魔法の国へ連れてって(魔法の国へ連れてって)


 私は走っておりました。絨毯がお空を飛んでいたのです。美しい色合いと模様をした絨毯を見て、私は胸をときめかせました。あぁ、あれにはきっとシンドバッドが乗っているのだわ! 夢見がちな子供であります私が夢中になっておりましたのは、何を隠そう千夜一夜、アラビアンナイトと呼ばれる物語でございまして。私は、色のはげてしまったその本を常に抱えて、鍵の掛かったご近所の家に、ひらけーごまーと魔法の呪文を唱えては徘徊するような子供でした。私のことを知っている心優しい老婦人は、時折扉を開けて私にお菓子をくださいます。若い夫婦がお昼ごはんをくださいます。私のおうちの扉は、父が『知らないお姉さん』を外に出すまで、開くことは決してないのですけれど。
 話がそれてしまいました。私はとにかく、走っておりました。絨毯が空を飛んでいるのですもの! 追いかけずしてなんとする。私は見知らぬ町へ私を導く絨毯を夢中で追いかけました。高い空を気持ちよく泳ぐ絨毯。あれにはきっと、シンドバッドが。
 乗っていなくてもいい。私を、連れて行ってほしかったのです。
 魔法の国へ。
 どこか見知らぬ土地へ。
 ふと、待て、という声が聞こえました。いつの間にか、私の隣には見知らぬ少年が息を切らして立っていました。
 彼もまた、私と同じように、絨毯を追いかけているようでした。
 少年の呼びかけに応じてでしょうか、絨毯は徐々に失速して、アスファルトの上にぽとりと落ちました。シンドバッドなど乗っていません。私は無性に、悲しくなってしまいました。
 私は遠くに来ていました。知っている人も、知っている景色も、何もありませんでした。私はお腹がすいていました。わんわん泣いてしまいました。
 その少年は、困惑顔で私を彼のおうちに連れ帰ってくれました。彼のおうちの玄関に、絨毯は綺麗に収まりました。干しているときに、風に攫われてしまったのだと、少年は言いました。
 少年は、一夜、といいます。
 今、一番近く私の傍にいる少年は、私の名前を柔らかく呼びます。
 チヤ。
 千夜。
 私はアラビアンナイトの本を抱えるかわりに、少年の手をとるようになりました。


 連れて行って。連れて行って。私を魔法の国へ。
 夢中で追いかけた空飛ぶ絨毯は、私を魔法の国へは連れて行ってくれませんでした。
 けれど確かに、私を私が大好きな、千夜一夜の世界へは、導いてくれたのです。