのように思い出せると同時に、何百年も昔のことのような錯覚すら、覚える。
「陛下は仰いました。平気なはずがないだろうと。……えぇ知っています。ティアレ様がいなくなられて、平気なはずがない」
「……何がいいたいんだ? シノ」
「平気なふりをするのはおやめになさいませ」
 一息にそう諫言した女官長は、空気を求めるように深く呼吸した。そっと吐かれたはずの彼女のため息は、しかしラルトの耳に重く届いた。
「平気なふりなど、していない」
「では、ティアレ様が行方知れずとなられたことに、陛下は平気だと」
「そうはいっていない。……シノ、最近お前と会話するときは、こんな押し門答ばかりだな」
 微苦笑を浮かべて、ラルトは言った。しかしシノは笑わなかった。ただ痛々しい眼差しをラルトに向けて、彼女は言葉を繰り返す。
「平気な振りをするのは、おやめになさいませ」
「シノ」
「泣き叫んでください。嫌だといってください。ティアレ様を探す。そのために、兵を私物化する愚挙に出てもかまわない。ティアレ様を探すために、城を飛び出し、ティアレ様の名前を叫んでください。お辛いと、いうのでしたら」
「……俺がこの城をあけたとして、誰が執務の部屋に山と詰まれた問題を解決するんだ」
「そのようなこと、ささいなことでございます」
「貧困に喘ぎ、血を流し、母子を失って叫ぶ民人の中から生まれた問題の、何が些細か言ってみろ!!」
 ラルトの叫びはこの上なく反響し、こだまする。己の叫びに耳鳴りを覚えながら、ラルトは下唇を噛み締めた。
「……そのように、叫べばよろしいのです。陛下」
 対してシノの表情はさして動いた様子もない。怒りを買ってしまったと後悔する様子もない。
 シノの目に宿るのは深い憐憫。それのみだ。
「ささいな問題。……えぇささいな問題でしょう。ティアレ様を探すために、少しばかり問題の処理が遅れてしまうことぐらい。ティアレ様を失って、貴方様が狂われて、問題を処理する人間がいなくなることのほうがはるかに問題ではありませんか」
「俺一人が出て行って見つかるような問題でもない。捜索の為の人手は出している」
「……何故、そこまで我慢なさるのですか?」
「我慢?」
 鸚鵡返しに問い返す。シノはそうですと頷いた。
「昔からそうでした。陛下も閣下もそしてティアレ様も。皆、痛みを飲み込んでしまう。閣下は笑う。ティアレ様は微笑む。貴方様は何事もなかったかのように仕事を続けられる。……お願いします。叫んでください。痛いのなら、叫んでください。狂われる前に」
「俺が狂っていると?」
「痛みを痛みと感じぬほど、感情を鈍磨させる方法を身につけたというのなら、それは狂っているとも呼べましょう。本当なら、人は痛くて叫び、失って悲しむのです」
「……まるでお前の物言いは、俺が人でない何かだといっているかのようだ」
「私が申し上げているのは、貴方様は哀しみに叫ぶことのできる、悲しみに叫ぶことしかできない、ただの人だということです。皇帝という、生き物ではなく」
 シノは瞼を伏せて、一度唇を引き結んだ。ラルトは、シノの言葉を待った。反論する気は起きなかった。気力がなかった。思考が鈍り、シノの言葉を咀嚼するだけの余裕がなかった。
「叫んで、苦しいから泣いて、失って、また泣いて」
 それでも、耳は静かに女官長の言葉を受け入れる。
「執務の机に積まれている問題は、そうやって発覚したものばかりです。……陛下、貴方様が叫ばれなければ、私たちは何もできない。どう対処すればいいのか、どう、貴方を支えていけばいいのか」
 何を言っているのか。
 自分が叫んで何ができるというのだ。
 何もできない。自分ですら何も出来ない。
 だからただ飲み込む。
 この悲哀を。
 後悔を。
 瞼を閉じる。ティアレを思い出す。瞼の裏に、今は、彼女の悲しそうな微笑しか思い浮かばない。
 大事にしたい。大事にする。そう、決めていたのに。
「……いいたいことはそれだけか? シノ」
「陛下」
「下がれ」
 シノはまだ何かを言い募ろうとしたが、結局は口を閉ざして起礼の為に深く腰を折った。
 さらさらという衣擦れの音。やがて伝わってくる、扉の動く気配。
 そして降りてくる沈黙。
 ラルトは再び頬杖をついて、先ほどまで家臣たちがいた場所を見下ろした。そういえば、ここで初めてティアレに会ったのだと思い出した。ハルマ・トルマから献上されてきた、美しい傾国の娼婦として。
 ――あなたをほろぼしますが、それでもよろしいですか。
(……ティアレ)
 かつて娼婦だった女はそういった。自らの背負う滅びの呪は、お前を滅ぼしかねない。この手を取るということはそれを意味する。女は感情の感じられぬ眼差しで、静かにラルトに警告したのだ。
 呪いは、本当に解かれたのだろうか。
 年を重ねるに連れ付きまとう違和感。呪が解かれたというのなら、どうしてこんなにも様々なものをすれ違い失っていかなければならない? 今ラルトの手からティアレが零れ落ちようとしている。その彼女を想う自分は、矜持との間に挟まれて狂い掛けている――シノの、言う通りだ。
 狂い掛けているのだ。自分は。
 滅びの呪は、まだ消えていなかったのかもしれない。
 それだけではない。
 民を想い、彼らの叫びに耳を傾け、問題にかじりついていても結果が出せなければ報われぬ。革命という甘い名前に踊らされたデルマ地方の民は、確かにラルトの誠意を裏切ったのだ。
 これは、呪だろうか。
 それとも、ただ単純に、どの国も直面する通過点の一つだろうか。
「……仕事、しなきゃな」
 自分の手元に残るのは皇帝という名前のもとにラルトに与えられた責務だ。それでも逃げ出すことはできない。ラルトが歩んできた道の途中、犠牲になってきたかつての仲間たちの亡霊が、ラルトをこの玉座に縛り付けている。
 のろのろと玉座から腰をあげ、ラルトは歩みだした。そして、どこをどう歩いたのかもわからない。気がつけば玉座の間でも執務室でもなく、宮城の外だった。
 気圧の穴に落ちたのか、激しいばかりの風は止んで、周囲は静まり返っている。
 水の帝国皇都が一望できる小さな丘。そこに建てられた墓標は、春風に吹かれる鳥と花を懐に抱いてそこにあった。
 ラルトは墓標の元に歩を進めると、その石碑を見下ろした。真っ白な墓標は、人の手が入り常に綺麗に保たれている。周囲に所狭しと植えられた花々のいくらかは、ティアレが植えたものだった。
 ラルトはそっと、墓標についた土埃を払った。鮮明に現れる、一つの名前。裏切りの呪によって失われてしまった、一つの象徴。
「……レイヤーナ」
 ティアレが行方不明になったと報告を受けたとき、彼女の亡霊をみたような気がした。まるでラルトの運命に同情するように沈んだ眼差しで、確かにラルトを見つめたのだ。
「教えてくれレイヤーナ」
 ラルトはその場に膝をついて、冷たい石碑に額を押し当てる。
「教えてくれ。俺は一体どうしたらいいんだ?」
 膝に押しつぶされた草花の匂いがラルトの鼻腔を掠める。だがそれ以上に、頬を伝うものの塩辛さがラルトの感覚を塗りつぶした。石碑に爪を立てながら拳を作り、ラルトはかみ合わせた歯の隙間から、搾り出すように呻く。
「ジン」
 爪が赤黒く変色する。石に引っかかって割れたのかもしれない。しかしその痛みすら、今は感じない。
 考えないようにしていた。
 長く、考えないようにしていた。
 呪いの根幹は過ぎ去った。裏切りの呪いに弄ばれて、何かを失う時は終わったのだと思った。だからこそジンを見送った。彼を殺すのはまっぴらだった。
 彼を殺せば、ティアレは己を責めるだろう。ラルトから無二の親友を失ったことに対して。
 彼を殺せば、最後まで後悔するだろう。呪いに踊らされたことが、消えぬ傷となり、いずれはその傷が腐食してティアレを傷つけていくかもしれない。
 何よりそれ以上に、失いたくなかった。
 苦楽を共にしてきた家族を。
 失いたくなかった。だから、見送ったのだ。
 けれど。
(お前がこのまま帰ってこなければ、一緒じゃないか)
 いないのは死んだも同然だ。年を重ねるごとに、無理やりふさいだ傷が口を開けて、暗い闇を覗かせる。
 ジンがいれば、後を任せて飛び出していける。以前、ティアレが姿を消したとき、遠慮なくジンに全てを押し付けて探しにいけたように。
 馬鹿野郎。何故早く帰ってこない。
 お前が帰ってこなければ、皆傷つくんだ。もう十分頭は冷えただろう。大切なものも見つけただろう。幸福を連れて、帰ってこいよ。
 でなければ、真の意味で、俺もティアレも、幸せなどになれはしないではないか。お前を傷つけ追い出したそのままで、傷跡が塞がりきらぬそのままで、幸せになど。
 玉座に、ラルトを残して皆去り行く。レイヤーナも、ジンも、そして、ティアレも。
 たすけてくれ。
「……たすけてくれ」
 ラルトはその場に蹲り、自らを抱え込みながら呻いた。
 そんな自分に手を差し伸べる者がこの場にいないことはラルト自身がよく知っていた。
 しかし皇帝という仮面をかなぐり捨てて皆の前で叫べるほどに、己は強くないということも、ラルトはよく知っていたのだ。


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