気を許す(裏切りの帝国)


 ナドゥの工房に到着すると出迎えるはずの男が珍しく姿を見せない。不思議に思って若衆のひとりに尋ねると、上で読書に勤しんでいたという返答があった。ナドゥと顔なじみの商隊がどっさり図書を持ちこんだのだという。
 若衆に礼を告げて二階の居住区へ上がる。ジンの部屋の戸布は半端に巻き上げられていて、染色鮮やかな垂れ布が風に翻っている。それを避けて、シファカはひょいと男の部屋を覗いた。
 はたしてジンはいた。部屋の寝台で本を腹に抱えて仰臥していた。周囲には多くの図書。
 男はすーっと寝息を立てている。彼を起こさぬように気を払いながら、シファカは本を覗きこんだ。
 細かな文字。図面。内容。シファカだったら頭痛を起こしている。
 あぁこの男、頭いいんだなぁ、などと、複雑な心地となる。腕も立って頭もよい。イヤミか。
 半眼で男のひたいをぱちりと指ではじいたら、男が跳ね起きて驚いた顔でシファカを見た。
「…しっふぁかちゃん?」
 寝起きの声だ。
「寝坊だよ、ジン。稽古つけてくれる約束の時間」
「俺、寝てたの?」
「寝坊だって言ったじゃないか」
「起きなかったの? 俺?」
 愕然とした顔。
「そうだけど…」
 どうしてそのような顔をするのかわからず、シファカは逆に狼狽した。
「具合でも悪い? 体調が悪いなら寝てていいけど」
「いや…大丈夫」
 男は何か考えたようすを見せたのち、訝るシファカに微笑んだ。
「稽古、だよね。ごめん。寝坊して」
「いいよ」
 と、シファカは微笑み返した。胡坐を掻いたままの男に手を差し出す。
「ほら、起きるならしゃきっとしよう。…よく寝られた?」
「うん」
 男がシファカの手を強く握り返した。
「…よく、眠れた」