平等に訪れる(弱酸性雨)


「いかがですかな?」
「懐かしいですね」
 教頭の問いに、彼は即答した。周囲を見回し、目を細める。古い校舎は自分が卒業した日から時を止めたようにも見えた。自分が卒業した後も、何人もの新しい子供を招きいれては、巣立ちを見送ったに違いないのに。
「教師として、この学校に戻れたことをうれしく思います」
 彼は言った。教頭も満足そうに笑って、春が待ち遠しいですねと言った。



「それにしてもつまんない」
 次の授業のために教室を移動している途中、友人は口先を尖らせた。
「何がつまらないの?」
「だってさー、急に妹尾先輩のことを聞いたりするから。これはとうとう、コマちゃんにも春がやってきたのかって期待したのに」
「私にそんな日が来ると思うの? 梓」
 私は呆れて友人に尋ねた。友人はうーんと、首をひねる。
「わかんない。けど、きっとそういう瞬間は平等に来るよ」
「……梓には来たの?」
 私の問いに、友人は立ち止まる。
「妹尾先輩、すごく優しいんだよ」
「……女の子にはどの子にも優しいって有名だけど」
「そうじゃない。……なんだか、染み入る優しさなの」
「……ふぅん?」
「あっと思ったときには、その存在が、心を溶かして入り込んでるんだよ」
 胸に手を当てて、彼女は微笑む。彼女の好きな人は今別の人とお付き合いしているのに、何がそれほどに幸せなのか。私なんて、憧れの先輩を取られた。それだけであの美形の先輩の横っつら叩きたいぐらいだというのに。
 じっと凝視する私に、照れた笑いを浮かべて友人は言う。
「はずかしいこと言った!」
「……うん。恥ずかしいね」
「否定してよ!」
 私の背を叩こうとした友人の手から、私は笑いながら慌ててその場を飛びのく。すると背中に、思いがけず衝撃があった。
「――っ!?」
 その場に座り込んでしまった私は、何が起きたのかよくわからず、強かに打ちつけた膝の痛みに顔をしかめていた。
「すみません」
 大きな手が、謝罪と共に差し出される。
「大丈夫ですか?」
 聞きなれない男の声だ。
 けれど、雨のような声だと思った。
 音もなく降り、いつの間にか地面にしみこんでいる、雨のようだと。
 声の主は見慣れない男の人だ。しかし学生でないことは確かだった。
 私は差し出された手を取って立ち上がる。
「コマっちゃん! 大丈夫!?」
「大丈夫……」
「本当に、すみませんでした」
 男の人は、申し訳なさそうに謝罪する。
 多分、この男の人に当たって、私が勝手にこけたのだ。私のほうが謝らなければならなかった。
 男の人の隣にいるのは教頭だ。私は友人と頭を下げて、次の授業の教室へと、足を早めた。



「大丈夫でしたか?」
「えぇ」
 教頭の言葉に頷いた彼は、廊下の端に消えた少女たちの背中の残像に、目を伏せる。
「――と、思った」
「……え?」
「いえ」
 彼の独り言に、教頭が聞き取れなかったと首を傾げる。彼は首を横に振って、笑った。
「いいえ、なんでもありません」
 行きましょう。そう促しながら、先ほどの感想を胸中で反芻する。
 雨を待つ、硬い蕾のような子だった、と。