手帳(女王の化粧師)


 どうしようもなく男のことを恋しく思うときがある。考えたくないと思っているのに、次から次へと、つないだ手の冷たさや、低く耳に優しい声や、あの蜜色の髪が日に透ける様などが押し寄せて、窒息する。
 そういう日に限って、非番で、友人も不在だったり、または忙しかったり、なぜに自分だけ暇を持て余しているのか、と、勘ぐりながら、鬱々と雨の音を聞く――密閉された自室は、水槽のようだ。
 空虚な時間をつぶすべく、主君の生家を訪ねてみる。かつての職場は、とても静かに緩慢に時が流れている。あの頃のお祭り騒ぎが嘘のように。誰もが粛々と、自らの生活と、女王の別宅を守っている。
 友人が、ちょうどよかったと顔を綻ばせた。そして申し訳なさそうに言う。
「これ、あの方の私物なの。部屋をとりあえず閉めておこうと思うから…預かってもらっていい?」
 小さな箱に収まっているものは手帳、筆記具、そして陶器の菓子入れ。
 衣類を除けば、あの男の純粋な私物は、それだけしか残されていなかった。それだけしか、あの男は持っていなかった。
 城の自室に戻り、寝台に寝そべりながら、手帳を開く。流麗な文字で綴られた、要点のみの覚書。青い薄墨で記された言葉の並びを、なにげなしに目で追う。楽師、画家、そのほか、様々な職人名が並ぶ。どれも無造作に、斜線が引かれている。
 化粧師。検討。並ぶ、いくつかの名前。その上にひかれた斜線。最後に、養母と、自分の名。心臓が、大きく鼓った。続く日付。あの日。自分が彼の手を取ってゆりかごから旅立った日。
 そこからは、自分も思い当たる単語が並ぶ。それに導かれて、あの日々が生々しく蘇る。苦しい。苦しい。くるしい。あの色鮮やかな。あの、濃密な。あの。記憶に、おぼれる。
 終盤に差し掛かると、館で修繕すべき部分が書きつけられている。笑ってしまう。あなたは、とおくへいくつもりだったでしょうに。なぜ、そんな。なぜ。
 最後の頁には、たったひとこと――わたしの、なまえ。
 ねぇ、と、話しかける。もういない男に。この手帳の主に。ねぇ。ねぇ。貴方にとって私はなんだった? 私をどうしようと思っていた? 私は、貴方の、わたしは。
 手帳を胸に押し抱いて、嗚咽した。喉をかきむしり、悲鳴のように、声を上げた。もうこれで最後にするから。これで、泣くことも。恋しく思うことも。これで。
 雨は降っている。降り続いている。また何度でも降るだろう。そしてその都度、私はまた、雨に紛れて、泣くのだろう。