予兆(神祇の楽園)


 神は眠らない。眠るという感覚を知らない。しかしここ最近、エスメラルダをまねて眠れるようになった。彼女を、胸に抱いているときだけ。
「エス?」
 ヒトガタの感覚にしてみれば、おそらく転寝ほどの時間。眠りというものがひどく心地よいものであると同時、目覚めたときレインルートスはいつも不安になった。眠っている間に、時が流れすぎていないか。エスメラルダが、死んでいないか。
 エスメラルダは目を開いて、窓の外を見つめていた。その姿に、安堵する。眠りに落ちたときと寸分変わらぬ位置に彼女はいた。彼女の美しい横顔は、少し曇っている。
「エスメラルダ?」
 もう一度名前を呼ぶと、エスメラルダは微笑んだ。
「夕焼けが、赤いの。レイン」
「夕焼けは赤いよ」
「違うの。そうではなくて……なんというか、血のようなのよ」
 エスメラルダの目線につられて窓の外へ視線を動かす。確かに、木枠の彼方にある太陽が、いつもと違って不自然なほどに赤い。
 言われてみれば確かに、血の色に似ていた。
「貴方の目の赤はとても安心する色なのに」
 こちらの瞼に指先で触れてくるエスメラルダは、何かにおびえているかのようだった。
 ここのところ、エスメラルダはふとした瞬間に怯えを見せる。それが怯えだと、気づいたのは、注意深い観察の末。一昔前の自分ならば、きっと気づかなかっただろう。
「何を不安に思っているの?」
「不安?」
「君はここのところ、色んなものに不吉を見出す」
 髪をゆっくりと撫でながら尋ねる。驚いた顔で瞬いたエスメラルダは、苦笑した。
「まぁレイン。ようやっと人の機微というものがわかるようになったの?」
「……これが、馬鹿にされている、ということか?」
 くすくす忍び笑いをもらしたエスメラルダは、頭をまたレインの胸の上に乗せた。
「ごめんなさい。違うのレイン。……こわいの。しあわせすぎて、こわい。貴方が、どこかへ、いきそうで」
 今この瞬間も、昔の私が見ている、幸福な夢であるような気がして。
 そんな風に言うエスメラルダの気持ちが、わからないでもなかった。自分も、怖かったからだ。彼女の危惧とは別の意味だったけれど、瞬きする間に彼女を失うのでは、という恐怖は自分も同じ。
「大丈夫。私はどこにもいかないよ」
 君が死ぬまで。君が死んでも。
 この脆いヒトガタが死ぬ瞬間というものを、想像できなかったけれど。
「……ありがとうレイン」
 そういって目を伏せるエスメラルダが、ぽつりと呟く。
「あぁ、明日は雨かしら」
 夕暮れの太陽の周りに、暗い雲が集まっている。
 レインは手を伸ばし、宙を横に切る仕草をした。細長い雲が風に流されたように集まり、太陽を隠していく。
 それはまるで、神の指が、人の目を塞いでいく様によく似ていた。