醜悪な恋(弱酸性雨)


 放課後、誰もいない教室が好き。そこにまっすぐ伸びる私だけの影も。日が沈むにつれ、影がゆっくりと朧になっていく様子を見るのが好き。だから私はいつも放課後窓辺に立って、その影を見る。
 あぁ、私の存在も、こんなふうに消えればいい。
 痛みもなく、穏やかに、闇にまぎれてしまう私の影に、私はいつも嫉妬するのだ。
 消えてしまえばいいのに。
「駒木さん?」
 私以外、誰もいないはずの教室に静かに響いた男の声。私は驚いて面を上げた。
教室の入り口から覗いていたのは、丹精な男のひとの顔。夕焼け色に染められた若い成人男性の顔を、私は見つめ返した。
「せんせい」
「駒木さん、まだ帰ってなかったのですか」
 先生は私のほうにゆっくりと歩み寄ってくる。光沢ある灰色のスーツに包まれた長い足を、私はぼんやり見やる。足は私と徐々に距離を詰めて、私よりも人一人分間を空けたところで止まった。
「駒木さんは帰宅部のはずですね? 今日は日直でもないでしょう。教室に一人で、何をしていたのですか?」
「課題です」
 私はそっけなく返して、教室の一角を指差した。私の席である机の上には、教科書と参考書と数式が書き付けられたノート。先生はそれを眺めて肩をすくめ、優秀だな、と呟いた。
「数学も英語も歴史も、ついでに言うなら古典漢文も、すべての教科において主席なのに、どうして私の現国だけだめなんでしょう?」
 本当に不思議そうな先生の問いに、私は小さく首を傾げてみせる。
「さぁ……人の想いに鈍感だからでしょうか」
 自嘲めいた微笑を口元に浮かべて答える私に、先生は不快そうに眉をひそめた。
 私は嘆息して言葉を続ける。
「茶化しているわけじゃありません。本当に、単に苦手なだけです。私もどうしてあれだけ点数がとれないのか、わからないんです」
「授業で出ている範囲しか、だしていないはずですが?」
「本当ですね。私も、そう思います」
 先生の作る試験は決して難解ではない。授業をまじめに受け、ノートを取り、そのノートに目を通せば回答率は九割を超えるだろう。残り一割は、漢字や熟語の知識を問われるだけだ。それも日々ある小テストの内容の復習で、私のような「優等生」ならにべもなく答えられるようなものばかり。
 それでも、私はこの先生の出す問いに、正しく答えることはしない。
 ただ、この美しく、生真面目で、やさしい男の注意を惹きたいがために。
 先生は、職員室で同僚から、からかわれているのだ。
 学年主席である私がこの教師の試験のみ、下から数えたほうが早い順位を維持している。品方向性、至極真面目で教師にとってこれ以上ないほど扱いやすい生徒である私に、反抗的ともとれる態度をとられている。
 彼は真面目であるがゆえに頭を抱え、私と正面から向き合おうとする。しかし私は皮肉な態度を崩さない。正面から彼と対峙し、冷笑すら浮かべて優等生の仮面をかぶり続ける。

 ――ねぇ先生、知っていますか?
 小さい男の子が女の子にちょっかいをかけてしまう理由。
 私のあなたへの対応は、それと似たようなものなんですよ。

 それでも私は先生に、告白しようなどとは思わない。付き合ってほしいとも思わないのだ。生徒に手をだして幸せになれる教師などいるのだろうか。たとえ一時は幸せでも、万が一周囲にその事実が知られれば、白い目で見られる。
 それに、私からこの教師に想いを告げたとして、この教師が安易に生徒と付き合うことを承諾するような男ならば興ざめだ。彼には、ぜひとも、美しく正しい男のままでいてほしい。
 そして誰よりもやさしい恋愛をしてほしい。
 愛しい男には、誰よりも幸せな恋をしてほしいって思わない?
 自分の恋をかなえるばかりが、恋ではきっとないと私は思うの。
 それともこれは、臆病なだけかしら。
 優等生の仮面が剥がれ、独占欲という名の蛇が頭を擡げる。その醜悪な姿を、誰にも見られたくないがために、同級生たちのように無邪気に振舞うことができないひねくれ物の私。
 あぁ、足元の影が消える。
 それと同じように、私の存在も消えてゆければいいのに。
「……駒木さんは……」
「はい」
 口を開いた先生に、私は直立不動で返事する。結局彼は小さく頭を振って、困ったように笑った。
「いえ。なんでもありません」
 先生はそのまま踵を返して、教室の戸口に向かって歩き出す。
 重なっていた影が、二つに分かれて、離れていく。
「先生」
 どうしてそのとき、先生を引き止めたのかわからない。彼を呼び止めたのは確かに私なのに、どんな言葉を続ければいいのかわからなかった。
 先生は、私の言葉を待っている。
 その、澄んだ瞳で私をまっすぐに見つめながら。
「……先生は、生徒に対して敬語ですね。どうしてですか?」
 別に、意味を知りたいと思ったわけではない。彼を呼び止めたことに意味がないのと同じように。それでも待たれている彼をそのまま行かせるのも意地悪が過ぎるだろうかと思い、授業中に思ったことを問いという形で口に出しただけだった。
「教師が敬語で話していると、おかしいですか?」
「……そうですね。そんな馬鹿丁寧な敬語は、先生ぐらいだと思います」
「馬鹿丁寧」
 私の言葉のどこが面白かったのか。舌先でそれを反芻した先生は、おかしそうな笑いをこぼして言った。
「私が生徒だったとき、威圧的だった教師が好きではなかっただけの話です。生徒だからといって威圧的になる意味がわからない」
「せんせ」
「気をつけて帰りなさい。暗くならないうちに。女性なんですから」
 私はその言葉に笑った。私の浮かべた笑みの意味をこの教師がどうとったのかは知らない。彼はやわらかく微笑み返し、そして教室を去っていった。
 私は笑う。
 嗤う。
 嗤い続ける。

 成人もしていない小娘に、女性なんて表現使うのはあなたぐらいなものですよ先生。
 生徒を生徒として侮らずに接するのも、あなたぐらいなものですよ。

 そんな風に扱うから、私はあなたを好きになんてなってしまったんだ。
 私など、たかが大勢の一人に過ぎないともわかっているのに。
 私はまだ少しだけ太陽の面影を残す空を振り返る。ゆっくりと消えていく橙色。そのフェードアウトにあわせるように、ゆっくりと瞳を閉じた。
 世界は闇色に塗りつぶされる。
 けれど私は消えなかった。
 醜悪な想いを、抱えたまま今日も私は息をしている。